「君がいなくてもこの家は回る」と夫に捨てられたので、王国の英雄である騎士団長に拾われました。――後悔しても、もう遅いです。

朝日みらい

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第1章 身代わりの花嫁は、冷え切った公爵邸で「掃除」を始める

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 窓の外に広がる灰色の空を見上げ、わたしは小さく息を吐き出しました。
 ガタゴトと揺れる馬車の振動が、これから向かう先の不安を煽るようです。

​ わたくし、セレスティア・エルバートは、本日をもちまして「ヴァルディア公爵夫人」となる予定でございます。……いえ、正確には「身代わりの」という接頭辞がつきますけれど。

​「お姉様、本当に行(ゆ)くのね。あんな『氷の怪物』が主(あるじ)の家なんて、わたくし、想像しただけで鳥肌が立ってしまうわ!」
​ 出発の間際、義妹のエリザベラが扇で口元を隠しながら、勝ち誇ったような、それでいて心の底から同情するような声を投げかけてきました。

 彼女の背後では、継母が「これで我が家も安泰ね」と、宝石をちりばめた指を眺めてうっとりとしています。
​ ヴァルディア公爵、アレクシス・ヴァルディア閣下。
 若くして当主となった彼は、戦場での苛烈さと、政治の場での冷酷さから「血も涙もない氷の公爵」と噂されるお方。

 借金まみれの我がエルバート伯爵家に届いたその縁談は、本来なら美貌の妹・エリザベラに向けられたものでした。ですが、恐ろしい噂を聞いた彼女が泣き喚き、結果として地味で目立たない「本好きの長女」であるわたしに白羽の矢が立ったのです。

​(……まあ、あのお屋敷にいれば、少なくとも継母様に嫌味を言われる時間は減るかしら)
​ そんな前向きすぎる(?)諦めを胸に、わたしは馬車を降りました。
​ 目の前に現れたヴァルディア公爵邸は、かつての名門の威容を保ってはいるものの、どこか寂れていました。
 庭の芝生は伸び放題。窓ガラスには薄く埃が積もり、出迎える使用人たちの目には、新しい主人への期待など微塵も感じられません。

​「……君が、身代わりの令嬢か」
​ 広間でわたしを待っていたのは、噂に違わぬ冷徹な美貌を持つ男性でした。
 銀糸のような髪に、射抜くような冷たい瞳。アレクシス閣下は、挨拶もそこそこに、分厚い書類の束をテーブルに叩きつけました。

​「この家は見ての通り、腐敗しきっている。家臣は私腹を肥やし、領地は荒れ、金はない。君には『公爵夫人』としての特権など何一つ与えられないと思え」
「左様でございますか」
「……驚かないのか? 絶望して泣き言を言うかと思ったが」
​ 閣下は不機嫌そうに眉を寄せました。
 けれど、わたしはむしろ、目の前の「やるべきこと」に少しだけワクワクしてしまったのです。だって、埃を被ったまま放置されたこの美しいお屋敷が、あまりにも可哀想だったんですもの。

​「この家の管理、そして再建。すべて君に丸投げする。成功すれば衣食住は保証しよう。だが、失敗すれば――」
「承知いたしました。精一杯、努めさせていただきます」
​ わたしの即答に、アレクシス閣下は拍子抜けしたような顔をしました。

 ですが、すぐにまた仮面のような無表情に戻り、「勝手にしろ」と背を向けて去っていきました。
​(さて。まずは……あの角のクモの巣を払うところから始めましょうか!)

​ それからのわたしの毎日は、貴族令嬢とは思えない「戦場」となりました。
​ 朝は誰よりも早く起き、まずは台所の視察。
 昼は領地の帳簿と睨めっこ。
 夕方は不貞腐れている使用人たちに声をかけ、一緒に廊下を磨く。

​ 最初は「どうせすぐ逃げ出す」「公爵夫人の道楽だ」と鼻で笑っていた使用人たちも、わたしがドレスの裾を捲り上げ、膝をついて床を磨く姿を見て、少しずつ顔色を変えていきました。

​「奥様、そこは私たちが……」
「いいえ、いいのよ。この汚れ、頑固ですもの。一緒に磨いた方が早いわ」
​ わたしが笑顔で雑巾を差し出すと、若い侍女のミアが、戸惑いながらもそれを受け取ってくれました。
 彼女の手をそっと握り、「いつもありがとう」と伝えました。彼女の瞳に、温かな光が灯ります。
​ 数週間が過ぎる頃には、お屋敷は見違えるほど綺麗になっていました。

 ですが、肝心の主(あるじ)はといえば――。
​「……ふん。少しはマシになったようだが、これは妻としての義務だ。調子に乗るなよ、セレスティア」
​ 廊下ですれ違うたび、アレクシス閣下は冷たい言葉を投げかけてきます。
 彼は一度も、わたしの努力を認めようとはしません。それどころか、夜会への出席も禁じ、わたしを「透明な存在」として扱い続けました。

​ そんなある日のこと。
 王宮からのお客様として、一人の騎士がこの屋敷を訪れました。
​「お初にお目にかかります、ヴァルディア公爵夫人。私は王国騎士団長のレオンハルトと申します」
​ 眩いばかりの金髪に、誠実そうな碧眼。
 彼がわたしの前に跪き、その大きな手でわたしの指先をそっと包み込んだとき。

​「……あなたの手は、とても誇り高い。この屋敷が息を吹き返したのは、魔法ではなく、あなたのその献身のおかげですね」

​ 初めて、誰かに自分の頑張りを見つけられた気がして。
 わたしの心は、春の雪解けのような音を立てて震えたのでした。
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