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第3章 嫉妬の絵筆
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数日が経ちました。
ユリウスはというと、相変わらず「押しかけ弟子」として、いえどちらかというと「半分居候、半分執事」のようにアトリエに居座りつづけています。
「セレナ様、このパンはもう少し焼いた方が香ばしいですよ」
「……あなた、いつから食通になったの」
「下宿先で色々覚えたんです。僕がいなくなってから、もしかして食事をおろそかにしていたんじゃないですか?」
「!! な、なぜ知っているのですか」
「図星ですね」
こうして彼のペースに巻きこまれ、私の静かなアトリエ生活はすっかり賑やかになっていたのでした。
そんなある日。
久しく社交から距離を置いていた私のもとへ、思いもよらない知らせが届きました。
「セレナ嬢。実は、縁談のお話が持ち上がっておりまして――」
使用人を通して持ち込まれたその報せに、私は思わず筆を落としました。
「……縁談?」
名家アルディナ家の娘……という肩書きは、私がどれだけ絵筆一本で生きようとしても、社会からは切り離せないものです。
これまでも何度か持ち上がった話をやんわりと断ってきましたが……今回はどうやら先方も本気のようで。
思考を巡らせていると――その背後から、ひどく不機嫌そうな声がしました。
「……縁談、ですか」
振り返れば、ユリウスが立っていました。
眉間に皺を寄せ、琥珀色の瞳を鋭く光らせています。
「どこの、誰なのです」
「ゆ、ユリウス。落ち着いて」
「落ち着けません。そんな話、必要ありません。あなたは……」
言いかけて、彼はぎゅっと拳を握りしめました。
「あなたは僕の師匠で……」
一瞬、そう続けようとした。
けれど、彼は小さく息を吸い込み、そして別の言葉を選びました。
「……いえ。僕だけの人です」
胸の奥がドクンと大きく鳴り、私は返す言葉を失いました。
「ユリウス……何を……」
「縁談なんて許しません。あなたは僕の隣にいるべきなんです」
その声音に、確かに怒りとも嫉妬とも呼べる熱が燃えていました。
師弟という理性的な関係を望むなら――否定すればいいのです。
けれど私はなぜか、否定の言葉をすぐには発せませんでした。
その後、いつもの作業に戻ったのですが……ユリウスの態度はどこか拗ねているようでした。
「ユリウス、パレットを取って」
「……はい」
渡してくれるものの、普段より力強く置かれる。
「筆を洗ってもらえますか」
「ええ、洗いますけど」
……乱暴にしぶきを飛ばす。
子どもの頃、少し嫉妬すると唇を尖らせてばかりいた彼。
大人になっても、その本質は変わっていないのかもしれません。
思わず笑いそうになってしまいました。
「ふふ」
「……何がおかしいんですか」
「いえ……相変わらずね、って。大人びた顔して、内心は昔のまま」
「……っ!」
ユリウスが耳まで赤くして、そしてふいに私の手を引き寄せました。
「な、何を――」
彼は黙って、私の手を強く握りしめました。
その熱がじかに伝わってくる。
「僕はもう子どもじゃない。あなたを失いたくないんです」
その必死さに、私は言葉を呑みました。
彼の指が頬にすべり、優しく触れる。
「縁談のことなんて、考えなくていい。あなたの隣にいるのは、僕でなければ嫌だ」
あまりに真剣な声に、胸が痛いほど高鳴ります。
けれど同時に、どうしていいかわからない。
「ユリウス……」
困惑を隠しきれず、そう名を呼ぶのが精一杯でした。
その夜。
彼が離れに戻ったあとも、私はずっと胸の奥を押さえていました。
どうしてこんなに心が揺れてしまうのかしら。
師弟として線を引こうとするほど、彼は距離を詰めてくる。
――でも。
「僕だけの人です」と言われたとき、不覚にも胸が温かくなったのは事実でした。
窓辺に立ち、月を仰ぎながら、小さく笑みをこぼしてしまいました。
「……やっぱり、困った子ね」
ユリウスはというと、相変わらず「押しかけ弟子」として、いえどちらかというと「半分居候、半分執事」のようにアトリエに居座りつづけています。
「セレナ様、このパンはもう少し焼いた方が香ばしいですよ」
「……あなた、いつから食通になったの」
「下宿先で色々覚えたんです。僕がいなくなってから、もしかして食事をおろそかにしていたんじゃないですか?」
「!! な、なぜ知っているのですか」
「図星ですね」
こうして彼のペースに巻きこまれ、私の静かなアトリエ生活はすっかり賑やかになっていたのでした。
そんなある日。
久しく社交から距離を置いていた私のもとへ、思いもよらない知らせが届きました。
「セレナ嬢。実は、縁談のお話が持ち上がっておりまして――」
使用人を通して持ち込まれたその報せに、私は思わず筆を落としました。
「……縁談?」
名家アルディナ家の娘……という肩書きは、私がどれだけ絵筆一本で生きようとしても、社会からは切り離せないものです。
これまでも何度か持ち上がった話をやんわりと断ってきましたが……今回はどうやら先方も本気のようで。
思考を巡らせていると――その背後から、ひどく不機嫌そうな声がしました。
「……縁談、ですか」
振り返れば、ユリウスが立っていました。
眉間に皺を寄せ、琥珀色の瞳を鋭く光らせています。
「どこの、誰なのです」
「ゆ、ユリウス。落ち着いて」
「落ち着けません。そんな話、必要ありません。あなたは……」
言いかけて、彼はぎゅっと拳を握りしめました。
「あなたは僕の師匠で……」
一瞬、そう続けようとした。
けれど、彼は小さく息を吸い込み、そして別の言葉を選びました。
「……いえ。僕だけの人です」
胸の奥がドクンと大きく鳴り、私は返す言葉を失いました。
「ユリウス……何を……」
「縁談なんて許しません。あなたは僕の隣にいるべきなんです」
その声音に、確かに怒りとも嫉妬とも呼べる熱が燃えていました。
師弟という理性的な関係を望むなら――否定すればいいのです。
けれど私はなぜか、否定の言葉をすぐには発せませんでした。
その後、いつもの作業に戻ったのですが……ユリウスの態度はどこか拗ねているようでした。
「ユリウス、パレットを取って」
「……はい」
渡してくれるものの、普段より力強く置かれる。
「筆を洗ってもらえますか」
「ええ、洗いますけど」
……乱暴にしぶきを飛ばす。
子どもの頃、少し嫉妬すると唇を尖らせてばかりいた彼。
大人になっても、その本質は変わっていないのかもしれません。
思わず笑いそうになってしまいました。
「ふふ」
「……何がおかしいんですか」
「いえ……相変わらずね、って。大人びた顔して、内心は昔のまま」
「……っ!」
ユリウスが耳まで赤くして、そしてふいに私の手を引き寄せました。
「な、何を――」
彼は黙って、私の手を強く握りしめました。
その熱がじかに伝わってくる。
「僕はもう子どもじゃない。あなたを失いたくないんです」
その必死さに、私は言葉を呑みました。
彼の指が頬にすべり、優しく触れる。
「縁談のことなんて、考えなくていい。あなたの隣にいるのは、僕でなければ嫌だ」
あまりに真剣な声に、胸が痛いほど高鳴ります。
けれど同時に、どうしていいかわからない。
「ユリウス……」
困惑を隠しきれず、そう名を呼ぶのが精一杯でした。
その夜。
彼が離れに戻ったあとも、私はずっと胸の奥を押さえていました。
どうしてこんなに心が揺れてしまうのかしら。
師弟として線を引こうとするほど、彼は距離を詰めてくる。
――でも。
「僕だけの人です」と言われたとき、不覚にも胸が温かくなったのは事実でした。
窓辺に立ち、月を仰ぎながら、小さく笑みをこぼしてしまいました。
「……やっぱり、困った子ね」
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