49 / 58
4(智臣side)
7
三十歳を過ぎてからの二年間、俺は営業成績年間MVPを取り続けた。今年の成績も順調で、周囲では最年少での課長昇進が噂され始めていた。そして俺自身も、そのつもりで必死に仕事に打ち込んでいた。
だがその風向きが変わったのは、異母兄弟が副社長に就任したからだった。
『榛名さん、成績いいのは枕営業してるから、らしいぜ』
『え、俺は過剰接待やってるって聞いた』
そんな根も葉もない噂が、社内を流れ始めた。それを教えてくれたのは、入社後半分も残っていなかった同期の一人。さすがに聞くに堪えない話を耳にしたらしく、こっそり俺に知らせてくれていた。
社内を歩けば遠巻きにひそひそと話す、社員たちの好奇の視線が刺さった。それでも、実力がものをいう会社だ。誰にも文句は言わせないつもりだった。噂が広がれば広がるほど、寝食も忘れ仕事に没頭した。
だがそんな俺を、簡単に打ちのめすようなことが起こった。
『榛名くん。君は、うちの病院の女性たちに次々手を出してるんだって? 失望したよ。すまないが、これから信用することはできない。担当を変えてくれ』
全く身に覚えはない。それどころか、いくら誘われようが取引先の女性と関係を持とうとしたことはなかった。
入社してからずっと出入りしていた大病院の医者に、厳しい表情で言われて、頭の中で何かが叩き潰されたような衝撃を受けた。誤解を解こうにも取り付く島もなく、追い出されるように病院をあとにするしかなかった。ぷつっと、張りつめた糸が切れたような感覚が自分を襲う。呆然としながら、去年よりさらに過酷だといわれる真夏の道をフラフラと歩いた。そして――。
――北向きの窓の外では、けたたましく蝉が鳴いている。ベッドの上に座り、ぼんやりとそれを聞いていた。何の気力も湧かず、項垂れるように座っているだけ。腕にはまだ点滴が繋がれているが、数日も見ていると、それが当たり前の光景になっていた。
ベッドを囲う白いカーテンが少し揺れ、向こうに人影が写る。
「智臣さん、起きていらっしゃる?」
「えぇ。どうぞ、里子さん」
カーテンの隙間から里子さんが入ってくると、俺の顔を見てわずかに安堵したような表情を見せる。そして、ベッドの脇に置かれている椅子に腰かけた。
「今日は顔色も良くなっているわね。おかげんはどう?」
「おかげさまで、良くなっている気がします。すみません、ご迷惑をおかけして」
そう言って、俺は深々と頭を下げた。
「何を言っているのよ。迷惑だなんて、一つも思っていないわ。ご家族に心配させたくなかったんでしょう? 私を頼ってくれて正解よ」
里子さんは、薄っすらと微笑みを浮かべてそう言った。
熱中症も疑われるなか、搬送された病院で受けた診断は、過労だった。数日で退院できるかと尋ねた俺を、医者は静かに否定した。
『この状態では、簡単に退院させるわけにはいかない。自覚症状はあっただろう』
そう言われて、そんな状態になっていても体の異変に気づいていなかった自分に、愕然とした。
入院には保証人が必要だった。母にこんなことを伝えるのは気が引けた。だからと言って、会社の同僚に頼むのも気が引けた。そう思い悩んだ俺は、里子さんに連絡を取ったのだった。
「ありがとう、里子さん。この恩は必ず……」
そう口にした俺の手を、里子さんはそっと握り、首を振った。
「そんなことはいいのよ。貴方は、大事な孫のような存在なんだから」
その手のぬくもりが、心の中に広がっていくようだった。溶け出した氷から、水滴が零れるように、俺の目から雫が落ちていく。言葉を繋ぐことができない俺の耳に、里子さんの穏やかな声が響いた。
「智臣さん。もう、解放されていい時じゃないかしら。これからは、貴方らしい人生を歩んで欲しい。それが、私の願いよ」
どうして俺がこんな道を歩んでしまったのか、里子さんは分かっていながら、そっと見守ってくれていたのだろう。けれど、選択を誤り続けたのは、他でもない自分自身だ。
これからは、家族と同じくらい大切な人の願いを叶えよう。そう思いながら、その手を握り返した。
だがその風向きが変わったのは、異母兄弟が副社長に就任したからだった。
『榛名さん、成績いいのは枕営業してるから、らしいぜ』
『え、俺は過剰接待やってるって聞いた』
そんな根も葉もない噂が、社内を流れ始めた。それを教えてくれたのは、入社後半分も残っていなかった同期の一人。さすがに聞くに堪えない話を耳にしたらしく、こっそり俺に知らせてくれていた。
社内を歩けば遠巻きにひそひそと話す、社員たちの好奇の視線が刺さった。それでも、実力がものをいう会社だ。誰にも文句は言わせないつもりだった。噂が広がれば広がるほど、寝食も忘れ仕事に没頭した。
だがそんな俺を、簡単に打ちのめすようなことが起こった。
『榛名くん。君は、うちの病院の女性たちに次々手を出してるんだって? 失望したよ。すまないが、これから信用することはできない。担当を変えてくれ』
全く身に覚えはない。それどころか、いくら誘われようが取引先の女性と関係を持とうとしたことはなかった。
入社してからずっと出入りしていた大病院の医者に、厳しい表情で言われて、頭の中で何かが叩き潰されたような衝撃を受けた。誤解を解こうにも取り付く島もなく、追い出されるように病院をあとにするしかなかった。ぷつっと、張りつめた糸が切れたような感覚が自分を襲う。呆然としながら、去年よりさらに過酷だといわれる真夏の道をフラフラと歩いた。そして――。
――北向きの窓の外では、けたたましく蝉が鳴いている。ベッドの上に座り、ぼんやりとそれを聞いていた。何の気力も湧かず、項垂れるように座っているだけ。腕にはまだ点滴が繋がれているが、数日も見ていると、それが当たり前の光景になっていた。
ベッドを囲う白いカーテンが少し揺れ、向こうに人影が写る。
「智臣さん、起きていらっしゃる?」
「えぇ。どうぞ、里子さん」
カーテンの隙間から里子さんが入ってくると、俺の顔を見てわずかに安堵したような表情を見せる。そして、ベッドの脇に置かれている椅子に腰かけた。
「今日は顔色も良くなっているわね。おかげんはどう?」
「おかげさまで、良くなっている気がします。すみません、ご迷惑をおかけして」
そう言って、俺は深々と頭を下げた。
「何を言っているのよ。迷惑だなんて、一つも思っていないわ。ご家族に心配させたくなかったんでしょう? 私を頼ってくれて正解よ」
里子さんは、薄っすらと微笑みを浮かべてそう言った。
熱中症も疑われるなか、搬送された病院で受けた診断は、過労だった。数日で退院できるかと尋ねた俺を、医者は静かに否定した。
『この状態では、簡単に退院させるわけにはいかない。自覚症状はあっただろう』
そう言われて、そんな状態になっていても体の異変に気づいていなかった自分に、愕然とした。
入院には保証人が必要だった。母にこんなことを伝えるのは気が引けた。だからと言って、会社の同僚に頼むのも気が引けた。そう思い悩んだ俺は、里子さんに連絡を取ったのだった。
「ありがとう、里子さん。この恩は必ず……」
そう口にした俺の手を、里子さんはそっと握り、首を振った。
「そんなことはいいのよ。貴方は、大事な孫のような存在なんだから」
その手のぬくもりが、心の中に広がっていくようだった。溶け出した氷から、水滴が零れるように、俺の目から雫が落ちていく。言葉を繋ぐことができない俺の耳に、里子さんの穏やかな声が響いた。
「智臣さん。もう、解放されていい時じゃないかしら。これからは、貴方らしい人生を歩んで欲しい。それが、私の願いよ」
どうして俺がこんな道を歩んでしまったのか、里子さんは分かっていながら、そっと見守ってくれていたのだろう。けれど、選択を誤り続けたのは、他でもない自分自身だ。
これからは、家族と同じくらい大切な人の願いを叶えよう。そう思いながら、その手を握り返した。
あなたにおすすめの小説
カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~
伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華
結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空
幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。
割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。
思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。
二人の結婚生活は一体どうなる?
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
(第一章完結)ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
俺様上司に今宵も激しく求められる。
藤白ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
田舎の幼馴染に囲い込まれた
兎角
恋愛
25.10/21 殴り書きの続き更新
都会に飛び出した田舎娘が渋々帰郷した田舎のムチムチ幼馴染に囲い込まれてズブズブになる予定 ※殴り書きなので改行などない状態です…そのうち直します。