誓約婚のはずでしたが、夫の愛情が日常に溢れすぎています。

朝日みらい

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第1章 前編 四女の立場

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 ノクスフィールド家の朝は、いつだって静かです。  
 冬の光が差し込む長い廊下、しんとした空気の中で、足音だけが響きます。  

 この家では、誰も私に話しかけません。  
 兄は家督を継ぐために鍛錬の日々、姉は母とともに社交の支度、その傍らで私は空席の多い食卓の端に座り、ぬるくなった紅茶をひと口すするだけ。  
 焼きたてのパンではありません。前の晩の残りをこっそり温めて。  
 香りだけは好きなんです。少しだけ、優しい匂いがするから。

 「おはよう」と口に出してみても、返事がないことくらい分かっています。  
 それでも、言葉にするだけで一日の区切りがつく気がして。  

 ――私は、四女ですから。  

 期待されない位置は、楽といえば楽です。  
 家の飾りにも、駒にもならない。  
 怒られることも少ないけれど、褒められることもない。  
 いないものとして扱われるのが、私の“場所”でした。  

 でも、本の中だけは違いました。  
 紙の匂いに包まれている時だけ、私は誰かの役に立てる気がします。  
 騎士が姫を守るお話、孤独な少女が光を見つけるお話――  
 どれも眩しくて、少しだけ羨ましくて。  

 ある朝、母がめずらしく私の部屋に来ました。  
「学園の通知が届いたわね。首席、だそうじゃない」  
 母の口調はいつも通り淡々としていて、褒めるでも責めるでもありません。  
「ええ……ありがとうございます」  
 と答える私に、母は細い扇子を閉じながら言いました。  
「目立つのは、身のためにならないわよ。わたしたちは控えめであればいいの」  

 たぶん、それが母なりの愛情なのだと思います。  
 私はただ、静かに頷きました。  

 ――心を動かさなければ、傷つかない。  
 そう信じてきました。  

 けれど、学園に通うようになってから、ほんの少しだけ世界が変わった気がしたのです。  

 王都の隅にある王立学園。貴族の子息令嬢たちが通うその場所は、華やかで、眩しくて、そして時々息苦しいところでした。  
 誰がどの殿方とお茶をしただの、誰のドレスが去年の流行だの、そんな噂話が飛び交う中で、私はいつも静かな場所を探していました。  

 お昼になると、本を片手に中庭の噴水へ。  
 そこにはいつも光の粒が揺れていて、風に乗って花の香りが届きます。  
 空を見ながらパンを食べるのが、私の小さな“昼休みの楽しみ”でした。  

 ――その日、彼と初めて隣り合ったのです。  

 ページをめくろうとした瞬間、風が強く吹き抜け、ぱたんと本が閉じました。  
 思わず顔を上げた私の視線の先、いつの間にか隣のベンチにひとりの青年が座っていました。  

 黒に近い灰の髪、まっすぐな背筋。  
 陽に透けた金具のきらめき――騎士科の制服。  
 どこかで見たことがある、と思った瞬間、記憶が繋がります。  
 カイル・アルヴェーンさん。噂で聞いたことのある名前。  

 でも、どうして私の隣に。  

「……あの、ここ、使われるご予定が……?」  
 恐る恐る声をかけると、短く首を振られました。  
「いい。……話さなくていいのが、楽だから」  

 その一言が、妙に印象に残りました。  

 それきり、言葉はありません。  
 ただ、噴水の音と風の音、それにページをめくる音だけ。  
 でも――不思議なんです。  
 静けさが、ひどく優しい。  
 まるで、この沈黙そのものが会話みたいに感じられました。  

 その日から、何度か同じことが続きました。  
 彼は、何も言わず、いつも少し離れて座ります。  
 彼が来ると、風が穏やかになる気がしました。  
 少し寒い日でも、心の底に灯がともるような――そんな感覚。  

 ……あれを“恋”と呼ぶなら、私は知らないうちに恋していたのだと思います。  

 でもそれを口に出すことはありませんでした。  
 私には似合わない言葉だと、分かっていたから。  

 卒業の日が近づく頃には、彼の姿を探すのが癖になっていました。  
 それでも、別れの日は、何も言えないまま。  
 彼が遠ざかる背中を見送りながら、  
 胸の奥で小さな声がつぶやいていました。  

 ――もう、あの沈黙は帰ってこないのかな。

 静かな春風の中で、私は初めて、自分の中に「寂しさ」という形のものを見つけました。
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