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第5章 雪の晩餐
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その夜、執事のリオネルが静かにわたくしの部屋を訪れました。
暖炉の火がゆらぐ中、扉の向こうから控えめな声がします。
「奥様。……旦那様がお食事にお越しになるようにと」
「わたしが? ……侯爵様と、ご一緒に?」
「はい。正式なご夕食の席に、とのことです」
思わず手にしていた本を落としかけました。
あの冷たい瞳の方と同じ食卓を囲むなど、まさか今日来るような機会があるとは――。
「わかりました。すぐに支度を整えます」
胸の鼓動が速くなり、鏡の前に立ちました。
深いワインレッドのドレスを選び、髪を低くまとめて小さな白花の飾りを差します。
ソフィが後ろで緊張した手つきでリボンを結びながら、ぽつりと呟きました。
「旦那様と一緒のご夕食なんて、ずいぶん久しぶりです……」
「久しぶり、なのですか?」
「はい。お弟様を失われて以来、ずっとおひとりでお召し上がりでした」
小さな声なのに、胸に強く残りました。
寡黙な冷たさの裏にある孤独。その事実が、どうしようもなく重く胸に響きました。
*
豪奢な食堂の扉が開くと、そこには淡く輝くシャンデリアの光と共に、ひとりの人影がありました。
長いテーブルの先端。深緑の軍服姿のまま、背筋を伸ばして座っている――アルフォンス・ヴェイル侯爵。
彼の前にはすでにスープが湯気を立てています。
わたくしが静かに足を進めると、彼の灰色の瞳がわずかに向けられました。
「遅かったな」
「申し訳ございません……着替えに手間取りました」
椅子を引き、小さくお辞儀をして座ります。
吹雪の夜、広すぎる食堂の中に二人きり。
静寂が、痛いほどに身に沁みます。
目の前の温かなスープをすくいながら、わたしは静かに切り出しました。
「……この屋敷には、たくさんの方がお仕えされていますね。でも、皆さまどこか怯えていらっしゃるようです」
「噂話を信じているのだろう。俺を“氷の侯爵”と呼ぶ馬鹿な連中が多い」
短く吐き捨てるような声でしたが、そこにわずかな苦みが混じっているようにも聞こえました。
「でも、皆さま……本当に大切にされています。リオネルさんも、ソフィさんも」
少しだけ彼の手が止まります。
沈黙が長く続き、やがて低い声が返ってきました。
「……お前は変わっているな。怖くはないのか?」
「怖いです。でも、それ以上に――知りたいです」
「知りたい?」
「はい。いつも何を考えていらっしゃるのか。どうしてそんなに、お気持ちを閉ざされてしまわれたのか」
言ってから、自分でも大胆だったと気づきました。
けれど、そのまま言葉を引っ込めることはできませんでした。
「胸の奥に、本当は……痛みがあるのではないかと。そう思うのです」
彼の指がフォークの上で静かに止まりました。
灰色の瞳が少し揺れます。深い湖の奥から光を探すような、そんな目でした。
でも次の瞬間には、また冷たく口を閉ざしてしまいます。
「……下がれ。食事は済んだ」
それだけを告げて、彼は立ち上がりました。
けれど、わたしが立とうとすると、それより早く扉の前で立ち止まり、かすかに振り返ります。
「温室の修復を……許可する。お前が望むなら、あの場所を使え」
「え……?」
「傷んだ温室が裏庭にある。どうせ手をつけず放置していた。好きにしろ」
短くそう言い残して、彼は去っていきました。
扉が静かに閉まる音が、心の奥まで響きます。
(温室……彼、わたしの言葉を覚えていてくれたの?)
思えば、雪の日にわたしが花を植えているのを見ていたはずです。
その姿を。
そして今、あの一言――「好きにしろ」は、まるで“頑張れ”の代わりみたいでした。
*
翌朝、屋敷が少し慌ただしくなりました。
裏庭に職人たちの声が響き、古びた温室の修復作業が始まったのです。
「旦那様のご指示でございます」とリオネル。
ソフィも顔を輝かせて言いました。「すごいです奥様、本当にあの温室を!」
胸の奥が熱くなります。
わたしの小さな希望が、あの人の手によって形になっていく――その事実が、まるで春の息吹のように胸を満たしました。
*
その夜。
わたしはランプの光の下で手紙を書きました。ペン先が少し震えるほど、胸の奥があたたかくて。
『彼は無言で応えてくれたのかもしれません。
優しい言葉はなくても、わたしの願いを叶えてくださった。
――きっと、この雪の下にも春が眠っているのですね。』
書き終えた手紙の端に涙のしずくが落ちました。
でも、それは悲しみではなく、あたたかな光のような涙でした。
窓の外で、月明かりがゆっくりと雪を照らしています。
暖炉の火がゆらぐ中、扉の向こうから控えめな声がします。
「奥様。……旦那様がお食事にお越しになるようにと」
「わたしが? ……侯爵様と、ご一緒に?」
「はい。正式なご夕食の席に、とのことです」
思わず手にしていた本を落としかけました。
あの冷たい瞳の方と同じ食卓を囲むなど、まさか今日来るような機会があるとは――。
「わかりました。すぐに支度を整えます」
胸の鼓動が速くなり、鏡の前に立ちました。
深いワインレッドのドレスを選び、髪を低くまとめて小さな白花の飾りを差します。
ソフィが後ろで緊張した手つきでリボンを結びながら、ぽつりと呟きました。
「旦那様と一緒のご夕食なんて、ずいぶん久しぶりです……」
「久しぶり、なのですか?」
「はい。お弟様を失われて以来、ずっとおひとりでお召し上がりでした」
小さな声なのに、胸に強く残りました。
寡黙な冷たさの裏にある孤独。その事実が、どうしようもなく重く胸に響きました。
*
豪奢な食堂の扉が開くと、そこには淡く輝くシャンデリアの光と共に、ひとりの人影がありました。
長いテーブルの先端。深緑の軍服姿のまま、背筋を伸ばして座っている――アルフォンス・ヴェイル侯爵。
彼の前にはすでにスープが湯気を立てています。
わたくしが静かに足を進めると、彼の灰色の瞳がわずかに向けられました。
「遅かったな」
「申し訳ございません……着替えに手間取りました」
椅子を引き、小さくお辞儀をして座ります。
吹雪の夜、広すぎる食堂の中に二人きり。
静寂が、痛いほどに身に沁みます。
目の前の温かなスープをすくいながら、わたしは静かに切り出しました。
「……この屋敷には、たくさんの方がお仕えされていますね。でも、皆さまどこか怯えていらっしゃるようです」
「噂話を信じているのだろう。俺を“氷の侯爵”と呼ぶ馬鹿な連中が多い」
短く吐き捨てるような声でしたが、そこにわずかな苦みが混じっているようにも聞こえました。
「でも、皆さま……本当に大切にされています。リオネルさんも、ソフィさんも」
少しだけ彼の手が止まります。
沈黙が長く続き、やがて低い声が返ってきました。
「……お前は変わっているな。怖くはないのか?」
「怖いです。でも、それ以上に――知りたいです」
「知りたい?」
「はい。いつも何を考えていらっしゃるのか。どうしてそんなに、お気持ちを閉ざされてしまわれたのか」
言ってから、自分でも大胆だったと気づきました。
けれど、そのまま言葉を引っ込めることはできませんでした。
「胸の奥に、本当は……痛みがあるのではないかと。そう思うのです」
彼の指がフォークの上で静かに止まりました。
灰色の瞳が少し揺れます。深い湖の奥から光を探すような、そんな目でした。
でも次の瞬間には、また冷たく口を閉ざしてしまいます。
「……下がれ。食事は済んだ」
それだけを告げて、彼は立ち上がりました。
けれど、わたしが立とうとすると、それより早く扉の前で立ち止まり、かすかに振り返ります。
「温室の修復を……許可する。お前が望むなら、あの場所を使え」
「え……?」
「傷んだ温室が裏庭にある。どうせ手をつけず放置していた。好きにしろ」
短くそう言い残して、彼は去っていきました。
扉が静かに閉まる音が、心の奥まで響きます。
(温室……彼、わたしの言葉を覚えていてくれたの?)
思えば、雪の日にわたしが花を植えているのを見ていたはずです。
その姿を。
そして今、あの一言――「好きにしろ」は、まるで“頑張れ”の代わりみたいでした。
*
翌朝、屋敷が少し慌ただしくなりました。
裏庭に職人たちの声が響き、古びた温室の修復作業が始まったのです。
「旦那様のご指示でございます」とリオネル。
ソフィも顔を輝かせて言いました。「すごいです奥様、本当にあの温室を!」
胸の奥が熱くなります。
わたしの小さな希望が、あの人の手によって形になっていく――その事実が、まるで春の息吹のように胸を満たしました。
*
その夜。
わたしはランプの光の下で手紙を書きました。ペン先が少し震えるほど、胸の奥があたたかくて。
『彼は無言で応えてくれたのかもしれません。
優しい言葉はなくても、わたしの願いを叶えてくださった。
――きっと、この雪の下にも春が眠っているのですね。』
書き終えた手紙の端に涙のしずくが落ちました。
でも、それは悲しみではなく、あたたかな光のような涙でした。
窓の外で、月明かりがゆっくりと雪を照らしています。
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