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第32章 遠き日の名残
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朝、窓を開けると風がやさしく吹き込み、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐりました。
春の匂い──と、思ったのは一瞬だけで、すぐにそれは別の香りに変わりました。
その理由は、枕元の小さな包みにありました。
「……お手紙?」
花の押し花が添えられた、淡いピンク色の封筒。
開いてみると、そこには丁寧な筆跡が綴られていました。
『フィオナへ。あの頃の私たちが摘んだ、クロッカスの花を送りたくて……政略で陛下の寵愛を受けろと命じられて、貴女が王子暗殺未遂を企てた嘘の告をでっち上げたのです。ですが、証拠不十分で取り下げられ、私は婚約は破談になりました。今の私は教会で修道女として暮らしています。わたしの罪をどうか、お許しください」
差出人の名を見て、わたしは息をのみました。
「リゼット……」
懐かしい名前。わたしの、幼馴染。
リゼット・グランチェスター。
わたくしの、最も信頼していた友人――だった人です。最後に会ったのは婚約破棄以来です──
「……酷い別れでしたね」
思い出すと、なんとも気まずいものでした。
あの追放から、ずいぶんと時が経ってしまったのです。
でも今、彼女は花を送ってくれました。
幼い頃、あの丘に咲いていた、クロッカスの花。
押し花になっても、その香りはわたしの胸に刺さるように鮮やかでした。
「……レオニード様」
庭で読書していたレオニード様の隣に、そっと腰かけながら、わたしは手紙のことを話しました。
彼はただ頷き、黙って聞いてくださいます。
「昔のことを思い出してしまいました。……追放された頃の私は、惨めで、泣いて、誰かのせいにしてばかりでした」
「……ふむ。想像はつく」
「……それは失礼では?」
「はは、でも今のお前からは想像しにくいという意味だ。だから安心しろ」
ふくれっ面をしてみせると、彼は肩をすくめて笑いました。
まったくもう、こういう時にからかうのがお得意なんですから。
でも、本題はここからです。
「レオニード様……わたし、少しは変われたのでしょうか。あの頃の私から」
小さく、そう尋ねると、彼はほんの少し、まるで優しさがにじんだような目でわたしを見つめました。
「……変わったさ。お前はもう、誰かの手に守られるだけの人間じゃない」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ届いたような気がいたしました。
だって、わたしは知っています。
あの頃のわたしは、守られることしか知らなかった。
優しさの意味も、強さの形もわからなかった。けれど今は──。
あのクラリッサからの手紙が、過去の自分と向き合う機会をくれました。
古びた花の香りは、あの丘の風のように胸に吹き込み、そしてわたしに語りかけてくるのです。
あなたは、今のあなたでいいのだと。
「レオニード様」
「ん?」
「わたし、もう一度手紙を出してみようと思います。きっと、返事を書いたら……リゼットもまた、花を送ってくれるかもしれません」
「……ふむ。では、その時は俺にも一輪分けてくれ。お前の郷愁の香りというものを嗅いでみたい」
「……香りはともかく、リゼットに“私はここで立派に暮らしています”ってところも伝わるように頑張りますわ」
「それは期待してる。……でも、無理に“立派”を装わなくても、今のお前を見れば充分だ」
わたしは思わず、頬を手で覆ってしまいました。
「……そういうことをさらっと言わないでくださいまし……」
「照れたのか?」
「照れてません!」
でも、顔が熱いのはきっと、風邪のぶり返しではなく、春のせい──。
* * *
夕暮れ時、屋敷に色とりどりの旗がはためき始めました。
「……もう、収穫祭の準備ですのね」
「そうだな。町も賑やかになってきた。……明日は、少しだけ夜更かししてもいいだろう」
「ふふっ。あら、それは“領主の許可”ですか?」
「“レオニードの許可”だ」
「……まあ。では、遠慮なく従わせていただきます」
わたしは小さく笑い、明日の祭りを思って胸を躍らせました。
あの町の広場で、笑顔の輪の中で、誰かと踊るわたしを想像しながら。
春の匂い──と、思ったのは一瞬だけで、すぐにそれは別の香りに変わりました。
その理由は、枕元の小さな包みにありました。
「……お手紙?」
花の押し花が添えられた、淡いピンク色の封筒。
開いてみると、そこには丁寧な筆跡が綴られていました。
『フィオナへ。あの頃の私たちが摘んだ、クロッカスの花を送りたくて……政略で陛下の寵愛を受けろと命じられて、貴女が王子暗殺未遂を企てた嘘の告をでっち上げたのです。ですが、証拠不十分で取り下げられ、私は婚約は破談になりました。今の私は教会で修道女として暮らしています。わたしの罪をどうか、お許しください」
差出人の名を見て、わたしは息をのみました。
「リゼット……」
懐かしい名前。わたしの、幼馴染。
リゼット・グランチェスター。
わたくしの、最も信頼していた友人――だった人です。最後に会ったのは婚約破棄以来です──
「……酷い別れでしたね」
思い出すと、なんとも気まずいものでした。
あの追放から、ずいぶんと時が経ってしまったのです。
でも今、彼女は花を送ってくれました。
幼い頃、あの丘に咲いていた、クロッカスの花。
押し花になっても、その香りはわたしの胸に刺さるように鮮やかでした。
「……レオニード様」
庭で読書していたレオニード様の隣に、そっと腰かけながら、わたしは手紙のことを話しました。
彼はただ頷き、黙って聞いてくださいます。
「昔のことを思い出してしまいました。……追放された頃の私は、惨めで、泣いて、誰かのせいにしてばかりでした」
「……ふむ。想像はつく」
「……それは失礼では?」
「はは、でも今のお前からは想像しにくいという意味だ。だから安心しろ」
ふくれっ面をしてみせると、彼は肩をすくめて笑いました。
まったくもう、こういう時にからかうのがお得意なんですから。
でも、本題はここからです。
「レオニード様……わたし、少しは変われたのでしょうか。あの頃の私から」
小さく、そう尋ねると、彼はほんの少し、まるで優しさがにじんだような目でわたしを見つめました。
「……変わったさ。お前はもう、誰かの手に守られるだけの人間じゃない」
その言葉が、胸の奥にまっすぐ届いたような気がいたしました。
だって、わたしは知っています。
あの頃のわたしは、守られることしか知らなかった。
優しさの意味も、強さの形もわからなかった。けれど今は──。
あのクラリッサからの手紙が、過去の自分と向き合う機会をくれました。
古びた花の香りは、あの丘の風のように胸に吹き込み、そしてわたしに語りかけてくるのです。
あなたは、今のあなたでいいのだと。
「レオニード様」
「ん?」
「わたし、もう一度手紙を出してみようと思います。きっと、返事を書いたら……リゼットもまた、花を送ってくれるかもしれません」
「……ふむ。では、その時は俺にも一輪分けてくれ。お前の郷愁の香りというものを嗅いでみたい」
「……香りはともかく、リゼットに“私はここで立派に暮らしています”ってところも伝わるように頑張りますわ」
「それは期待してる。……でも、無理に“立派”を装わなくても、今のお前を見れば充分だ」
わたしは思わず、頬を手で覆ってしまいました。
「……そういうことをさらっと言わないでくださいまし……」
「照れたのか?」
「照れてません!」
でも、顔が熱いのはきっと、風邪のぶり返しではなく、春のせい──。
* * *
夕暮れ時、屋敷に色とりどりの旗がはためき始めました。
「……もう、収穫祭の準備ですのね」
「そうだな。町も賑やかになってきた。……明日は、少しだけ夜更かししてもいいだろう」
「ふふっ。あら、それは“領主の許可”ですか?」
「“レオニードの許可”だ」
「……まあ。では、遠慮なく従わせていただきます」
わたしは小さく笑い、明日の祭りを思って胸を躍らせました。
あの町の広場で、笑顔の輪の中で、誰かと踊るわたしを想像しながら。
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