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第1章 恋もせずに死んだ私
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その日、東京の空は見事なまでに灰色でした。
「また雨か……」
電車の窓越しににじむビルの輪郭を眺めながら、わたし──佐倉詩織はうっすらとため息をつきました。
終電すれすれの時間。満員電車の中で立ったまま揺られるのも、もはや慣れた日常です。肩に食い込むカバンの重さも、眠気でぼんやりした頭も、どうせ明日も同じ。いえ、今日も、か。
広告ディスプレイには「恋する季節、はじまる」の文字。どの口が言うのかと睨んでみても、もちろん画面は無言でキラキラと恋の始まりを演出していました。
……わたしの季節は、いつ始まったのだろうか。
「三十年……一度も始まらなかったなぁ……」
思わず口をついて出た独り言が、車内の冷えきった空気に虚しく消えました。
残業続きで休日も出勤、恋人なし、友人なし、家族とは年賀状のやりとりすら絶えて五年。仕事しかない日々を過ごしてきました。
けれど、今夜だけは少し違いました。
ようやく、五ヶ月かけた大型案件が納品されたのです。部長からはめずらしく「おつかれさん」の一言。なんと、部署で拍手までいただきました。お菓子まで……配られました。
人間、やればできるんだな……と感無量で会社を出たところまでは、よかったのです。
それなのに。
「……あれ?」
突如、胸の奥で何かが跳ねるような動悸がしました。ズキン、ズキン、と心臓を握り潰されるような痛み。視界がぐらぐら揺れて、足元がふらつきます。
ビルの明かりが滲んで、音が遠ざかっていきます。
あれ、おかしいな、もうすぐ家なのに。今日はコンビニでプリンを買って、祝杯をあげるつもりだったのに。
……あのプリン、税込み298円だったのに。
それが、わたしの最後の悔いだなんて。
遠のいていく意識の中、どこかの病室のような、白い天井が見えました。機械音の中、声の届かない静寂が広がっています。
「……結局……誰にも……愛されなかったな……」
最期に呟いたのは、それだけ。
だれかに必要とされることもなく、好かれることもなく、ただただ一人で働き続けて、恋もせずに、静かに──わたしは、死にました。
……なのに。
なのにどうして、目を覚ましたら。
ちいさな手。白い天井はなく、かわりに見慣れない天蓋の布。そして、聞き覚えのない言葉が飛び交う中、甲高い声が叫びます。
「おぎゃあ!?」
いえ、叫んだのは、わたしでした。
自分の声の高さと幼さに、今度こそ気を失いそうになりました。
視界に入ったのは、異国の服をまとった人々と、金髪碧眼の貴族のような男性。
「おお……わが娘よ!ようこそ、この世に!」
えっ、娘?
えっ、えっ、うそでしょ?
パニックになるわたしをよそに、「姫さま!」と駆け寄る乳母らしき女性が、やさしくわたしを抱き上げ、頬ずりまでしてきました。
体が……重い。いや、軽い? ちがう、これは……赤ちゃんの身体。
「どういうことなの……」
と呟いたつもりが、
「ばぶぅ」
という音しか出ませんでした。
「また雨か……」
電車の窓越しににじむビルの輪郭を眺めながら、わたし──佐倉詩織はうっすらとため息をつきました。
終電すれすれの時間。満員電車の中で立ったまま揺られるのも、もはや慣れた日常です。肩に食い込むカバンの重さも、眠気でぼんやりした頭も、どうせ明日も同じ。いえ、今日も、か。
広告ディスプレイには「恋する季節、はじまる」の文字。どの口が言うのかと睨んでみても、もちろん画面は無言でキラキラと恋の始まりを演出していました。
……わたしの季節は、いつ始まったのだろうか。
「三十年……一度も始まらなかったなぁ……」
思わず口をついて出た独り言が、車内の冷えきった空気に虚しく消えました。
残業続きで休日も出勤、恋人なし、友人なし、家族とは年賀状のやりとりすら絶えて五年。仕事しかない日々を過ごしてきました。
けれど、今夜だけは少し違いました。
ようやく、五ヶ月かけた大型案件が納品されたのです。部長からはめずらしく「おつかれさん」の一言。なんと、部署で拍手までいただきました。お菓子まで……配られました。
人間、やればできるんだな……と感無量で会社を出たところまでは、よかったのです。
それなのに。
「……あれ?」
突如、胸の奥で何かが跳ねるような動悸がしました。ズキン、ズキン、と心臓を握り潰されるような痛み。視界がぐらぐら揺れて、足元がふらつきます。
ビルの明かりが滲んで、音が遠ざかっていきます。
あれ、おかしいな、もうすぐ家なのに。今日はコンビニでプリンを買って、祝杯をあげるつもりだったのに。
……あのプリン、税込み298円だったのに。
それが、わたしの最後の悔いだなんて。
遠のいていく意識の中、どこかの病室のような、白い天井が見えました。機械音の中、声の届かない静寂が広がっています。
「……結局……誰にも……愛されなかったな……」
最期に呟いたのは、それだけ。
だれかに必要とされることもなく、好かれることもなく、ただただ一人で働き続けて、恋もせずに、静かに──わたしは、死にました。
……なのに。
なのにどうして、目を覚ましたら。
ちいさな手。白い天井はなく、かわりに見慣れない天蓋の布。そして、聞き覚えのない言葉が飛び交う中、甲高い声が叫びます。
「おぎゃあ!?」
いえ、叫んだのは、わたしでした。
自分の声の高さと幼さに、今度こそ気を失いそうになりました。
視界に入ったのは、異国の服をまとった人々と、金髪碧眼の貴族のような男性。
「おお……わが娘よ!ようこそ、この世に!」
えっ、娘?
えっ、えっ、うそでしょ?
パニックになるわたしをよそに、「姫さま!」と駆け寄る乳母らしき女性が、やさしくわたしを抱き上げ、頬ずりまでしてきました。
体が……重い。いや、軽い? ちがう、これは……赤ちゃんの身体。
「どういうことなの……」
と呟いたつもりが、
「ばぶぅ」
という音しか出ませんでした。
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