和平のための身代わり花嫁でしたが、無表情な王太子の庇護が優しすぎます。

朝日みらい

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第2章 冷徹王子

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 翌朝、私はまだ胸の奥に残る痛みと共に目を覚ましました。  
 うっすらとした光が薄いカーテンを透かして差し込み、静かな朝の気配を運んできます。  

 その静寂の中に――小さなノックの音。  
 扉の向こうから低い声が聞こえました。  

「入るぞ」  

 息が止まりそうになりました。  
 戸口に立っていたのは、アレクシス殿下でした。  
 夜の冷徹な印象とは違い、朝の陽射しの中で見るその姿は、不思議と柔らかく見えます。  

「昨夜は……無理をさせたな」  

「と、とんでもございませんっ。私の不調のせいで、ご迷惑を――」  

「娘ひとり倒れた程度で和平が揺らぐなら、この国とて脆いものだな」  

 皮肉のようでいて、不思議と微笑んでいるようにも見える言葉。  
 言葉に棘がないのです。  
 ――もしかして、これは励ましてくださった……?  

「殿下は、お優しい方でいらっしゃるのですね」  

 気づけば、そう口にしていました。  
 すると、殿下は一瞬だけ眉を動かして、わずかに目を伏せました。  

「俺は優しくなどない」  
「けれど、殿下は」  
「……おまえがそう思いたいなら、それでいいが」  

 短く言って踵を返そうとしたその時、視界が揺れました。  
 私の足元がふらりとよろめいたのです。  
 床に倒れ込む直前――黒い外套がふわりと広がり、腕が私を支えました。  

 その胸の中は、驚くほど静かでした。  

「……無理をするなと」  

 短い言葉だったのに、心の奥が震えました。  
 けれど、そのまま甘えてしまうのが怖くて、慌てて身を離そうとしたのです。  

「も、申し訳ありませんっ! じ、自分で歩けますので――」  

「その顔色で歩けるとは思っていないぞ」  

 淡々とした声音。けれど、手は離されません。  
 抱えられたまま数歩進むと、寝台の端にそっと降ろされました。  
 次の瞬間、殿下がこちらの頬に手を伸ばしたのです。  

 掌が触れたのは、ほんの一瞬。  
 でも、その温もりの記憶は、ずっと残りました。  

「……熱があるな」  

「え……」  

「侍医を呼ぶ。部屋を出るなよ」  

 そう言い残して部屋を出てゆく背中を、見送ることしかできませんでした。  
 扉が閉まる音がした後、ようやく息を吐きます。  

(……どうして、あの人の手はこんなに温かいの)  
(冷たい人だと思っていたのに)  

 胸の奥に小さな灯がともったような気がしました。  

***

 昼過ぎ、体調が少し戻った頃、侍女の一人がそっと近づいてきました。  
 どことなく落ち着きなく視線を泳がせていて、私はすぐに察しました。  

「どうしたのですか?」  
「い、いえ……王妃様がお呼びです」  

 まさか、と思いました。  
 昨日の“倒れた花嫁”の件が、すでに王宮中に広まっているのだとしたら……。  
 気を抜くことはできません。  

 呼び出されたのは、王妃様の私室。  
 部屋いっぱいに焚きしめられた香が、まるで罠のように息を塞ぎます。  

「まあ、エレノア王太子妃殿下」  
「お呼びでしょうか、王妃陛下」  
「昨夜のご様子、侍女が報告に参りましたの。……ずいぶんとお身体が弱いそうで?」  

 薄く笑みを浮かべる王妃の目は、少しも優しくありませんでした。  
 まるで、壊れやすいものを前にして楽しんでいるように見えます。  

「ご心配には及びません。少々疲れただけで――」  
「それならよろしいわ。でも……無理はなさらないでね。あなたが倒れれば、国中が心配いたしますものねえ」  

 その声音の裏に潜む棘。  
 “倒れぬように”ではなく、“倒れてもらっても構わない”という遠回しな皮肉。  
 それを悟られぬよう、私はにっこり笑いました。  

(大丈夫、私は笑える。リュミエールの王女として生まれた以上、笑って敵意をかわすしかないの)  

***

 王妃の部屋から戻る途中、同じく王妃付きの女官たちのひそひそ声が耳に届きました。  

「まあ、“和平の花嫁”だなんて気の毒ね」  
「殿下の好みはもっと……華やかな女性だそうよ」  
「早々に離縁になるんじゃないかしら。貧弱そうだし」  

 笑い声が、心臓の奥に小さく刺さります。  
 けれど、足を止めることはできません。  

 ほんの少し遅れて、前方の廊下から聞きなれた低い声が響きました。  

「貴様ら、その噂話は王妃の御殿では許されぬと知っているよな?」  

 突き刺すような声。  
 アレクシス殿下――ご自身でこちらに向かって歩いてこられたのです。  

 女官たちは青ざめて深々と頭を下げ、風のように去りました。  
 残された私は、ただ立ち尽くしていました。  

「殿下……」  
「堂々としていろ。おまえは王太子妃だろ」  
「……はい」  

 そのひと言に、涙が出そうになりました。  
 誰からも“妃”として扱われたことがなかったから。  

(――この方は、誰より見た目は冷たいのに、どうして言葉だけは、こんなにもあたたかいの)  

 胸の奥が、静かに疼きました。  

***

 夜。再び、ひとりの部屋。  
 窓の外では雪が舞っていました。  
 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、静かに部屋を照らしています。  

 机の上には、一通の手紙が置かれていました。  
 見覚えのない筆跡――そして封には、小さな金の印章。  
 その封を解くと、短い文字が並んでいました。  

 「明朝、温室へ来い。殿下より」  

 ……殿下から?  
 驚きで体が固まりました。  

 (まさか、叱責のお言葉でしょうか)  
 (それとも……)  

 胸の奥で小さく波紋が広がっていきます。  
 眠れぬまま迎えた朝、私は小さな決意を胸に温室へ向かいました。  

***

 温室に足を踏み入れた瞬間、白い息が混じって咳がこみ上げました。  
 湿った空気に混じる花々の香り。普段なら息が詰まるはずなのに、今日は不思議と呼吸が楽なのです。  

「殿下……」  

 声のするほうを見ると、黒い軍服の殿下が佇んでいました。  
 その背の後ろには、見知らぬ花々――香りの少ない、色の淡い植物ばかり。  

「宮殿の強い香は、おまえの体に良くないだろうから」  

「まさか……これは、わたくしの、ために……?」  

「勘違いするな。王太子妃が倒れれば体面に関わる。それだけだ」  

 そう言いながらも、触れた花の葉をそっと撫でる指先が優しい。  
 言葉とは裏腹に、仕草一つ一つが胸に沁みました。  

「……ありがとう、ございます」  

 自然に、そう零れてしまったのです。  
 殿下は何も答えませんでした。  
 けれど、去り際――ふと振り向いた彼の青い瞳が、ほんの少しだけ和らいで見えました。  

 そのわずかな光に、私は確信しました。  

(この方は、冷たいのではなく……何か抱えているだけだわ、きっと)  

 そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなりました。  

***

 その夜、空は雪。  
 私は窓辺に座りながら、自分の胸に手を当てました。  

(殿下の手は、あんなに冷たくて、あんなに温かい)  
(警戒しないと。この人に……まだ心を寄せてはいけないのに)  

 思考の奥から、かすかな痛みが滲みます。  
 でも、もう引き返せそうにはありませんでした。
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