来なかった明日への願い

そにお

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第一小節 日常と摩擦

p3 黄昏想う日

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 その後、ゲットーへの配給品と農業、酪農、家畜などの生産性の向上についての施策、ゲットーを囲む壁の修繕について話が行われ、ようやく解放されたころには日が既に傾き、雲は晴れ、黄昏時へと黄色と緑のグラデーションが空を彩った。
 尻も乾いており、固まって張り付いた土をはたき落とす。

「今日は行くっきゃないな」

 気疲れが過ぎると必ず行く場所がある。ましてや黄昏時の幾ばくかの限られた時間を楽しむにはもってこいの場所だ。そうしてたどり着いたゲットーに内陸部の端、空に延びる無骨な鉄塔を見上げる。人気は既にない。時間のせいもあるが、この辺りに近づく人は少ない。それはそれで助かるのもある。ここに近づくことを良く思わない者も多いからだ。
 特等席に向けて鉄でできた螺旋階段を上がっていく。時折剥がれ落ちる錆にいつか登れなくなる時がくるのかと悲しくなる。そんな感慨にふけながら頂上に到着する。屋根付きの決して広くはない使われることのない見張り台だった。ここを見つけた時に作った木造の椅子には座らず落下防止用の柵に腕を乗せて、沈み切った赤の残滓から彩られる景色に心を浸した。

「大人かどうかわからない、か」

 ふとドラグに言われた言葉を思い出す。それが僕のことであることも心当たりもある。僕には皆にあるはずの子どもころの記憶がない。どうやって生まれたのか、どうやって育ったのか、それどころかいるはずの両親の思い出もその顔もまったく記憶にない。こうやって黄昏ながら勝手に作り上げた両親の面影を浮かばせてはやるせない気持ちにうなだれることがしゅっちゅうだった。ただそれでも、悪くはないなって思えるのは、確かに歩んだ記憶のおかげで、ない記憶を夢想するのも悪くはない。このゲットーの前のゲットーもその前のゲットーも悪くはなかった。それどころか良かったと思う。
 この極東ゲットーに流れ、初めて見た海。沈む夕日、この更に東には陽が登る海があり、そこは、神が降り立つ神域だと、かつての別れた友が言っていたことを思い出す。思えば海から登る太陽を見たことはない。どのゲットーも山肌から登り切った太陽の景色しかなかった。沈む太陽しか拝めないというのは、僕たちに科された罰の一つなのかもしれない。

 一息つき、ゲットーを見渡す。神の御技である明かりを灯す装置が、各家庭で来る夜を照らしていた。子ども達は家路へと走り、仕事を終えた大人達は家族の元へと帰る。そしてゲットーを覆うコンクリートの壁に反射していた赤もくすんでいく。ゲットーの中心にそびえるこの鉄塔と比べられないほど高い塔は壁をゆうに越え、できた影が僕のいる鉄塔に影をのばした。ライフラインを支える塔は、単に神塔と呼ばれ、夜にははっきりと天から延びる光が見える。この光が明かりなどのエネルギーになっているらしいが、詳しいことはまったくもって皆無だった。

「帰ろう」

 いい加減、寒くもなってきて足下が見える内に家路に急いだ。また明日が始まるから。


 翌日、一人の部屋で目が覚める。軋むベッドに腰掛け、手を組み、神に一日の幸福を祈る。どこの家庭でもやっていることだろう。
 今日は朝から快晴で、とても気持ちよく起きれた事を感謝する。中心街から離れた一軒家はあてがわれた者で余所者には当たりが強いのはどこのゲットーも同じではあった。ただ、数人の足音がさっそく聞こえて来て、家の前の広い庭ではしゃぐ声が聞こえる。子ども達の格好の遊び場でもあり、空き家だったころから遊んでいたようだ。もちろん初めて出くわした時には一悶着あった。幽霊だなんだの、ラナは泣いてたっけな。

 配給された味気ないパンを腹に満たし、顔を備え付けの井戸から汲み上げた水で洗う。冷たさが心地いい。

「あ、ナル! 寝坊だぞ!」

 庭で遊ぶ子どもに気付かれ、顔をひとしきり吹き終えると、その布を振る。

「君達は朝に強いねえ」

「ナルが弱いだけだろ! あんまり怠けてると壁の外についほーされるって母ちゃんが言ってたぞ!」

「はは、マルの母ちゃんは相変わらず怖いこと言うなあ」

「そうだぞ、たぶん壁の外より怖いぞ!」

 そう言い捨てると再び子ども達の輪にマルは戻っていった。マルは子どもの中でも負けん気が強い男の子で、彼を黙らせることができるのは母のケイくらいだろう。まだ生えかけの角は無垢に太陽の輝きを受け、縦横無尽に走り回っていた。彼も頭角族アングリだ。頭角族は総じて身体能力が高く、さほど鍛えなくても筋肉質な体に成長する。一方そのリーダーであるドラグは別次元の存在で徹底的に肉体をいじめ抜き、遺伝以上に鍛え上げた体は、大人数人がかりでもびくともしないだろう。
 ここに来たばかりの頃、力を持たないやつはいらん。と言われ、それは困るので、全力で突進したところ高密度の鉄の塊にぶつかったのかと思った瞬間、元の位置まで弾き飛ばされ意識を失ったことを思い出す。よくよく聞けば力を示すなどという入居条件はなく、心底安心したものだが、今となっては笑い話になっている。ドラグはすぐ気絶したことが気に入らなかったらしく、嫌われている原因の一つなのだろうとも思う。

「本当に追い出されたらどうしようかと思った」

 目を覚ました瞬間、追い出されると戦慄した事を思い出し、口にでる。家にほど近い壁を仰ぎ見る。うっすらと光の膜が延長線上に延びていて、それの起点は中心の神塔であることは目で追わなくても常識だった。
 時期が時期なら壁の外は死の世界だ。それを教育の手段として用いるのはケイだけでなく、どこの家庭でもよく見られる光景だ。

「さて、行きますか」

 週に何回かの仕事に、肩掛けの鞄を下げ家を後にした。

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