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第3章:白き香花の少女
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王都の夜は、静かで寒かったです。
舞踏会に呼ばれなくなってから、季節がひとつ過ぎました。
リシェル・アーデン――“香りに敗れた令嬢”と呼ばれるようになっていたわたしは、屋敷の庭にある温室で香の研究を続けていました。
誰かに評価されるためでもなく、伯爵家の名誉のためでもなく。
ただ、わたし自身が香りと向き合いたかったから。
「香りだけは、わたしの心を裏切らない……」
摘みたての“月の花”を小瓶に詰めながら、思わずそう呟きました。
“月の花”――白い薄花びらが夜にだけそっと開き、甘く静かな香りを放つ小さな花。光にも影にもなりきれない、孤独な香り。
でも、どこか自分に似ているようで……好きなのです。
*
「ごめんなさい! それ……触らないほうが……!」
市場の花屋で、わたしは思わず声をあげてしまいました。
花の棚に手を伸ばそうとしていたのは、か細く背の低い、ひとりの少女でした。よく見れば、息も浅く、顔色も青白い……病弱そうな雰囲気です。
「あ……ごめんなさい。きれいだったから、つい……」
彼女は慌てて手を引っ込め、胸元で咲きかけの花をそっと抱えました。
わたしはふと、カバンから香袋を取り出して差し出しました。
「よろしければ、これを。お守り代わりに使ってみてください」
少女は目を丸くして、香袋を受け取ってくれました。
「……すごい。甘くて、あったかくて、なんだか落ち着きます」
「それ、“月の花”から作った香りなんです。きっと、よく眠れると思いますよ」
その場面が、なぜか胸に残りました。
香りを受け取った人が、こんなに素直に“好き”って言ってくれたのは、初めてだったのです。
*
その夜遅く。
わたしの屋敷を、ひとりの婦人が訪ねてきました。
開けた扉の向こうで、彼女は涙ぐんで言いました。
「娘が、数か月ぶりに穏やかに眠れたのです……あなたの香りのおかげです」
聞けば、あの少女――カティアちゃんは長く病気を患い、夜は夢でうなされ、眠れない日々が続いていたのだそうです。
香袋を枕元に置いたその晩だけは、カティアちゃんは静かに、すやすやと息をしながら眠っていたと。
「……これは、ただの香りではないわ。癒しの力があるのだと、私は思います」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、小さな光が灯った気がしました。
(わたしの香りが……誰かの心に届いた)
それは、誰かを“癒す”のではなく、自分自身が“癒された”瞬間でした。
*
それから数日。
カティアちゃんはわたしの温室に遊びに来るようになりました。
「この花、もっと咲いてくれるといいなぁ」
「そうですね。じゃあ、花に話しかけましょうか。『綺麗に咲いてね』って」
花の世話を手伝ってくれたり、小瓶にラベルを貼ってくれたり。彼女の無邪気な笑顔に、温室の空気は少し明るくなりました。
香りは、見えないけれど確かな手触りで、人と人をつないでくれる――
カティアちゃんとの時間が、そう教えてくれたのです。
*
ある日、彼女がふと尋ねてきました。
「リシェルさんは、どうして香りを作るんですか?」
わたしは少し悩んでから答えました。
「誰かの心に寄り添いたくて……でしょうか。香りは、言葉にできない想いも伝えてくれると思うんです」
「うん……わかる。わたしも、この香りがあると、お母さんにギュッと抱きしめられたみたいな気持ちになるから」
その瞬間、涙がにじみました。
誰かと“同じ気持ち”を分かち合えること――それがこんなに温かいなんて、知りませんでした。
(香りは、孤独なものじゃなかった)
その気づきが、わたしの香りに、ほんの少しだけ“希望”の成分を加えてくれた気がします。
舞踏会に呼ばれなくなってから、季節がひとつ過ぎました。
リシェル・アーデン――“香りに敗れた令嬢”と呼ばれるようになっていたわたしは、屋敷の庭にある温室で香の研究を続けていました。
誰かに評価されるためでもなく、伯爵家の名誉のためでもなく。
ただ、わたし自身が香りと向き合いたかったから。
「香りだけは、わたしの心を裏切らない……」
摘みたての“月の花”を小瓶に詰めながら、思わずそう呟きました。
“月の花”――白い薄花びらが夜にだけそっと開き、甘く静かな香りを放つ小さな花。光にも影にもなりきれない、孤独な香り。
でも、どこか自分に似ているようで……好きなのです。
*
「ごめんなさい! それ……触らないほうが……!」
市場の花屋で、わたしは思わず声をあげてしまいました。
花の棚に手を伸ばそうとしていたのは、か細く背の低い、ひとりの少女でした。よく見れば、息も浅く、顔色も青白い……病弱そうな雰囲気です。
「あ……ごめんなさい。きれいだったから、つい……」
彼女は慌てて手を引っ込め、胸元で咲きかけの花をそっと抱えました。
わたしはふと、カバンから香袋を取り出して差し出しました。
「よろしければ、これを。お守り代わりに使ってみてください」
少女は目を丸くして、香袋を受け取ってくれました。
「……すごい。甘くて、あったかくて、なんだか落ち着きます」
「それ、“月の花”から作った香りなんです。きっと、よく眠れると思いますよ」
その場面が、なぜか胸に残りました。
香りを受け取った人が、こんなに素直に“好き”って言ってくれたのは、初めてだったのです。
*
その夜遅く。
わたしの屋敷を、ひとりの婦人が訪ねてきました。
開けた扉の向こうで、彼女は涙ぐんで言いました。
「娘が、数か月ぶりに穏やかに眠れたのです……あなたの香りのおかげです」
聞けば、あの少女――カティアちゃんは長く病気を患い、夜は夢でうなされ、眠れない日々が続いていたのだそうです。
香袋を枕元に置いたその晩だけは、カティアちゃんは静かに、すやすやと息をしながら眠っていたと。
「……これは、ただの香りではないわ。癒しの力があるのだと、私は思います」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、小さな光が灯った気がしました。
(わたしの香りが……誰かの心に届いた)
それは、誰かを“癒す”のではなく、自分自身が“癒された”瞬間でした。
*
それから数日。
カティアちゃんはわたしの温室に遊びに来るようになりました。
「この花、もっと咲いてくれるといいなぁ」
「そうですね。じゃあ、花に話しかけましょうか。『綺麗に咲いてね』って」
花の世話を手伝ってくれたり、小瓶にラベルを貼ってくれたり。彼女の無邪気な笑顔に、温室の空気は少し明るくなりました。
香りは、見えないけれど確かな手触りで、人と人をつないでくれる――
カティアちゃんとの時間が、そう教えてくれたのです。
*
ある日、彼女がふと尋ねてきました。
「リシェルさんは、どうして香りを作るんですか?」
わたしは少し悩んでから答えました。
「誰かの心に寄り添いたくて……でしょうか。香りは、言葉にできない想いも伝えてくれると思うんです」
「うん……わかる。わたしも、この香りがあると、お母さんにギュッと抱きしめられたみたいな気持ちになるから」
その瞬間、涙がにじみました。
誰かと“同じ気持ち”を分かち合えること――それがこんなに温かいなんて、知りませんでした。
(香りは、孤独なものじゃなかった)
その気づきが、わたしの香りに、ほんの少しだけ“希望”の成分を加えてくれた気がします。
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