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二章ー松尾の依頼と優之助との約束ー
優之助の危機
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次の日、朝飯を食べると三人で宿屋を出た。
道中、優之助は伝之助の来ている羽織に注目した。
「その羽織どないしたんですか」
伝之助はしばらく何も答えなかったが、「りんに貰った」とぼそっと返した。
「いいやないですか。洒落た羽織で。藍色の感じが薩摩侍のと似てますね」
「おいはまだ薩摩侍とちごう。じゃっどん薩摩ん為に戦う薩摩隼人じゃ。背中に十字紋は入れれんが、勝色である藍色は似せ、十字紋とちごうて勝虫の蜻蛉を入れたちりんが言っちょった」
「へえ、それはまた粋な事ですね」
優之助は感心した。
伝之助は何も答えず、照れ臭いのを誤魔化す様に歩を速めた。
伝之助と羽田は近くで待機しておくと言うが、どの程度近くでいてくれるのだろうか。
以前おさきの依頼で仇討ちに出向いた際、伝之助は近くで待機していると言いながらも全く助けに入らなかった。
今思うとあれは近くにいなかったのだと思う。
そして今回も優之助を安心させる為に方便として言っているだけではないかと疑っていた。
「二人は俺の近くで待機してくれるんですよね」
「おう」
「それってどの程度近くですか」
「お前にないかあれば駆けつけられる近さじゃ」
「…………」
優之助は訝しむ目を向けた。
伝之助が歩を止める事無く見返す。
「ないじゃそん目は」
「いや、ほんまかな思って」
「おいが嘘をつくち言いたかか」
「嘘はつかんと信じてますけど」
こいつは嘘は言わないが方便を使う。
屁理屈を並べるのがうまいのだ。
「伝之助さん、おさきから初めて依頼を貰って仇討ちに出たやないですか。あの時確か盛本とか言う標的を誘き出す為に俺が出向きましたよね。あの時伝之助さんはどないしてましたっけ」
伝之助は近くで隠れて何かあればすぐに助けてやると言ったはずだ。
「おいはお前の近くに隠れちょった」
伝之助は淀みなく応える。
ここでぼろを出すへまはしない。
きっちりと覚えているようだ。
「そうですか。俺、どないして盛本を決めた場所に連れて行きましたかね」
「そげなもん、お前の口八丁手八丁でじゃろ。おいも自分の持ち場にいかんといけんかった。じゃっで最後までは知らん」
やはり最後まではいなかったのだ。
しかしここでそれを責めても無駄だ。
誰が最後まで面倒を見ると言ったと言われてお仕舞だ。
「それは仰る通りです。伝之助さんの仕事がありましたから。でも俺が危機に瀕した事は知ってますか」
そう、盛本がよく行く居酒屋に向かい盛本を待った。
盛本は町人四人と揉めながら店を出て来た。
そこを優之助が取り成しまとめようとしたが、一時は盛本が柄に手をかけると言う暴挙に出たのだ。
「危機?」
伝之助は首を傾げる。
やはり知らなかったのだ。
こいつは途中まで一緒に向かい、優之助が到着するなりすぐに持ち場へ向かったに違いない。
「場が凍り付いたやないですか。もしかして知らんのですか」
優之助がわざとらしく驚いて言うと、伝之助は顎に手を置いて少しだけ考え、ぽんと手を叩いた。
「ああ、盛本が柄に手をかけよった時か」
ちくしょう、知ってやがったか。
どうやら本当に途中までは近くで見ていたらしい。
「そうですよ。何であの時助けに入ってくれなかったんですか」
見ていて助けに入らなかったのならそれはそれで問題だ。
「あげなもん、危機でもないでもなか」
「天地流は先手必勝でしょ。敵が柄に手をかけた瞬間斬り掛かるんやないんですか」
「お前が天地流を語るな」
伝之助が歩を止めて睨みつける。
「すみません……」
それは今いいやないかと思うも、そう言うしかない。
普段間に入る羽田も、黙って二人の様子を聞きながら歩いている。
どうやら自身がやっている剣術の事に、知ったような口を利くのは気に食わないと言う事に賛成のようだ。
伝之助が再び歩き出すと、同時に優之助も歩き出す。
「刀抜くべからざるじゃ。ほんのこて斬る気がある奴ならすぐに助けに入った。じゃっどんあん小物は柄に手をかけたらお前みたいな奴は恐がるこつを知っちょる。現にお前は危機じゃったち認識しちょる。一緒におった町人も同じように思っちょったじゃろ」
「まあそうですね」
「安心せえ。おいはそげんこつようわかる。お前にないかあれば助けに入る。じゃっでお前はないも心配するこつなく木本と話せ」
なるほど、これは頼もしい用心棒だ。
敏郎が重宝する訳もわかる。
腕が立つだけではない。
こちらからの要望や見解だけでなく、自身の絶対的な尺を持っており、それに照らし合わせて対応出来る。
しかもそれが正確ときている。
最低限の事項と情報を伝えていれば、後は自身で考えて最善の対応をしてくれるのだ。
腕が立つだけの者は数多と居るが、ここまで経験値を持ち、それに照らし合わせて頭と体を動かせる者はごく僅かであろう。
そんな事を思い、すっかり安心した優之助は、自然と歩く速度も上がる。
順調に道のりを進んで行く。
小さな民家が並び出し、大小あちこちに長屋が並び出す。
小さな町へと入ったようだ。
町を進むと小さな茶屋があり、そこで伝之助と羽田に別れを告げ、優之助だけで目的地へ向かった。
小さな町中を更に歩き進めて行くと、一旦町の風景が途切れる。
更に進むと、ふいに廃れた長屋が現れる。
木々や緑も所々にあるだけで風景もさびれている。
町から忘れ去られたかのようで、表の長屋に出ている店もいまいちぱっとしない。
恐らく地元住民でのみ商売が成り立っているのだろう。
店の人間も外から来る人間は歓迎しないと言ったようで、どことなく偏屈そうである。
伝之助は剣客を見る目があるが、優之助は商売人を見る目があった。
その長屋の端まで歩き、裏手に回る。
そこに裏の手配師木本が営む店があった。
店先には意地の悪い顔をした、年の割に体格のいい中背の男が座っていた。
「すみません、こちらは木本さんが営まれているお店ですか」
優之助は臆する事無く声を掛ける。
そう、伝之助と羽田が近くに控えているのだ。
何も臆する事は無い。
「そうですけど、どなたの紹介ですか」
店先の男が嗄れ声で答える。
この男が木本なのだろうか。
そしてどなたの紹介と来た。
ここは紹介制なのだ。
優之助は紹介など得ていないが、ここからが優之助の口八丁の出番である。
「私、京で商売をしてまして。以前島薗の坂谷さんとお付き合いがあったんです。坂谷さんは残念な事になりましたけど、生前木本さんの事をお伺いしていましてね。機会があればぜひお願いしたいと思っていました」
坂谷は間違いなくここを利用していたはずだ。
あれ程ごろつきを雇っていたのだ。
伝之助に襲撃されて大量に失った後でも、すぐに補充していた。
「ほう、あの坂谷さんとですか」
木本が反応を示す。
どうやらうまくいきそうだ。
「坂谷さんは確かにうちの上客でしたな。しかし直接本人から受けた事はありません。ようわしの事を存じておられましたな」
どうやらこの男が木本本の様である。
そしてその木本がぎろっと睨む。
しまった。
坂谷は直接利用していなかったのか。
藤井を通してのだろうか。
ここは動揺を覚られないよう、冷静に対応しなければいけない。
「そうでしたか。それで直接は知らんと言うてはったんか。いやね、紹介するなら知り合いのお武家さんを通すと言うてはったんです。この度はぜひお力を借りたいと思ったんですけど、そのお武家さんを紹介してもらう前に坂谷さんは亡くなりました。ですから場所だけは聞いてたんで、こうして直接出向いたわけです」
一息に言う。
絶好調の口八丁だと思うも、木本は尚も訝しむ目を向ける。
優之助はたじろぎそうになるも、必死で表に出さないよう取り繕う。
やがて木本が溜息を吐いた。
「坂谷さんも口が軽いでんな。あの方が聞かれたら大層怒るやろな」
木本は優之助が発した「武家」の言葉に対して、不特定多数を思い浮かべずにあの方と言った。
あの方が藤井だとすればかなり懇意なのだろう。
それ以外の武家は客であっても深い付き合いではないのかもしれない。
そして坂谷と懇意にしていた武家は藤井である。
木本があの方と言う人物は藤井である確率がより一層深まった。
「私もこれ以上話を広げない方が良いかと思い、私が直接一人で参上した次第です」
「なるほど。それで付き人も無く、遣いを寄越さず本人が来たと言う訳ですな。皆さん少しでも足跡を辿られぬよう遣いを寄越す事が多いですが、そういう事情ですと納得です」
木本が深く頷いて言う。
優之助も木本に応えるよう頷く。
その裏で背中に冷たい汗が流れた。
言われるとその通りだ。
人に隠れて依頼するような事を、遣いではなくなぜ本人が直接堂々と依頼に来るのか。
偶然言い訳が通じたが、そこも突っ込まれるとまずい所であった。
何もかも伝之助のいい加減な作戦のせいだ。
「それで、どう言った事のご用件で?」
木本の目にもう疑いの色は無かった。
「遣いではなく直接来たものですから、差支えなければここではなく……」
それと無く長屋の中で話させてもらうよう促す。
「そうですな。これは気の利かん事で申し訳ない。どうぞ」
木本は言って促す。
しかし部屋の中までは通されず、土間の上りに腰掛ける。
「こちらも見られたくないものもある。ここでよろしいか」
「もちろんです。外から見えへんかったら結構です」
優之助としても中まで入り込むのは怖かったので願ってもない申し出であった。
さあ、ここからどう日高の事を探ろうか。
「それでしたら伺いましょか」
木本の言葉に優之助は頷いた。
「私も言える事と言えん事がある事はご勘弁下さい」
「もちろんです」
「実は私の仕事は表の稼業を滞りなく進めていく為に裏の工作が必要なんです」
「まあようある話ですな」
「ええ。そこで木本さんに腕のいい浪人をご用意頂きたいんです。それもただ腕がいいだけやない。薩摩の内情に詳しい者がいてたらぜひお願いしたい」
「それはまた限定的ですな」
「この度薩摩側とちょいとありましてね。相手の侍はさぞかし強い。ちょいと腕がいいだけやと返り討ちに遭ってしまいます。薩摩の内情を知っててすこぶる腕のいい浪人を紹介してくれませんか。もちろん金に糸目はつけません」
自然と日高を連想される事を言った。
自身の店の用心棒だが、相手がこう言っているのなら少し日高をこちらに使わせることぐらいするだろうと踏んでの事だった。
「薩摩の内情を知っててすこぶる腕のいい用心棒か……」
木本は顎に手を置き考え込む。
きっと迷っているのだろう。
その間優之助は何気なく部屋の奥を見回す。
部屋の内部までは良く見えないが、悪趣味な能面の面を飾っていた。
何となくその面をじっと見ていると、不意に面がすっと動いて奥に歩いて行く。
一瞬驚くも何の事は無い。
能面だと思っていたら能面のような顔をした人だったのだ。
ここで働く者だろうか。
気味が悪い奴だった。
それにしてもあのような能面顔……そこまで考えてはっとした。
あれは日高だ。
日高と言えば表情のない能面顔が特徴的であった。
しまった。
木本の用心棒でありながら今現在、木本の店にいるとなぜ思わなかったのだ。
考えると当然の事ではないか。
これも全て伝之助のせいだ。
あいつは本当に作戦の詰めが甘い。
いや、今はそれどころではない。
一刻も早く退散しないといけない。
木本を見ると、天井を見つめて考えあぐねいている。
何とか怪しまれずにここを去る方法を考えなければいけない。
「あ、あの、木本さん」
「ん、なんですか」
「いや、今気付いたのですが今日金を持ってくるのを忘れてしまいました。取りに帰るか後日出直すか致しますのでいかがでしょうか」
優之助が言うと木本の目がすっと細まった。
怪しまれたであろうか。
よく考えると、日高は優之助の顔など覚えていないのではないだろうか。
優之助など眼中にも無かったはずだ。
羽田のように一戦交えたならまだしも、それ以上に伝之助や中脇の方が目立っていた。
そう思うと少し余裕が出た。
「あ、これはすみません。内金だけでもいいなら多少はお預けします。それかご紹介頂く方と取りに行っても構いません」
平静を取り戻して言い繕う。
木本は警戒しながらも「困りましたな」と策を考え出した。
今の所木本には怪しまれながらも、素性や目的は知られていないようだ。
と言う事は日高や藤井から、薩摩から何かしら行動があるかもしれないから警戒しろと言ったような事は言われていないのだろう。
「こう言った商売ですから契約書も何もありません。あんたが金も払わんと逃げたらどないなるかはようわかってはりますわな」
木本は今までと声の調子を少し変えて言った。
脅しているつもりだろう。
「もちろん承知の上です」
「あんたがここに来た時点でやっぱりやめますはない。それもわかってはりますんかいな」
「当然です」
言いながら不安が胸に拡がっていく。
日高の事を探るはずが、木本に目を付けられる事態となっていないだろうか。
「それなら結構です。わしは誰も信用してません。あんたに紹介するもんを同行させて、そいつがあんたを斬って金を持ち逃げする可能性もある。何か妙案は無いかと考えてますんや」
言われてぞっとした。
確かにその可能性もある。
「今すぐどうこうしてほしいわけやないんです。浪人を手配してほしい商談の日までまだ日にちがあります。その商談の日に木本さんの所までお伺いし、浪人を付けてもらい、その時に支払いをすると言うのはどうでしょう」
日高の事を探るはずが、別な事で頭を捻らないといけなくなった。
「なるほど。それは妙案ですな。それではそうしましょう」
「助かります」
ほっと胸を撫で下ろした。
「それで先程の話ですが……」
「ああ、薩摩に詳しくて強いもんでしたな。あんたの言う丁度ええもんがおるんやけど、わしだけの判断でそのもんをつかせる訳にはいきませんのや。日があるておっしゃいましたな。一度話を預からせてもろて構いませんか」
「結構です」
日高の居所はわかった。
もうここに用はない。
そして話は終わりに向かっている。
これですんなりと帰れそうだ。
「そしたら三日程空けてまた来て下さい。それまでに答えを用意しときましょ」
「わかりました」
優之助は頷くと立ち上がる。
去ろうとすると木本が呼び止めた。
「あ、すんませんけどこっちから出てもらえますか」
言うなり木本は部屋の中に案内する。
見られたくないものがあると言ってなかっただろうか。
それより日高がいるのではないだろうか。
「あ、いや……何でですか」
もし部屋の奥に日高がいて、改めて顔を見られて思い出されると厄介だ。
「そない警戒する事はありません。あんたが誰かに付けられてないとも限らん。客を招いた時は裏口から出てもらうんですわ」
優之助は躊躇したが、余り渋っていると怪しまれる。
部屋は暗いし俯き加減で行くと大丈夫だろうと思い、勇気を出して着いて行った。
部屋は何もないこじんまりした部屋で、生活感はまるでない。
ここに住んでいないのだから当然だ。
最低限の物しかない。
そして日高は見当たらない。
部屋の奥に移動したのではなく、裏口から出て行ったようだ。
心臓に悪い事が続く。
「さ、こっちです」
木本が裏口の引き戸の前に立つ。
傍らには無造作に刀が置かれていた。
無造作に置かれているのに反して、刀は中々豪華な装飾を施していた。
恐らく木本の物であろう。
元々上級武士であったのだ。
そして今も儲けているのだとすれば、刀に金をかけていてもおかしくはない。
「ではまた後日」
優之助は頭を下げる。
木本は頷いて引き戸を開けた。
優之助は外に出る。
相変わらずさびれた風景が目に飛び込んだと同時に、多数の浪人に囲まれた。
「な、なんですか」
声が引っ繰り返る。
浪人の中心に能面顔がある。日高だ。
しっかりと覚えられていた。
「猿芝居、ご苦労さん」
嗄れ声が後ろでする。
ぱっと振り向くと、無造作に置かれていた刀を腰に差した木本が、不気味な笑みを張り付かせ、引戸を後ろ手で閉めた。
「ど、どういう事や……」
「どうもこうもない。お前の企みは知れとるんや。わしはこいつらが集まるまで時間稼ぎをしてたっちゅうことや。お前の阿保みたいな話を聞いて適当に合わせるんに骨が折れたわ」
そんな……どうして知れていたのだ。
「何を困惑しとる。俺がお前の事覚えてない思ったとか。俺は一度見た顔は忘れん。そうでないとこんな仕事出来ん」
そりゃそうだ。
敵地に忍び込み、諜報活動をしていた日高である。
「まさかのこのこやって来るとは思いも寄らんかった。そう言う意味ではこっちが困惑しとるぐらいじゃ。逆に罠でも仕掛けよるんかとな」
日高の能面顔は変わらない代わりに、周囲の男達が笑う。
そうだ、罠とは言わないが、近くに伝之助と羽田が控えているはず。
しかしここは裏口。
表口を見張っていたとすれば気付かないかもしれない。
いや、近くで見張っていたのだとしたら、これ程の浪人達がぞろぞろとここまで来た事も見ているはずだ。
だったら助けに来るはずだ。
優之助はさり気なく辺りを見回す。
しかしさびれた風景があるだけで伝之助も羽田も居そうにない。
助けに来る気配ももちろんない。
ちくしょう、あいつらやっとる。
見張りもせんと、別れた茶屋で団子でも頬張っているに違いない。
「お仲間はどこや」
木本が尋ねるが、どこにいるかは優之助が知りたいぐらいだった。
「知らん。ここに来るまでの茶屋で別れた。見張っとく言うてたけど、助けに来る様子もないから茶屋で団子でも食うてるんちゃうか」
優之助の言葉に、またもや皆笑った。
「それは可哀想にな。残念な奴や」
木本はくくっと笑うと、「連れて行け」と言った。
「ちょっと待ってくれ。俺をどこに連れて行くんや。俺は何も役に立たんぞ」
声が震える。
後悔が胸いっぱいに広がる。
「役に立つかどうかはこっちが決める。安心しろ、とりあえず危害は加えん。けど言う事きかんなら手足の一つ二つは斬る事なるかも知らん」
冗談じゃない。
一つも斬られたくない。
「わ、わかった。言う事聞く」
答えるなり、男達が縄のついた布を頭に被せる。
抵抗する間もなく手を後ろで縛られると、布の縄を引っ張られ木本らに連れられて行く。
「ど、どこに行くんや。これ取ってくれ」
「喚くな。賢そうに見えへんけど道覚えられたら困るからな。行くんは俺の家や。お前はそこで囚人生活や」
木本の家に行くのか。
ちくしょう、囚人生活はやった事ないが、間違いなく憧れるような生活ではない。
「あんたの見立て通り俺は一切賢くない。だからこうしてふらふらしてるんや。これ取ってくれ」
視界が遮られると恐怖が倍増する。
「うるさい奴や。お前、言葉遣いに気を付けや」
木本の声音が変わる。
「は、はい。すみません」
答えるなり再び縄を引っ張られる。
何も見えないままひたすら歩かされる。
恐怖の中でも自然と頭が働く。
足音から察するに、先程の男達全員が着いてきている訳ではなさそうだった。
それにこの様な出で立ちで歩いていると何事かと思われる。
人目につかぬ道を歩いているのだろうか。
木本の家はどこにあると言うのだ。
時折躓き、転びながらも何とか着いて行く。
躓いても転んでも誰も口を利かず、再び優之助が歩き出すまで皆待つ。
それがまた不気味で仕方がなかった。
立ち止まるとどうなるのかと思うが、木本の手足の一つ二つは斬ると言う言葉が恐ろしく、とても実行する気にはなれなかった。
一体どれ程歩いただろうか。
視界が遮られ、誰も喋る事無く何度も躓いて転び、歩き続ける。
誰も話さず淡々と進む状況が、果てしなく長い拷問のように感じる。
一体いつまで続くのだろうか。
いつ着くのだろうか。
着いた先で地獄が待っていようと、今の時間の方がとてつもなく苦しく感じる。
例え着いた先で地獄が待っていようと、今のこの瞬間を逃れられるのなら早く着いてしまいたいと思う。
それ程辛い時であった。
しかしそんな拷問の時間も終わりが来た。
一度立ち止まると程なくして歩き出す。
それが何度か続き、ようやく立ち止まる。
そして頭の布が外される。
優之助はまぶしい景色が目の中に飛び込んでくると思い細めたが、意外にも辺りはじめっとした薄暗い場所であった。
何とも言えない悪臭が鼻を突く。そこは木の枠で囲われた牢屋だった。
「ここに閉じ込めるんですか」
「うるさい奴や。お前は喋るな」
言葉の使い方に気を付けろと言われたので気を付けて言ったのに、邪険に扱われた。
木本の自宅だろうか。
先程までいた浪人達はおらず、木本と日高のみとなっている。
余り他人に見せたくないのかもしれない。
そうだとすると日高は余程信用されている。
優之助は辺りを見回した。
他にもいくつか牢屋があるが、今入っているのは優之助だけだ。
「こんな事したら奉行所が黙ってませんよ」
「奉行所?お前阿保か。奉行所が人一人おらんなったぐらいで喚くと思うんか」
木本がにやついて言う。
木本は優之助が奉行所と付き合いがある事を知らないようである。
日高が付いていながら、大して下調べをしていないようだ。
いや、日高にとっては薩摩や伝之助の方が警戒する相手であり、優之助の事は何ら警戒していない。
だから何も調べていないと言う事も考えられる。
「当面はここがお前の家や。まあ楽しく暮らせや」
木本は牢屋の鍵を閉め、自身の懐に入れた。
「楽しそうに見えるなら代わってあげましょか」
「この餓鬼……」
木本が牢の外から睨みつける。
日高は変わらず能面顔を向けたままだ。
「調子乗るなよ。お前の命はわしが握ってるんや」
捨て台詞を吐くと、日高を引き連れ奥へと消えていった。
「ちくしょう、どないしよ」
呟いてみるがどうする事も出来ない。
考えれば考える程窮地な気がしてきた。
こんな事なら木本に挑発的な事を言わなければよかった。
ただあまりにも腹立たしかったのでつい口走ってしまったのだ。
飯はちゃんと食わせてくれるのだろうか。
それにしてもこの悪臭は何とかならないものか。
あれこれ頭を駆け巡る。
伝之助達が気付いた所でどうやって助けに入ると言うのだろう。
この場所がわからなければどうしようもない。
わかったとしても二人で乗り込んで何とかなるだろうか。
いや、ならないだろう。
今はいないがここに来る近くまでは浪人達もいた。
と言う事は近くに奴らのたまり場があるのだろう。
それに日高もいる。
伝之助は百人力かもしれないが、日高が立ちはだかれば日高一人の相手をする事になる。
その間、羽田が他の浪人を制圧出来るだろうか。
羽田一人では難しいだろう。
何とかならないかとあちこち触ってみる。
鍵はどうやっても開きそうにない。
牢の間からはもちろん抜け出せない。
壁を触ってみるも頑丈だ。
この悪臭の中、何もする事なくひたすら助けを待つしかないと言うのか。
「頭がおかしくなりそうや」
頭を抱えて嘆くも、虚しく声が響くだけだ。
「ちくしょう、これはまずい。詰んでるぞこれ」
優之助は仰向けに寝転び呟いた。
道中、優之助は伝之助の来ている羽織に注目した。
「その羽織どないしたんですか」
伝之助はしばらく何も答えなかったが、「りんに貰った」とぼそっと返した。
「いいやないですか。洒落た羽織で。藍色の感じが薩摩侍のと似てますね」
「おいはまだ薩摩侍とちごう。じゃっどん薩摩ん為に戦う薩摩隼人じゃ。背中に十字紋は入れれんが、勝色である藍色は似せ、十字紋とちごうて勝虫の蜻蛉を入れたちりんが言っちょった」
「へえ、それはまた粋な事ですね」
優之助は感心した。
伝之助は何も答えず、照れ臭いのを誤魔化す様に歩を速めた。
伝之助と羽田は近くで待機しておくと言うが、どの程度近くでいてくれるのだろうか。
以前おさきの依頼で仇討ちに出向いた際、伝之助は近くで待機していると言いながらも全く助けに入らなかった。
今思うとあれは近くにいなかったのだと思う。
そして今回も優之助を安心させる為に方便として言っているだけではないかと疑っていた。
「二人は俺の近くで待機してくれるんですよね」
「おう」
「それってどの程度近くですか」
「お前にないかあれば駆けつけられる近さじゃ」
「…………」
優之助は訝しむ目を向けた。
伝之助が歩を止める事無く見返す。
「ないじゃそん目は」
「いや、ほんまかな思って」
「おいが嘘をつくち言いたかか」
「嘘はつかんと信じてますけど」
こいつは嘘は言わないが方便を使う。
屁理屈を並べるのがうまいのだ。
「伝之助さん、おさきから初めて依頼を貰って仇討ちに出たやないですか。あの時確か盛本とか言う標的を誘き出す為に俺が出向きましたよね。あの時伝之助さんはどないしてましたっけ」
伝之助は近くで隠れて何かあればすぐに助けてやると言ったはずだ。
「おいはお前の近くに隠れちょった」
伝之助は淀みなく応える。
ここでぼろを出すへまはしない。
きっちりと覚えているようだ。
「そうですか。俺、どないして盛本を決めた場所に連れて行きましたかね」
「そげなもん、お前の口八丁手八丁でじゃろ。おいも自分の持ち場にいかんといけんかった。じゃっで最後までは知らん」
やはり最後まではいなかったのだ。
しかしここでそれを責めても無駄だ。
誰が最後まで面倒を見ると言ったと言われてお仕舞だ。
「それは仰る通りです。伝之助さんの仕事がありましたから。でも俺が危機に瀕した事は知ってますか」
そう、盛本がよく行く居酒屋に向かい盛本を待った。
盛本は町人四人と揉めながら店を出て来た。
そこを優之助が取り成しまとめようとしたが、一時は盛本が柄に手をかけると言う暴挙に出たのだ。
「危機?」
伝之助は首を傾げる。
やはり知らなかったのだ。
こいつは途中まで一緒に向かい、優之助が到着するなりすぐに持ち場へ向かったに違いない。
「場が凍り付いたやないですか。もしかして知らんのですか」
優之助がわざとらしく驚いて言うと、伝之助は顎に手を置いて少しだけ考え、ぽんと手を叩いた。
「ああ、盛本が柄に手をかけよった時か」
ちくしょう、知ってやがったか。
どうやら本当に途中までは近くで見ていたらしい。
「そうですよ。何であの時助けに入ってくれなかったんですか」
見ていて助けに入らなかったのならそれはそれで問題だ。
「あげなもん、危機でもないでもなか」
「天地流は先手必勝でしょ。敵が柄に手をかけた瞬間斬り掛かるんやないんですか」
「お前が天地流を語るな」
伝之助が歩を止めて睨みつける。
「すみません……」
それは今いいやないかと思うも、そう言うしかない。
普段間に入る羽田も、黙って二人の様子を聞きながら歩いている。
どうやら自身がやっている剣術の事に、知ったような口を利くのは気に食わないと言う事に賛成のようだ。
伝之助が再び歩き出すと、同時に優之助も歩き出す。
「刀抜くべからざるじゃ。ほんのこて斬る気がある奴ならすぐに助けに入った。じゃっどんあん小物は柄に手をかけたらお前みたいな奴は恐がるこつを知っちょる。現にお前は危機じゃったち認識しちょる。一緒におった町人も同じように思っちょったじゃろ」
「まあそうですね」
「安心せえ。おいはそげんこつようわかる。お前にないかあれば助けに入る。じゃっでお前はないも心配するこつなく木本と話せ」
なるほど、これは頼もしい用心棒だ。
敏郎が重宝する訳もわかる。
腕が立つだけではない。
こちらからの要望や見解だけでなく、自身の絶対的な尺を持っており、それに照らし合わせて対応出来る。
しかもそれが正確ときている。
最低限の事項と情報を伝えていれば、後は自身で考えて最善の対応をしてくれるのだ。
腕が立つだけの者は数多と居るが、ここまで経験値を持ち、それに照らし合わせて頭と体を動かせる者はごく僅かであろう。
そんな事を思い、すっかり安心した優之助は、自然と歩く速度も上がる。
順調に道のりを進んで行く。
小さな民家が並び出し、大小あちこちに長屋が並び出す。
小さな町へと入ったようだ。
町を進むと小さな茶屋があり、そこで伝之助と羽田に別れを告げ、優之助だけで目的地へ向かった。
小さな町中を更に歩き進めて行くと、一旦町の風景が途切れる。
更に進むと、ふいに廃れた長屋が現れる。
木々や緑も所々にあるだけで風景もさびれている。
町から忘れ去られたかのようで、表の長屋に出ている店もいまいちぱっとしない。
恐らく地元住民でのみ商売が成り立っているのだろう。
店の人間も外から来る人間は歓迎しないと言ったようで、どことなく偏屈そうである。
伝之助は剣客を見る目があるが、優之助は商売人を見る目があった。
その長屋の端まで歩き、裏手に回る。
そこに裏の手配師木本が営む店があった。
店先には意地の悪い顔をした、年の割に体格のいい中背の男が座っていた。
「すみません、こちらは木本さんが営まれているお店ですか」
優之助は臆する事無く声を掛ける。
そう、伝之助と羽田が近くに控えているのだ。
何も臆する事は無い。
「そうですけど、どなたの紹介ですか」
店先の男が嗄れ声で答える。
この男が木本なのだろうか。
そしてどなたの紹介と来た。
ここは紹介制なのだ。
優之助は紹介など得ていないが、ここからが優之助の口八丁の出番である。
「私、京で商売をしてまして。以前島薗の坂谷さんとお付き合いがあったんです。坂谷さんは残念な事になりましたけど、生前木本さんの事をお伺いしていましてね。機会があればぜひお願いしたいと思っていました」
坂谷は間違いなくここを利用していたはずだ。
あれ程ごろつきを雇っていたのだ。
伝之助に襲撃されて大量に失った後でも、すぐに補充していた。
「ほう、あの坂谷さんとですか」
木本が反応を示す。
どうやらうまくいきそうだ。
「坂谷さんは確かにうちの上客でしたな。しかし直接本人から受けた事はありません。ようわしの事を存じておられましたな」
どうやらこの男が木本本の様である。
そしてその木本がぎろっと睨む。
しまった。
坂谷は直接利用していなかったのか。
藤井を通してのだろうか。
ここは動揺を覚られないよう、冷静に対応しなければいけない。
「そうでしたか。それで直接は知らんと言うてはったんか。いやね、紹介するなら知り合いのお武家さんを通すと言うてはったんです。この度はぜひお力を借りたいと思ったんですけど、そのお武家さんを紹介してもらう前に坂谷さんは亡くなりました。ですから場所だけは聞いてたんで、こうして直接出向いたわけです」
一息に言う。
絶好調の口八丁だと思うも、木本は尚も訝しむ目を向ける。
優之助はたじろぎそうになるも、必死で表に出さないよう取り繕う。
やがて木本が溜息を吐いた。
「坂谷さんも口が軽いでんな。あの方が聞かれたら大層怒るやろな」
木本は優之助が発した「武家」の言葉に対して、不特定多数を思い浮かべずにあの方と言った。
あの方が藤井だとすればかなり懇意なのだろう。
それ以外の武家は客であっても深い付き合いではないのかもしれない。
そして坂谷と懇意にしていた武家は藤井である。
木本があの方と言う人物は藤井である確率がより一層深まった。
「私もこれ以上話を広げない方が良いかと思い、私が直接一人で参上した次第です」
「なるほど。それで付き人も無く、遣いを寄越さず本人が来たと言う訳ですな。皆さん少しでも足跡を辿られぬよう遣いを寄越す事が多いですが、そういう事情ですと納得です」
木本が深く頷いて言う。
優之助も木本に応えるよう頷く。
その裏で背中に冷たい汗が流れた。
言われるとその通りだ。
人に隠れて依頼するような事を、遣いではなくなぜ本人が直接堂々と依頼に来るのか。
偶然言い訳が通じたが、そこも突っ込まれるとまずい所であった。
何もかも伝之助のいい加減な作戦のせいだ。
「それで、どう言った事のご用件で?」
木本の目にもう疑いの色は無かった。
「遣いではなく直接来たものですから、差支えなければここではなく……」
それと無く長屋の中で話させてもらうよう促す。
「そうですな。これは気の利かん事で申し訳ない。どうぞ」
木本は言って促す。
しかし部屋の中までは通されず、土間の上りに腰掛ける。
「こちらも見られたくないものもある。ここでよろしいか」
「もちろんです。外から見えへんかったら結構です」
優之助としても中まで入り込むのは怖かったので願ってもない申し出であった。
さあ、ここからどう日高の事を探ろうか。
「それでしたら伺いましょか」
木本の言葉に優之助は頷いた。
「私も言える事と言えん事がある事はご勘弁下さい」
「もちろんです」
「実は私の仕事は表の稼業を滞りなく進めていく為に裏の工作が必要なんです」
「まあようある話ですな」
「ええ。そこで木本さんに腕のいい浪人をご用意頂きたいんです。それもただ腕がいいだけやない。薩摩の内情に詳しい者がいてたらぜひお願いしたい」
「それはまた限定的ですな」
「この度薩摩側とちょいとありましてね。相手の侍はさぞかし強い。ちょいと腕がいいだけやと返り討ちに遭ってしまいます。薩摩の内情を知っててすこぶる腕のいい浪人を紹介してくれませんか。もちろん金に糸目はつけません」
自然と日高を連想される事を言った。
自身の店の用心棒だが、相手がこう言っているのなら少し日高をこちらに使わせることぐらいするだろうと踏んでの事だった。
「薩摩の内情を知っててすこぶる腕のいい用心棒か……」
木本は顎に手を置き考え込む。
きっと迷っているのだろう。
その間優之助は何気なく部屋の奥を見回す。
部屋の内部までは良く見えないが、悪趣味な能面の面を飾っていた。
何となくその面をじっと見ていると、不意に面がすっと動いて奥に歩いて行く。
一瞬驚くも何の事は無い。
能面だと思っていたら能面のような顔をした人だったのだ。
ここで働く者だろうか。
気味が悪い奴だった。
それにしてもあのような能面顔……そこまで考えてはっとした。
あれは日高だ。
日高と言えば表情のない能面顔が特徴的であった。
しまった。
木本の用心棒でありながら今現在、木本の店にいるとなぜ思わなかったのだ。
考えると当然の事ではないか。
これも全て伝之助のせいだ。
あいつは本当に作戦の詰めが甘い。
いや、今はそれどころではない。
一刻も早く退散しないといけない。
木本を見ると、天井を見つめて考えあぐねいている。
何とか怪しまれずにここを去る方法を考えなければいけない。
「あ、あの、木本さん」
「ん、なんですか」
「いや、今気付いたのですが今日金を持ってくるのを忘れてしまいました。取りに帰るか後日出直すか致しますのでいかがでしょうか」
優之助が言うと木本の目がすっと細まった。
怪しまれたであろうか。
よく考えると、日高は優之助の顔など覚えていないのではないだろうか。
優之助など眼中にも無かったはずだ。
羽田のように一戦交えたならまだしも、それ以上に伝之助や中脇の方が目立っていた。
そう思うと少し余裕が出た。
「あ、これはすみません。内金だけでもいいなら多少はお預けします。それかご紹介頂く方と取りに行っても構いません」
平静を取り戻して言い繕う。
木本は警戒しながらも「困りましたな」と策を考え出した。
今の所木本には怪しまれながらも、素性や目的は知られていないようだ。
と言う事は日高や藤井から、薩摩から何かしら行動があるかもしれないから警戒しろと言ったような事は言われていないのだろう。
「こう言った商売ですから契約書も何もありません。あんたが金も払わんと逃げたらどないなるかはようわかってはりますわな」
木本は今までと声の調子を少し変えて言った。
脅しているつもりだろう。
「もちろん承知の上です」
「あんたがここに来た時点でやっぱりやめますはない。それもわかってはりますんかいな」
「当然です」
言いながら不安が胸に拡がっていく。
日高の事を探るはずが、木本に目を付けられる事態となっていないだろうか。
「それなら結構です。わしは誰も信用してません。あんたに紹介するもんを同行させて、そいつがあんたを斬って金を持ち逃げする可能性もある。何か妙案は無いかと考えてますんや」
言われてぞっとした。
確かにその可能性もある。
「今すぐどうこうしてほしいわけやないんです。浪人を手配してほしい商談の日までまだ日にちがあります。その商談の日に木本さんの所までお伺いし、浪人を付けてもらい、その時に支払いをすると言うのはどうでしょう」
日高の事を探るはずが、別な事で頭を捻らないといけなくなった。
「なるほど。それは妙案ですな。それではそうしましょう」
「助かります」
ほっと胸を撫で下ろした。
「それで先程の話ですが……」
「ああ、薩摩に詳しくて強いもんでしたな。あんたの言う丁度ええもんがおるんやけど、わしだけの判断でそのもんをつかせる訳にはいきませんのや。日があるておっしゃいましたな。一度話を預からせてもろて構いませんか」
「結構です」
日高の居所はわかった。
もうここに用はない。
そして話は終わりに向かっている。
これですんなりと帰れそうだ。
「そしたら三日程空けてまた来て下さい。それまでに答えを用意しときましょ」
「わかりました」
優之助は頷くと立ち上がる。
去ろうとすると木本が呼び止めた。
「あ、すんませんけどこっちから出てもらえますか」
言うなり木本は部屋の中に案内する。
見られたくないものがあると言ってなかっただろうか。
それより日高がいるのではないだろうか。
「あ、いや……何でですか」
もし部屋の奥に日高がいて、改めて顔を見られて思い出されると厄介だ。
「そない警戒する事はありません。あんたが誰かに付けられてないとも限らん。客を招いた時は裏口から出てもらうんですわ」
優之助は躊躇したが、余り渋っていると怪しまれる。
部屋は暗いし俯き加減で行くと大丈夫だろうと思い、勇気を出して着いて行った。
部屋は何もないこじんまりした部屋で、生活感はまるでない。
ここに住んでいないのだから当然だ。
最低限の物しかない。
そして日高は見当たらない。
部屋の奥に移動したのではなく、裏口から出て行ったようだ。
心臓に悪い事が続く。
「さ、こっちです」
木本が裏口の引き戸の前に立つ。
傍らには無造作に刀が置かれていた。
無造作に置かれているのに反して、刀は中々豪華な装飾を施していた。
恐らく木本の物であろう。
元々上級武士であったのだ。
そして今も儲けているのだとすれば、刀に金をかけていてもおかしくはない。
「ではまた後日」
優之助は頭を下げる。
木本は頷いて引き戸を開けた。
優之助は外に出る。
相変わらずさびれた風景が目に飛び込んだと同時に、多数の浪人に囲まれた。
「な、なんですか」
声が引っ繰り返る。
浪人の中心に能面顔がある。日高だ。
しっかりと覚えられていた。
「猿芝居、ご苦労さん」
嗄れ声が後ろでする。
ぱっと振り向くと、無造作に置かれていた刀を腰に差した木本が、不気味な笑みを張り付かせ、引戸を後ろ手で閉めた。
「ど、どういう事や……」
「どうもこうもない。お前の企みは知れとるんや。わしはこいつらが集まるまで時間稼ぎをしてたっちゅうことや。お前の阿保みたいな話を聞いて適当に合わせるんに骨が折れたわ」
そんな……どうして知れていたのだ。
「何を困惑しとる。俺がお前の事覚えてない思ったとか。俺は一度見た顔は忘れん。そうでないとこんな仕事出来ん」
そりゃそうだ。
敵地に忍び込み、諜報活動をしていた日高である。
「まさかのこのこやって来るとは思いも寄らんかった。そう言う意味ではこっちが困惑しとるぐらいじゃ。逆に罠でも仕掛けよるんかとな」
日高の能面顔は変わらない代わりに、周囲の男達が笑う。
そうだ、罠とは言わないが、近くに伝之助と羽田が控えているはず。
しかしここは裏口。
表口を見張っていたとすれば気付かないかもしれない。
いや、近くで見張っていたのだとしたら、これ程の浪人達がぞろぞろとここまで来た事も見ているはずだ。
だったら助けに来るはずだ。
優之助はさり気なく辺りを見回す。
しかしさびれた風景があるだけで伝之助も羽田も居そうにない。
助けに来る気配ももちろんない。
ちくしょう、あいつらやっとる。
見張りもせんと、別れた茶屋で団子でも頬張っているに違いない。
「お仲間はどこや」
木本が尋ねるが、どこにいるかは優之助が知りたいぐらいだった。
「知らん。ここに来るまでの茶屋で別れた。見張っとく言うてたけど、助けに来る様子もないから茶屋で団子でも食うてるんちゃうか」
優之助の言葉に、またもや皆笑った。
「それは可哀想にな。残念な奴や」
木本はくくっと笑うと、「連れて行け」と言った。
「ちょっと待ってくれ。俺をどこに連れて行くんや。俺は何も役に立たんぞ」
声が震える。
後悔が胸いっぱいに広がる。
「役に立つかどうかはこっちが決める。安心しろ、とりあえず危害は加えん。けど言う事きかんなら手足の一つ二つは斬る事なるかも知らん」
冗談じゃない。
一つも斬られたくない。
「わ、わかった。言う事聞く」
答えるなり、男達が縄のついた布を頭に被せる。
抵抗する間もなく手を後ろで縛られると、布の縄を引っ張られ木本らに連れられて行く。
「ど、どこに行くんや。これ取ってくれ」
「喚くな。賢そうに見えへんけど道覚えられたら困るからな。行くんは俺の家や。お前はそこで囚人生活や」
木本の家に行くのか。
ちくしょう、囚人生活はやった事ないが、間違いなく憧れるような生活ではない。
「あんたの見立て通り俺は一切賢くない。だからこうしてふらふらしてるんや。これ取ってくれ」
視界が遮られると恐怖が倍増する。
「うるさい奴や。お前、言葉遣いに気を付けや」
木本の声音が変わる。
「は、はい。すみません」
答えるなり再び縄を引っ張られる。
何も見えないままひたすら歩かされる。
恐怖の中でも自然と頭が働く。
足音から察するに、先程の男達全員が着いてきている訳ではなさそうだった。
それにこの様な出で立ちで歩いていると何事かと思われる。
人目につかぬ道を歩いているのだろうか。
木本の家はどこにあると言うのだ。
時折躓き、転びながらも何とか着いて行く。
躓いても転んでも誰も口を利かず、再び優之助が歩き出すまで皆待つ。
それがまた不気味で仕方がなかった。
立ち止まるとどうなるのかと思うが、木本の手足の一つ二つは斬ると言う言葉が恐ろしく、とても実行する気にはなれなかった。
一体どれ程歩いただろうか。
視界が遮られ、誰も喋る事無く何度も躓いて転び、歩き続ける。
誰も話さず淡々と進む状況が、果てしなく長い拷問のように感じる。
一体いつまで続くのだろうか。
いつ着くのだろうか。
着いた先で地獄が待っていようと、今の時間の方がとてつもなく苦しく感じる。
例え着いた先で地獄が待っていようと、今のこの瞬間を逃れられるのなら早く着いてしまいたいと思う。
それ程辛い時であった。
しかしそんな拷問の時間も終わりが来た。
一度立ち止まると程なくして歩き出す。
それが何度か続き、ようやく立ち止まる。
そして頭の布が外される。
優之助はまぶしい景色が目の中に飛び込んでくると思い細めたが、意外にも辺りはじめっとした薄暗い場所であった。
何とも言えない悪臭が鼻を突く。そこは木の枠で囲われた牢屋だった。
「ここに閉じ込めるんですか」
「うるさい奴や。お前は喋るな」
言葉の使い方に気を付けろと言われたので気を付けて言ったのに、邪険に扱われた。
木本の自宅だろうか。
先程までいた浪人達はおらず、木本と日高のみとなっている。
余り他人に見せたくないのかもしれない。
そうだとすると日高は余程信用されている。
優之助は辺りを見回した。
他にもいくつか牢屋があるが、今入っているのは優之助だけだ。
「こんな事したら奉行所が黙ってませんよ」
「奉行所?お前阿保か。奉行所が人一人おらんなったぐらいで喚くと思うんか」
木本がにやついて言う。
木本は優之助が奉行所と付き合いがある事を知らないようである。
日高が付いていながら、大して下調べをしていないようだ。
いや、日高にとっては薩摩や伝之助の方が警戒する相手であり、優之助の事は何ら警戒していない。
だから何も調べていないと言う事も考えられる。
「当面はここがお前の家や。まあ楽しく暮らせや」
木本は牢屋の鍵を閉め、自身の懐に入れた。
「楽しそうに見えるなら代わってあげましょか」
「この餓鬼……」
木本が牢の外から睨みつける。
日高は変わらず能面顔を向けたままだ。
「調子乗るなよ。お前の命はわしが握ってるんや」
捨て台詞を吐くと、日高を引き連れ奥へと消えていった。
「ちくしょう、どないしよ」
呟いてみるがどうする事も出来ない。
考えれば考える程窮地な気がしてきた。
こんな事なら木本に挑発的な事を言わなければよかった。
ただあまりにも腹立たしかったのでつい口走ってしまったのだ。
飯はちゃんと食わせてくれるのだろうか。
それにしてもこの悪臭は何とかならないものか。
あれこれ頭を駆け巡る。
伝之助達が気付いた所でどうやって助けに入ると言うのだろう。
この場所がわからなければどうしようもない。
わかったとしても二人で乗り込んで何とかなるだろうか。
いや、ならないだろう。
今はいないがここに来る近くまでは浪人達もいた。
と言う事は近くに奴らのたまり場があるのだろう。
それに日高もいる。
伝之助は百人力かもしれないが、日高が立ちはだかれば日高一人の相手をする事になる。
その間、羽田が他の浪人を制圧出来るだろうか。
羽田一人では難しいだろう。
何とかならないかとあちこち触ってみる。
鍵はどうやっても開きそうにない。
牢の間からはもちろん抜け出せない。
壁を触ってみるも頑丈だ。
この悪臭の中、何もする事なくひたすら助けを待つしかないと言うのか。
「頭がおかしくなりそうや」
頭を抱えて嘆くも、虚しく声が響くだけだ。
「ちくしょう、これはまずい。詰んでるぞこれ」
優之助は仰向けに寝転び呟いた。
応援ありがとうございます!
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