政略結婚のはずでしたが、微笑みの貴公子に溺愛されています。

朝日みらい

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第5章:王女、初めての動揺

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 夜の帳が降りる頃、王宮の庭園では月光が静かに噴水を照らしていました。  
 銀の光が水面に揺らぎ、夜風に乗って花の香りが流れます。  

 晩餐のあと、ヴァルモン殿下が「少しお話を」と告げ、私をこの場所へ案内したのです。  
 王女としてこれまで幾度も外交の場に立ってきましたが、夜の散歩など――常識の範囲を超えた誘いでした。  

(……まったく、この人は)  

「風が涼しいですね、殿下」  
「ええ。あなたの国は夜空が澄んでいますね。星が、まるで宝石のように」  

 今日も完璧な微笑。  
 それなのに、その声音にはどこか優しさが溶けていて、聞いているうちに胸の奥が妙に落ち着かなくなる。  

 わたくしは困ったように視線を逸らしました。  
「――殿下、こうしてお二人で夜風に当たるのは……さすがに軽率ではありませんか?」  

「ご安心を。私はあなたに無礼なことなどいたしません」  
「……信用してよいのかしら」  
「ええ、もちろん。ただ……少し歩くだけです。外交というのは、歩調を合わせるところから始まる」  

 彼はそう言って、片手を差し出しました。  
 その手が、月明かりに淡く照らされる。白く細い指先。  
 ――まるで、触れたら熱に変わりそう。  

「……」  
 理性が制止を叫びました。  
 けれど、私の手はゆっくりとその上に重なっていました。  

(これは外交の一環。ただの儀礼……!)  

 自分に言い訳を唱えながら、けれど手を取られた瞬間、  
 その掌の温かさに息が詰まりました。  

「冷たいですね」  
 リオネルの声は低く、喉に響くような音色だった。  
「緊張していらっしゃるのですか?」  
「……殿下こそ、慣れていらっしゃるご様子」  
「ええ、多少は。――ただ、あなたの手は……驚くほど、真面目な温度をしている」  

 言葉の意味がわからず、私は瞬きをしました。  
 真面目な温度?  

「何事にもきちんと向き合う人の手です。力を抜くことを知らない、そんな手」  
「……それは褒め言葉なのでしょうか?」  
「もちろん」  

 リオネルが私の手を軽く握り、指先で表面をなぞるようにして、そっと手を放す。  
 それだけの動作だったのに、胸の奥に波紋が広がった。  

 まるで魂まで触れられた気がしました。  

***  

 部屋に戻ってからも、胸の高鳴りがおさまりません。  
 いつものように祈祷書を開いても、文字が目に入らない。  

(おかしい……。わたしらしくない)  

 大国の公爵家出の外交官――彼が計算高い人であることなど、最初からわかっていたのです。  
 だからこそ、心を動かしてはいけない。  
 そう、わたしは“禁欲の王女”。  
 落ち着いていれば、どんな誘惑にも負けない自信がありました。  

 なのに今夜、手を取られただけで震えるなんて。  

「……まるで、呪いのようです」  
 思わずつぶやくと、侍女のセラがカーテンの奥から顔を出しました。  
「姫さま? お祈りはまだ途中でございますか?」  
「ええ、少し……考え事を」  
「そんなに難しい顔をなさらずに。殿下、姫さまのお話ばかりしていらっしゃいましたよ?」  
「……今、なんと?」  
 セラは悪びれもせず、嬉しそうに頬を染めます。  
「“星の光より王女殿下の横顔が明るい”って! 周囲、全員騒然でした」  
「……っ!」  

 顔が一気に熱くなるのを感じ、抱えていた本で顔を隠しました。  
「な、なに考えているのです、あの方は!」  
「外交辞令じゃないですか? でも、そういう台詞、嫌いじゃないです」  
「セラ!」  
「すみません! でも姫さま、もしかして少し嬉しかったのでは?」  
「うれ……っ、そんなわけありません!」  
「うっかり微笑んでますよ?」  
「笑ってません!」  

 もはや祈祷どころではありません。  
 私は立ち上がり、胸に手を当てて深呼吸しました。  

(落ち着け、わたし。これは外交。すべて“演出”です)  

 けれど鏡に映る自分の頬はほんのりと紅く、瞳はわずかに潤んでいて――。  
 まるで恋する娘のような顔。  
「……違うの。ただ疲れているだけ」  
 そう言葉にした瞬間、鏡の中の自分が寂しそうに微笑んだ気がして、慌てて顔を背けました。  

***  

 その夜は、なかなか眠れませんでした。  
 寝台に身を沈めても、まぶたの裏に浮かぶのはあの灰銀の瞳。  
 月光の下で「あなたの手は真面目な温度をしている」と言ったときの微笑。  

(どうして……あんな言葉が)  
(なぜ、あの顔が、焼きついて離れないの)  

 頬に指を当ててみる。  
 あのとき触れられた場所。  
 ――そこだけ、ほんのり温かい。  

 理性が、「それは勘違いだ」と囁く。  
 けれど感情は、「もう取り戻せない」と泣き声で答える。  

 禁欲を誇ってきた自分が、今、初めて“少女”の顔をしている。  
 そのことに気づいてしまった私は、枕に顔を埋めながら小さく呟きました。  

「……危険です。あの方、本当に危険です」  

 そして、ほんの少しだけ。  
 その危険を知りながら、次に会う日を心のどこかで待つ自分がいるのを、否定できませんでした。  
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