5 / 5
(上)1-4
しおりを挟む
松下は根気強く女へと話しかける。女の返答には愛想があるとは言えなかったが、最初と比べて確実に警戒心が薄れているように感じられた。
それぞれのグラスが程よく空になってきた頃、松下から色々と質問をされる形で会話していた女が口を開く。
お互いのグラスが空になるまでの間、女が笑顔を浮かべることはなかった。会話の途中で視線が多少動く程度で、表情が大きく変化することはなかった。
女は、その無表情さに反して意外と話すんだなという程度で、松下の自信が喪失しかけるほどに変化は皆無である。
そうして、松下が半ば諦めるべきかと密かに悩みだした時だった。
「こんなとこでずっと喋っててもアレやし、外行こうや」
思いもよらない大胆な提案だった。断るはずがない。
松下はその誘いに迷うことなく返事をすれば、流れるように二人分のドリンク代を支払った。積極的ともとれる急な女の誘いに、先ほどの会話の悩みなど綺麗さっぱりと消し飛んだ。
外に出た二人を風がふんわりと包む。桜が散り過ごしやすくなった季節とはいえども、夜の風は未だ仄かに冷たさを孕んでいる。
ただ、隣にいる存在が松下から寒さを忘れさせる。
いざ立ってみると女のスタイルの良さがより引き立った。
成人女性の平均よりも高いとはいえ松下よりも低いはずの女だが、腰の位置が明らかに高い。それは男物と思しきスーツの上からでも一目瞭然だった。カウンターの席を立つときに見えた、スラリとした無駄のない身体のラインが松下の脳裏から離れない。
胸も尻も決して大きいわけではないが、松下はスレンダーな女は嫌いではない。
女に言われるまま特に行き先など決めずに出てきた松下は、視線を合わせるように首を傾げて問いかける。
「どこ行く? あっちとかに隠れ家風のバーとかあるけど」
「あっちとかはちょっと人目つくから、もうちょっと」
あっち、と指を差したのは自分達から見て左側、繁華街のある方角である。
松下の指差す方向を見るでもなく女が着いて来いとだけ返す。
今向かっているのはダーツバーのある路地のさらに奥、人の通りがほとんどない場所である。かといって松下は女の行動を不審に思ったりはしていなかった。
どこに行くのだろうという疑問は残りつつも、今までの女達とは全く違う目の前の女の行動に興味をそそられるのみだ。ましてやそれが狙いを定めた女なら尚更である。
バーの周りですらほとんどないに等しかった人通りは、角を一つ曲がって細い路地に入れば完全に無くなった。
夜の人通りが皆無に近いせいなのか、二人の上では薄ら暗くぼんやりとした青色灯が道を照らしている。
その路地に入り、少ししたところで女が足を止めて松下の方を向く。
身長差があるため必然的に女が松下を見上げる形になった。誰も寄せ付けない静けさを持つ女からの上目遣いに近いそれと、まるで二人だけの特別な空間を演出しているかのような青色灯に松下の中で興奮の炎がメラメラと燃え上がる。
近くに古い建物が幾数もあるにも関わらず、それらはただのビジネスビルらしくどの窓も真っ暗で、薄暗い青色灯の灯りでは遠くの人にこちらの様子がはっきりと見えることはないだろう。
松下の方を向いた女は、顔を上げずに松下をじっと見つめるように見上げたまま言葉を続ける。それは先ほどの変化に乏しかった表情とは違い、どこか誘惑的な声色を含んでいるように感じられた。
「ちょっとこの辺で。若い子と良い感じなん、知り合いに見られたら恥ずかしいやろ」
「なにそれ、ズルい」
松下が熱を灯した視線を女に向ける。
女のそれは遠回しにこちらを誘ってきているとも捉えられる言葉だった。
思いもよらぬ女の積極的すぎるとも言える言葉はひどく扇情的で、余裕のない表情を浮かべそうになった。性欲に露骨にギラつく男は嫌われる、松下は相手に飲まれぬように平然を保っていた。
しかし、女はそのまま言葉を続ける。女の口から発せられる声のトーンは、松下がバーで声をかけた時から変わらないはずだというのに、場の雰囲気のせいかどこか挑戦的にも聞こえる。
「こういうこと、したかったんやないの」
そう言って、女がやや目を細めて顔を上げる。
それまで上目遣い気味に松下を見上げるだけだった女の視線が、顔を上げたことでやや見下ろす形へと変わる。まるで松下を挑発しているようにも見えた。
顔を上げたことで露わになった女の滑らかで白い首筋が、ぼんやりとした青色灯に照らされて妖艶に光を反射する。第一ボタンの外されたシャツの隙間からは、鎖骨が松下を誘うように姿を見せている。
こちらの理性を試すようなこうした女の台詞や態度は、松下から余裕を奪うには充分すぎた。そもそも女の方から、こんな人目につかないような路地を選んでいるのである。いずれにせよ松下の理性が崩れるのは時間の問題だということは自明だ。
そこからの松下の行動は早かった。
女の肩を優しく抱いたかと思えば、すぐ後ろのビルの壁へと押しやる。
外だということをまるで気にする様子のない大胆な動きだ。女から誘われる形であるならば変に格好をつける必要もない、それに誰かに見られるかもしれないというスリルがより一層興奮を誘う。外でこうした行動に走ることに躊躇いは無かった。
抱いた女の肩は、想像よりも華奢だった。
壁に押し付ける形で松下と女が向かい合う。身長差があるとはいえ、お互いの呼吸が聞こえてもおかしくないほどの距離だった。
先に動いたのは女だった。心の奥底を見透かすほどにじっと見つめながら、松下の胸板へと布越しに手を這わせる。その動作に松下の理性が切れかかった時だった。
女が急に服を掴んで松下を強引に引き寄せた。
同時に女の片膝が差し込まれるように滑らかに松下へと向けられる。
「いッッ、づ、、‼︎」
身体を駆け抜けた電撃のような痛みに耐えきれず、松下は思わず前屈みになった。
反射神経に近い速度で両手で股間を抑える。狙われたのは男の弱点だった。
ガンガンと後を引く痛みに、膝の力が徐々に抜けそうになる。
しかし痛みに耐えていたのも束の間だった。
女が拳を握ったかと思えば、微塵の躊躇もなく松下の顎下へと一直線に向ける。
当然松下がそれを避けられるはずもなく、かまされたアッパーの勢いのままに地面に膝から落ちる。
そんな松下に追い打ちをかけるように、女は松下の側頭部を思いきり蹴飛ばす。最早松下に抵抗する意思も力もなく、ドサリと音を立てて地面へと倒れ込んだ。悲鳴を上げる暇は与えられなかった。
衝撃に未だ揺れる視界、耳鳴りの止まない片耳、脈動と連動するようにガンガンと痛む頭。鼻からぬるりと垂れる熱い感触。
松下は状況を飲み込めないままに冷え切ったアスファルトの上に額を預けていた。いつのものかもわからない湿気た吸い殻のくすんだ白色がやけに目につく。
痛みからか激しい動悸が襲いかかってきた。
そして己の荒い呼吸音だけが脳内を占領する。
—―このまま殺されるのかな。
松下の頭の中にそんな言葉がよぎった。
全くの容赦も躊躇も手加減もなく向けられた、純粋で一方的な暴力は松下から反撃の意欲を奪うには十分すぎた。
そもそも、松下はこれまでの人生で誰かに本気で殴られたことはおろか、誰かを本気で殴ったことすらない。真っ直ぐに向けられる暴力になど慣れているはずもなかった。今まで陵辱してきた女達が「やめて」も「助けて」も言わずにほぼ無抵抗なままでいた理由がわかった気がした。
そのせいか、女にされるがままの自分がまるで他人の様に感じられた。
割れる様に痛い頭も、キーンと鳴る耳も、鐘を打ち鳴らすような心臓の音も、すべてを確かに感じているはずだというのに自分を俯瞰して見ているようだ。夢でないことだけはわかるが、しかし今起こっていることが現実のようには思えなかった。
身体を起こそうにも、眩暈と頭痛がひどくて思う様に動かない。
視界の端で、女の黒い革靴に皺が入ったのが見えた。
何も迷いもなく、女の腕が頭の上へと伸びてくる。
女は地面に倒れ込んだ松下の前にしゃがみ込み、頭に左手を伸ばしたかと思うと、松下の髪を思いきり掴んでそのまま持ち上げるようにぐいと上を向かせた。
鼻血と地面の塵で薄汚れた松下の顔が青色灯に照らされる。
いつの間にか涙で湿った瞳が殴られた衝撃で視線が定まらぬのか虚空を眺めている。
女はそんな松下の様子をじ、と確認すると、右手で作った拳を松下の頬へと繰り出した。それは、まるで松下の意識をこちらへと無理やり戻すような動きだった。
頬を殴られた松下は声の一つも上げられなかった。ぼうっと霧がかかったような意識が、鮮烈な痛みと衝撃によって現実へと呼び起こされた。
次は何をされるのだろうか、そう思っても続く一撃は来なかった。
衝撃で思わずぎゅっと瞑ってしまった目をゆっくりと開ける。
髪を掴んで顔を上げられているのは変わらないが、それでも急に訪れた暴虐の静寂に思わず口から疑問の声が漏れる。
「なん、で……」
それは、己の身に降りかかっている今の状況についての問いでもあった。答えが返ってくるわけなどどこにもないというのに、口から漏れ出てしまった。
開いた視界に映った女の胸元から、自然と目を合わせようと視線を上に向けてゆく。
「……ッ、、」
松下は思わず息を呑み、そして目が離せなくなった。
女が、自分を見ていた。
松下が瞳に宿した困惑と、恐怖のその遥か奥まで見通してしまいそうな女の双眸が。
こちらの全てを余すことなく見通しそうでありながら、こちらからは推し量ることすら難しげな無機質な双眸が、静かに松下を見下ろしている。
松下は、それにまるで心臓を鷲掴みにされたように目を離すことができなかった。
呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。
女の瞳は何の表情も宿さず、温度すらもこもっていない。何かの意思の様なものは感じられるのに、何も読み取ることの出来ない目だ。どこまでも冷たく、奥の知れないその瞳に松下はうるさいくらいに自分の心臓が脈打つのがわかった。
周りの音がどんどんと己の鼓動に侵食されていき、殴られていないはずの頬まで熱くなってくる。最早、松下にとって痛みなどどうでもよかった。一人の女からこんなにも視線が外せないのは初めてだった。
女は自分を見つめたまま惚けた松下から目を逸らさずに口を開く。
「お前、ほんまにええことできるとでも思ったん」
軽蔑的なニュアンスを含みながらも、女は松下の返事を待つまでもなく淡々と言葉を続ける。
「ジロジロ見てきて気色悪い。イケるんちゃうかっていう魂胆、透け透けやねん。調子こいてるだけのボケが。千切んぞハゲ」
急に畳み掛けるように投げられる言葉の数々に松下の理解が追いつかない。
先ほどまで、口数少なく冷酷にこちらを蹂躙していた人物とはまるで結びつかない言葉数に、松下は女の唇の動きをただ追うことしか出来ずにいた。関西弁特有の、標準語よりも高低差に富んでいるはずの音の波が、何の色もなく淡々と紡がれるのはなんとも奇妙な感覚だ。
そんなことよりも、この氷のように冷たい女が強い言葉を己にぶつけてきているという状況に胸が高鳴る一方だった。何か返事をしなければ、そう思うのに口をただパクパクと酸素不足の魚のように開くことしかできない。
その時だった。
「——吉川ッ! お前!」
人通りのないはずの路地に太い男の声が響き、松下の肩がびくりと跳ねる。
松下の頭を掴んでいた女が、うざったそうに顔を上げて声の方向へと視線をやる。
女が目をやった先、松下達がバーから歩いてきた道の方向から、一人の男がイラついた様子の大股でこちらへと向かってきていた。
その男は中年とまではいかないであろう年齢の、がっしりとした体格の男だった。
しっかりと鍛えているのであろう、身体全体に厚みがあり暗い中でも薄く日焼けしているのがわかる。針金のように太い黒髪は短く揃えられ、意思の強そうなしっかりとした眉が額に深い皺を寄せている。
松下達に向かって歩いてくるその男は、目の前の女とはまるで対角の人間のような存在だった。肌の色も体格も纏っている雰囲気も、女のそれとはまるで違う。
男は今にも殴りかかりそうなほど怒りを露わにし、女と松下を見下ろしていた。
「吉川、何してる」
吉川、と呼ばれた女は松下の頭を掴んだまま、ゆったりとした動作で顔を上げる。
その動きは、邪魔をするなとでも言いたげな気怠そうな動きだった。表情は相変わらず無を携えたままだ。
先ほどまで松下に乱暴な言葉を投げていた薄い唇が開かれる。
「お前が来やんせいで変なんに絡まれてんねや、見てわかるやろ」
「俺はただ大人しく集合場所にいろって言ったよな? 覚えてねェのか」
「だから人少ないところ来てるんちゃうん。監視カメラとかないはずやろここ」
「ッチ、知らんところで人殴ってんじゃねぇよって言ってんだよ、俺は」
男の問いかけに対する全く反省の意思の見えない女の回答に、男が眉間の皺をさらに深くする。女を見下ろす男のその目には、明らかな嫌悪が含まれていた。
一方で松下はといえば、男の乱入により一瞬冷静になりかけたものの、改めて体感する頭の奥の鈍く重たい痛みに苛まれていた。
「何、都合悪いんやったらこうしたらええんちゃうの」
男と口論に近い会話をしていたはずの女が松下へと視線を戻す。女の瞳は相変わらず何も読み取れず、それでいて松下を覗き込むような目のままだった。
女と目が合った瞬間から松下の胸が高鳴り始めた、その時。
松下の顔面は、髪を掴んでいる女の手によってそのままアスファルトへと強く打ち付けられた。路地に響いた一つの鈍い音と共に、松下は意識を手放した。
それぞれのグラスが程よく空になってきた頃、松下から色々と質問をされる形で会話していた女が口を開く。
お互いのグラスが空になるまでの間、女が笑顔を浮かべることはなかった。会話の途中で視線が多少動く程度で、表情が大きく変化することはなかった。
女は、その無表情さに反して意外と話すんだなという程度で、松下の自信が喪失しかけるほどに変化は皆無である。
そうして、松下が半ば諦めるべきかと密かに悩みだした時だった。
「こんなとこでずっと喋っててもアレやし、外行こうや」
思いもよらない大胆な提案だった。断るはずがない。
松下はその誘いに迷うことなく返事をすれば、流れるように二人分のドリンク代を支払った。積極的ともとれる急な女の誘いに、先ほどの会話の悩みなど綺麗さっぱりと消し飛んだ。
外に出た二人を風がふんわりと包む。桜が散り過ごしやすくなった季節とはいえども、夜の風は未だ仄かに冷たさを孕んでいる。
ただ、隣にいる存在が松下から寒さを忘れさせる。
いざ立ってみると女のスタイルの良さがより引き立った。
成人女性の平均よりも高いとはいえ松下よりも低いはずの女だが、腰の位置が明らかに高い。それは男物と思しきスーツの上からでも一目瞭然だった。カウンターの席を立つときに見えた、スラリとした無駄のない身体のラインが松下の脳裏から離れない。
胸も尻も決して大きいわけではないが、松下はスレンダーな女は嫌いではない。
女に言われるまま特に行き先など決めずに出てきた松下は、視線を合わせるように首を傾げて問いかける。
「どこ行く? あっちとかに隠れ家風のバーとかあるけど」
「あっちとかはちょっと人目つくから、もうちょっと」
あっち、と指を差したのは自分達から見て左側、繁華街のある方角である。
松下の指差す方向を見るでもなく女が着いて来いとだけ返す。
今向かっているのはダーツバーのある路地のさらに奥、人の通りがほとんどない場所である。かといって松下は女の行動を不審に思ったりはしていなかった。
どこに行くのだろうという疑問は残りつつも、今までの女達とは全く違う目の前の女の行動に興味をそそられるのみだ。ましてやそれが狙いを定めた女なら尚更である。
バーの周りですらほとんどないに等しかった人通りは、角を一つ曲がって細い路地に入れば完全に無くなった。
夜の人通りが皆無に近いせいなのか、二人の上では薄ら暗くぼんやりとした青色灯が道を照らしている。
その路地に入り、少ししたところで女が足を止めて松下の方を向く。
身長差があるため必然的に女が松下を見上げる形になった。誰も寄せ付けない静けさを持つ女からの上目遣いに近いそれと、まるで二人だけの特別な空間を演出しているかのような青色灯に松下の中で興奮の炎がメラメラと燃え上がる。
近くに古い建物が幾数もあるにも関わらず、それらはただのビジネスビルらしくどの窓も真っ暗で、薄暗い青色灯の灯りでは遠くの人にこちらの様子がはっきりと見えることはないだろう。
松下の方を向いた女は、顔を上げずに松下をじっと見つめるように見上げたまま言葉を続ける。それは先ほどの変化に乏しかった表情とは違い、どこか誘惑的な声色を含んでいるように感じられた。
「ちょっとこの辺で。若い子と良い感じなん、知り合いに見られたら恥ずかしいやろ」
「なにそれ、ズルい」
松下が熱を灯した視線を女に向ける。
女のそれは遠回しにこちらを誘ってきているとも捉えられる言葉だった。
思いもよらぬ女の積極的すぎるとも言える言葉はひどく扇情的で、余裕のない表情を浮かべそうになった。性欲に露骨にギラつく男は嫌われる、松下は相手に飲まれぬように平然を保っていた。
しかし、女はそのまま言葉を続ける。女の口から発せられる声のトーンは、松下がバーで声をかけた時から変わらないはずだというのに、場の雰囲気のせいかどこか挑戦的にも聞こえる。
「こういうこと、したかったんやないの」
そう言って、女がやや目を細めて顔を上げる。
それまで上目遣い気味に松下を見上げるだけだった女の視線が、顔を上げたことでやや見下ろす形へと変わる。まるで松下を挑発しているようにも見えた。
顔を上げたことで露わになった女の滑らかで白い首筋が、ぼんやりとした青色灯に照らされて妖艶に光を反射する。第一ボタンの外されたシャツの隙間からは、鎖骨が松下を誘うように姿を見せている。
こちらの理性を試すようなこうした女の台詞や態度は、松下から余裕を奪うには充分すぎた。そもそも女の方から、こんな人目につかないような路地を選んでいるのである。いずれにせよ松下の理性が崩れるのは時間の問題だということは自明だ。
そこからの松下の行動は早かった。
女の肩を優しく抱いたかと思えば、すぐ後ろのビルの壁へと押しやる。
外だということをまるで気にする様子のない大胆な動きだ。女から誘われる形であるならば変に格好をつける必要もない、それに誰かに見られるかもしれないというスリルがより一層興奮を誘う。外でこうした行動に走ることに躊躇いは無かった。
抱いた女の肩は、想像よりも華奢だった。
壁に押し付ける形で松下と女が向かい合う。身長差があるとはいえ、お互いの呼吸が聞こえてもおかしくないほどの距離だった。
先に動いたのは女だった。心の奥底を見透かすほどにじっと見つめながら、松下の胸板へと布越しに手を這わせる。その動作に松下の理性が切れかかった時だった。
女が急に服を掴んで松下を強引に引き寄せた。
同時に女の片膝が差し込まれるように滑らかに松下へと向けられる。
「いッッ、づ、、‼︎」
身体を駆け抜けた電撃のような痛みに耐えきれず、松下は思わず前屈みになった。
反射神経に近い速度で両手で股間を抑える。狙われたのは男の弱点だった。
ガンガンと後を引く痛みに、膝の力が徐々に抜けそうになる。
しかし痛みに耐えていたのも束の間だった。
女が拳を握ったかと思えば、微塵の躊躇もなく松下の顎下へと一直線に向ける。
当然松下がそれを避けられるはずもなく、かまされたアッパーの勢いのままに地面に膝から落ちる。
そんな松下に追い打ちをかけるように、女は松下の側頭部を思いきり蹴飛ばす。最早松下に抵抗する意思も力もなく、ドサリと音を立てて地面へと倒れ込んだ。悲鳴を上げる暇は与えられなかった。
衝撃に未だ揺れる視界、耳鳴りの止まない片耳、脈動と連動するようにガンガンと痛む頭。鼻からぬるりと垂れる熱い感触。
松下は状況を飲み込めないままに冷え切ったアスファルトの上に額を預けていた。いつのものかもわからない湿気た吸い殻のくすんだ白色がやけに目につく。
痛みからか激しい動悸が襲いかかってきた。
そして己の荒い呼吸音だけが脳内を占領する。
—―このまま殺されるのかな。
松下の頭の中にそんな言葉がよぎった。
全くの容赦も躊躇も手加減もなく向けられた、純粋で一方的な暴力は松下から反撃の意欲を奪うには十分すぎた。
そもそも、松下はこれまでの人生で誰かに本気で殴られたことはおろか、誰かを本気で殴ったことすらない。真っ直ぐに向けられる暴力になど慣れているはずもなかった。今まで陵辱してきた女達が「やめて」も「助けて」も言わずにほぼ無抵抗なままでいた理由がわかった気がした。
そのせいか、女にされるがままの自分がまるで他人の様に感じられた。
割れる様に痛い頭も、キーンと鳴る耳も、鐘を打ち鳴らすような心臓の音も、すべてを確かに感じているはずだというのに自分を俯瞰して見ているようだ。夢でないことだけはわかるが、しかし今起こっていることが現実のようには思えなかった。
身体を起こそうにも、眩暈と頭痛がひどくて思う様に動かない。
視界の端で、女の黒い革靴に皺が入ったのが見えた。
何も迷いもなく、女の腕が頭の上へと伸びてくる。
女は地面に倒れ込んだ松下の前にしゃがみ込み、頭に左手を伸ばしたかと思うと、松下の髪を思いきり掴んでそのまま持ち上げるようにぐいと上を向かせた。
鼻血と地面の塵で薄汚れた松下の顔が青色灯に照らされる。
いつの間にか涙で湿った瞳が殴られた衝撃で視線が定まらぬのか虚空を眺めている。
女はそんな松下の様子をじ、と確認すると、右手で作った拳を松下の頬へと繰り出した。それは、まるで松下の意識をこちらへと無理やり戻すような動きだった。
頬を殴られた松下は声の一つも上げられなかった。ぼうっと霧がかかったような意識が、鮮烈な痛みと衝撃によって現実へと呼び起こされた。
次は何をされるのだろうか、そう思っても続く一撃は来なかった。
衝撃で思わずぎゅっと瞑ってしまった目をゆっくりと開ける。
髪を掴んで顔を上げられているのは変わらないが、それでも急に訪れた暴虐の静寂に思わず口から疑問の声が漏れる。
「なん、で……」
それは、己の身に降りかかっている今の状況についての問いでもあった。答えが返ってくるわけなどどこにもないというのに、口から漏れ出てしまった。
開いた視界に映った女の胸元から、自然と目を合わせようと視線を上に向けてゆく。
「……ッ、、」
松下は思わず息を呑み、そして目が離せなくなった。
女が、自分を見ていた。
松下が瞳に宿した困惑と、恐怖のその遥か奥まで見通してしまいそうな女の双眸が。
こちらの全てを余すことなく見通しそうでありながら、こちらからは推し量ることすら難しげな無機質な双眸が、静かに松下を見下ろしている。
松下は、それにまるで心臓を鷲掴みにされたように目を離すことができなかった。
呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。
女の瞳は何の表情も宿さず、温度すらもこもっていない。何かの意思の様なものは感じられるのに、何も読み取ることの出来ない目だ。どこまでも冷たく、奥の知れないその瞳に松下はうるさいくらいに自分の心臓が脈打つのがわかった。
周りの音がどんどんと己の鼓動に侵食されていき、殴られていないはずの頬まで熱くなってくる。最早、松下にとって痛みなどどうでもよかった。一人の女からこんなにも視線が外せないのは初めてだった。
女は自分を見つめたまま惚けた松下から目を逸らさずに口を開く。
「お前、ほんまにええことできるとでも思ったん」
軽蔑的なニュアンスを含みながらも、女は松下の返事を待つまでもなく淡々と言葉を続ける。
「ジロジロ見てきて気色悪い。イケるんちゃうかっていう魂胆、透け透けやねん。調子こいてるだけのボケが。千切んぞハゲ」
急に畳み掛けるように投げられる言葉の数々に松下の理解が追いつかない。
先ほどまで、口数少なく冷酷にこちらを蹂躙していた人物とはまるで結びつかない言葉数に、松下は女の唇の動きをただ追うことしか出来ずにいた。関西弁特有の、標準語よりも高低差に富んでいるはずの音の波が、何の色もなく淡々と紡がれるのはなんとも奇妙な感覚だ。
そんなことよりも、この氷のように冷たい女が強い言葉を己にぶつけてきているという状況に胸が高鳴る一方だった。何か返事をしなければ、そう思うのに口をただパクパクと酸素不足の魚のように開くことしかできない。
その時だった。
「——吉川ッ! お前!」
人通りのないはずの路地に太い男の声が響き、松下の肩がびくりと跳ねる。
松下の頭を掴んでいた女が、うざったそうに顔を上げて声の方向へと視線をやる。
女が目をやった先、松下達がバーから歩いてきた道の方向から、一人の男がイラついた様子の大股でこちらへと向かってきていた。
その男は中年とまではいかないであろう年齢の、がっしりとした体格の男だった。
しっかりと鍛えているのであろう、身体全体に厚みがあり暗い中でも薄く日焼けしているのがわかる。針金のように太い黒髪は短く揃えられ、意思の強そうなしっかりとした眉が額に深い皺を寄せている。
松下達に向かって歩いてくるその男は、目の前の女とはまるで対角の人間のような存在だった。肌の色も体格も纏っている雰囲気も、女のそれとはまるで違う。
男は今にも殴りかかりそうなほど怒りを露わにし、女と松下を見下ろしていた。
「吉川、何してる」
吉川、と呼ばれた女は松下の頭を掴んだまま、ゆったりとした動作で顔を上げる。
その動きは、邪魔をするなとでも言いたげな気怠そうな動きだった。表情は相変わらず無を携えたままだ。
先ほどまで松下に乱暴な言葉を投げていた薄い唇が開かれる。
「お前が来やんせいで変なんに絡まれてんねや、見てわかるやろ」
「俺はただ大人しく集合場所にいろって言ったよな? 覚えてねェのか」
「だから人少ないところ来てるんちゃうん。監視カメラとかないはずやろここ」
「ッチ、知らんところで人殴ってんじゃねぇよって言ってんだよ、俺は」
男の問いかけに対する全く反省の意思の見えない女の回答に、男が眉間の皺をさらに深くする。女を見下ろす男のその目には、明らかな嫌悪が含まれていた。
一方で松下はといえば、男の乱入により一瞬冷静になりかけたものの、改めて体感する頭の奥の鈍く重たい痛みに苛まれていた。
「何、都合悪いんやったらこうしたらええんちゃうの」
男と口論に近い会話をしていたはずの女が松下へと視線を戻す。女の瞳は相変わらず何も読み取れず、それでいて松下を覗き込むような目のままだった。
女と目が合った瞬間から松下の胸が高鳴り始めた、その時。
松下の顔面は、髪を掴んでいる女の手によってそのままアスファルトへと強く打ち付けられた。路地に響いた一つの鈍い音と共に、松下は意識を手放した。
10
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる