冬の霧

新島 晃

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 桜が散り、冬の寒さが嘘のように感じられる春の夜。
 大学三年生になったばかりの松下航平は、ある場所へと向かっていた。
 表通りの賑わいが他人事のように思えるほどに人のまばらな細い通りを迷うことなく歩いていく。
 東京都内の繁華街、そこから三本ほど横の小道にひっそりとネオンを光らせるバーが松下の目的地だ。赤や緑など色鮮やかなネオン管で作られたダーツとダーツボートが入口を飾っているが、ドアとほとんど同化して見える店名の看板は昼間であればもはや何の店か分からなそうだ。
 空の色を反射してほとんど黒にも見える、シルバーのプッシュプルハンドルを引いて店内に入る。
「お、航平やっと来た、こっちこっち」
「おー、おつおつ」
 一番最初に声を掛けてくれたのは松下のサークル連中らだ。
 他の客も少数ではあるが飲んでいるというのにお構いなしに手を振りながら大きな声で松下を呼ぶ。松下はそれに応えるように手を振ってサークル連中らが占領しているボックスソファまで足を向ける。
 バーの店内はさほど広くはないものの、カウンターとソファ席に別れている。
 バーテンダー達と対面する形に設けられた一列のカウンター席は五席あり、今は二席が埋まっている。どちらも一人客らしく、間を開けてまばらに座っている。
 バーカウンター横の壁面にはダーツボードが張り付けられていてダーツができるようになっている。バーカウンターからダーツエリアを挟むようにしてL字型に黒のボックスソファが置かれ、そこで松下のサークル仲間達は集まっていた。
 カウンター内のバーテンダーに同じサークルの男がいるようで、ソファから直接大きな声で注文をする様子が見れる。
 ダーツエリアでは見知った顔がすでに何人かダーツを楽しんでいた。松下のサークルの先輩や後輩らである。
 どこか落ち着いたような店内の雰囲気とは別に流行りのポップスが流れている。聞き馴染みのあるメロディとリズムに爪先を上下させる男の隣に、松下がソファへと腰を下ろす。
 途中でバーテンダーにアルコールを頼むのも忘れない。
「いや~、遅くなったわごめんごめん」
「ほんとだよ、絶対間に合わせるとか言ってたくせに」
「ごめんって、明日モンスター奢ってやるから。そんで、この子ら一年生の子?」
「そ、お前が遅れてくるから先に飲んじゃったけど」
「いいよ別に。あ俺、松下航平。経済学部三年です、よろしくね」
 男と松下の斜め前には、場の雰囲気にやっと馴染んできたばかりといった女が三人並んで座っていた。それぞれ髪やメイク、服装などの系統が違う。
 髪を明るく茶色に染めた華やかな化粧の女が最初に松下に挨拶をする。一見すると派手そうに見えるが、話すと幼さが抜けないところにまだ高校を卒業したばかりだということが伺える。
 茶髪の女に続くように、黒髪の女がそれぞれ簡潔に自己紹介をする。その内の一人は松下と同じ学部だったようで、嬉しげに口元に笑みを浮かべた。
 松下に不平を漏らしていた男も流れに乗ってか、改めて自己紹介をする。男は自分の前に置かれたグラスを持つと、それを小さく松下に掲げて合図を送る。
 ちょうどタイミングを見計らったように、松下が頼んだドリンクがテーブルに届く。
 男らはすでに一度乾杯をしているらしく、グラスの残りはまちまちだがそんなことを気にする様子はない。
「んじゃ、可愛い子達も入ってくれたことだし、乾杯しますか」
「そうだな、はいみんなグラス持って持ってー」
「はーい」
「持ちました!」
「持ちましたー」
「ん、では、俺らのサークルに来てくれてありがとう! カンパーイ!」
「カンパーイ!」
 カツン、ガキン、と各々のグラスがぶつかる音が響けば、続くように一斉にグラスに口をつける。乾杯後の静寂も束の間で、数口飲んでグラスを机に置いた松下が女達をぐるりと見てから口を開く。
「今年の子みんな可愛いじゃん、何でこのサークル入ろうと思ってくれたの?」
 流れるような嘘に、思ってもいない質問。もはや毎年の恒例行事だ。
 松下の入っているこのサークルは、表向きはスノーボードサークルとして活動をしている。しかし、ここ東京都心は雪は降れどもウィンタースポーツが行えるほどではない。
 実際のところこのサークルはいわゆる「ヤリサー」「飲みサー」と呼ばれるものである。雪の降らない冬以外の季節は高頻度で飲み会やキャンプなどが開催され、冬になれば「皆でスノボをしよう」という名目で合宿が開催される。
 今日のこの集まりは新入生歓迎会というわけだ。松下のような、就活に本気を出す時期でもないメンバー達が新入生の女子達をお持ち帰りするためだけに開催されている。
 そのため当然のように未成年である新入生にもアルコールが振る舞われる。どれも酒特有のアルコール臭さを感じさせないジュースのような甘い酒ばかりだ。
 松下たちの狙い通り、女達は何も気にする様子もなくグラスを各々のペースで煽っていく。
 松下の問いに、黒髪の女達が答える。 
「え、なんか、皆仲良さそうっていうか、先輩達みんな優しくていいなって思って」
「私も、大学に知り合いいなくて上手くやってけるか不安で、先輩達フレンドリーだしいいなって思ったんですよね」
 便乗するように茶髪の女がグラスを片手に口を開く。
「私、実家が東北で一人で上京してきたからほんと不安だったんですよ、けど楽しそうなところに入れて嬉しいです、へへ」
 松下が入ってきた時の女達は仄かに緊張の様子を含んだ表情だったが、今は自然な笑みを浮かべている。まだまだ飲み慣れない酒のせいもあるだろう、茶髪の女はすでに頬がうっすらと赤みを帯びている。
「へぇ~東北かぁ、俺仙台なら行ったことあるよ。そっちの二人は? 結構近い?」
「私名古屋です」
「埼玉でーす」
「名古屋いいね。あ、俺名古屋弁で知ってるのあるよ。アッツアツのもののことチンチンって言うんでしょ」
 松下が若干揶揄うようにそう言い、悪戯っ子のようにくしゃりと笑う。白々しくありつつも嫌な感じは全くしない。
 松下の言葉に黒髪の女は大袈裟に怒るふりをする。先ほどまでは大人しげな雰囲気だったがこちらが素なのだろう。口調こそ大袈裟であるが表情はどこか嬉しげだ。
「イントネーション! イントネーション違うから! もぉ~、怒りますよ!」
「っふふ、ごめんって。方言って俺聞き慣れてなくて新鮮だから聞いてみたくなって。なんか喋ってみてよ」
「なになに、盛り上がってんじゃん俺も入れてよ」
 松下達の話の盛り上がりを察知したのか、ダーツを楽しんでいた男の一人が会話に混じりにやって来た。女達の隣にどかりと腰を下ろし、女達の両隣を松下達と挟むような形になる。
 ちなみに松下の言っている「方言が聞きたい」などという言葉は全くの嘘である。
 そもそも松下の在籍している私立大学はその名前を聞いたことのない人はいないといっても過言ではないほどの有名大学で、毎年全国各地域から多くの学生が入学する。
 松下のいる経済学部にも関東圏はもちろん関西圏の人間は多くいるし、今集まっているこのサークルにも当然、他地方出身者は何人かいる。現に松下の隣にいる男は大阪出身で、ダーツをしていた男は山梨出身である。今このボックスソファにいる面々で純粋な東京生まれ東京育ちは松下だけだ。
 松下達に向けられていた女達の視線が途中から入って来た男に向けられる。
 この男は松下の一歳上の先輩でありながら留年して同学年になった男である。サークルの飲みの場には高頻度で顔を出すくせに大学の講義は欠席が目立つ。
 毛先だけ金色に染めた短めの髪のツンツンとしたシルエットが特徴的で、ストリート系の衣服に身を包み、指先に鈍く光る大ぶりなシルバーリングがどこか近寄りがたいような雰囲気を醸し出している。
 どちらかといえば親しみやすい雰囲気の松下とは見た目だけでは正反対にも見えるかもしれない。そんな男が紙タバコを片手に煙を燻らせながら急に隣に座ってくるも、先に親睦を深めていたようで女達は特に嫌な顔はしなかった。
 年上の男が一気に会話の中心を掻っ攫っていったことをきっかけに、自分に向けられる視線がほとんどなくなったことに気づいた松下は目の前の女達に視線をやる。
 会話に時折混じりながらも一人一人の細かい部分を見る。髪、化粧、アクセサリー、服装、腕、胸、太腿、臀部、そして表情。その一つ一つを勝手に審査し勝手に点数をつけていく。
 茶髪の女は八十七点、黒髪の女の片方は七十七点、もう片方は八十点。
 採点基準は当たり前のように「抱きたいか」「抱きたくないか」のただそれだけだ。
「そういやもうみんなバイトとかしてんの?」
 年上の男がいつものように話題を振る。ありふれたごく普通の質問にしか思えない問いかけに、女達は特別何かを警戒するわけもなく答える。
 最後に茶髪の女が視線を僅かに逸らしながら若干言いづらそうに口を開く。
「私掛け持ちしてます、まだ始めたばっかだけど。学費は親が頑張って出してくれてるんですけど流石に生活費もってなると足りないから……」
「めちゃくちゃ偉いじゃん、東京の一人暮らしってお金掛かるもんね」
「そうなんですよ、けど普通のサラリーマンの家で、東京の大学に行かせてくれてるからあんまり無理言えなくって」
「俺らも見習わなきゃだわ、なあ航平」
「そっすね、けど働く前に進級が先っしょ、ねぇ先輩」
「お前ほんっと、俺と学年タメになってからかわいくねぇな」
 一瞬真面目な雰囲気になりかけていた場の空気が、松下の先輩弄りで元のくだけたものに戻る。
 茶髪の女が言うように、松下達の通う大学は私立ということもあり学費はポンと簡単に出せるほど安くない。理系学科の学費と比べるとマシとは言えるものの、国公立大学の学費と比べると圧倒的に高い。そのため、附属高校などからの内部進学生が多く家庭が裕福な学生も数多くいる中で苦学生も一定多数存在する。
 きっと茶髪の女の場合は親戚の誰かが、将来奨学金返済で悩まないためにと学費を捻出してくれているのだろう。しかし東京は家賃だけでなく生きていくための全ての物価も高い、この女のようにアルバイトで生活費を賄う必要のある学生も決して珍しくはなかった。
 そんな女の話を聞いた松下は、年上の男を茶化しつつも脳内で女に加点していた。
 同情からなどという生易しいものではない。親族が遠方にいて、東京での大学生活を楽しめるようにと願われている女。
 言い返せば、容易に助けを求めたり相談する相手が近くにいないということである。何かあっても泣き寝入りするしかないような女は都合がいい。
 会話の途中でふと小さくブブブッと振動したことに気づき、松下がジーンズのポケットからスマートフォンを取り出す。
 画面には緑色のアイコンをしたチャットアプリの通知画面が表示されていた。名前の欄には『スノボ!』と書かれているあたり、サークルのグループチャットからの通知だろう。見覚えのあるアイコンの横にメッセージが綴られている。
『こっちはもう始めてまーす笑』
 簡潔な内容のメッセージの後に間髪入れずに同じ人物から動画が送信された。
「ごめん、ちょっとトイレ」
「おう、いってら」
 別の話題で盛り上がり始めたところに一言断って席を立つ。
 送り出してくれた男は何か察したように手をひらひらと軽く振って見送ってくれた。
 バーの隅に設置されたトイレに入り鍵を閉め、すぐにスマートフォンを取り出す。
 間接照明によって店内と同じくらい薄暗い室内に、スマートフォンの明かりがやけに眩しく浮き上がった。スマートフォンの画面に表示されている通知を親指でタップし、チャットアプリを開く。
 目当てのグループには先ほどの通知から新しいメッセージは来ていないようで、通知文と全く同じ文面と動画のサムネイルがトーク画面の一番下に来ている。
 そのメッセージの送り主は、松下と同い年のサークルメンバーだった。松下達がこのダーツバーで新入生歓迎会を行うのと同時刻に、サークルの人数が多いからという理由で別の場所で新入生歓迎会をしていたはずの男だ。
 動画はサークルメンバーのうちの誰かの家だろうか、濃いグレーのシーツに皺が寄り床には服が数枚脱ぎ捨てられている。サムネイルになっている画像ではブレているが、映っている男達が松下と同じサークルの人間だということはすぐにわかった。
 同じようにブレており不鮮明だが、女の髪らしき長い髪も映り込んでいる。松下は再度、画面を親指でタップした。動画が再生される。
 それは、男の下劣な声から始まった。
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