恋をするのに理由はいらない

玖羽 望月

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 この4月、俺は係長に昇進した。
 旭河うちの序列で言うと、主任を飛び越えての係長という立場に加え、最年少と付けば周りの視線は厳しい。
 おかげで、本来の、ソレイユの本社担当、と言うだけでなく、本社広報部の仕事も受け持つことになり、二足の草鞋状態になっていた。

 ……ったく。人遣い荒すぎだろ……

 もちろんこれも、社長の言う『人とは違うレール』だ。これくらいこなせなくて、これからどうするんだと暗に言われているような気もする。

 上を目指すのは、朝木家こっちの都合。だから今俺は、がむしゃらに働くしかない。
 この山を越えれば、澪の顔を見に行くことができる。ちょうど今日で合宿も終わり、またチームに戻ってくる。俺はただそれだけを目標に仕事を片付けていた。

「朝木係長。ソレイユのクラブハウスからお電話です」

 慌ただしい午後の時間帯。元々向こうから本社に電話で連絡があることなど稀だ。少し胸騒ぎを感じながら俺は電話を取った。
 そして聞かされた内容に、指先がすうっと冷たくなっていくのがわかった。

「今からそっちに向かいます」

 それだけ伝えると、すぐさま部長の元へ向かう。自分の聞いた話だけを簡潔に説明し、そのまま本社を出るとタクシーでクラブハウスに向かった。
 
「その後連絡は⁈」

 事務所に飛び込むなり尋ねる。そこにいたのは、青い顔をしたクラブハウスの事務員だけ。時間的にまだ練習は終わっておらず、他の選手たちには知らされていないようだった。

「今、戸田トレーナーが病院に行っています。まだ精密検査を受けているところだと」
「そう、ですか……」

 その場にあった椅子にどかっと腰をかけると、大きく息を吐き出す。さっきまで呼吸をすることを忘れていたように息が苦しい。
 どれくらい経っただろう。電話が鳴った。
 それに応えた事務員はただ「はい。はい」と相槌を打っている。ただ、聞かされている内容は、良いものではないらしい。その声は震えていた。

「朝木さん。戸田トレーナーが代わって欲しいそうです」

 俺はその電話を受け取ると「朝木です」と出た。

『……朝木君。今から本社にも動いてもらうことになりそうだ』

  深呼吸するような気配がして戸田さんは続ける。

『澪の診断は、右アキレス腱断裂。今期全日本メンバー入りはできないだろう。チームへの復帰も、早くて半年。ただし、試合に出られるようになるには、それ以上かかると思われる』

 全身から血が流れ出ていく。そんな感覚を覚えながら、俺はそれを聞いていた。

 呆然としている暇などなく、俺はすぐに動き出す。関係各所への連絡、スケジュールの調整、記者発表の準備。俺はそのままクラブハウスで指示を出した。
 メンバーたちは帰って行くのか廊下に足音が響いている。だがそこに、いつもの明るさはなく、話し声はほとんど聞こえない。すでに監督の耳には情報は入れてある。メンバーたちには、澪が怪我をしたことが伝ったのだろう。

 入れ替わるように、戸田さんが戻ってきた。

「……帰りました」

 少し硬い表情でそう言う戸田さんの隣には、項垂れている萌が立っていた。同じ合宿に参加していた萌が、澪が怪我をした瞬間を見ていないはずはない。
 戸田さんが誘導するようにその背中を支え近くにあった椅子に座らせる。座った萌は俯き、背中を丸め膝の上に両手で握り拳を作っていた。

「な……んで、澪さんが……」

 肩を震わせ、萌は振り絞るようにそう言う。拳めがけて雫がポタポタと落ちていくのが、少し離れた場所に立つ俺からも見えた。

「……私が……代わりになれば……」

 嗚咽を上げる萌の前に戸田さんは屈むとその手を握る。

「それは違うだろう? 萌が代わりに怪我をしていたら、澪は同じように悲しんだはずだ。こればかりは仕方のないことだ。これからどうするか、それを考えるべきだ」

 慰めるように手を握り、諭すように顔を覗きこんでいる。萌はその言葉にゆっくりと頷いた。

「戻ってるな」

 事務所に続々と、監督、コーチ陣、トレーナーが集う。監督は萌の姿を確認すると、そう声を発した。

「ミーティングで決まったことを発表する。朝木君も聞いてくれ」

 50代の、元男子バレーの選手だった監督は俺に向かって言う。

「はい」

 その返事を受け監督は頷くと、今度は萌に視線をやった。

「萌!」

 呼びかけられ、萌は立ち上がると監督を見た。すでに泣き腫らしていたのか、その目の周りは真っ赤になっている。

「……はい」
「次期キャプテンは、お前に任す」

 監督が真っ直ぐ見てそう言うと、萌は驚いたように目を開いた。

「次期って……。澪さんが帰ってくるまでの代理ですよね!」

 訴えかける萌に、監督はかぶりを振った。

「いや。代理じゃない。正式にキャプテンとしてチームを支えてもらう」

 また、みるみるうちに萌の目に涙が浮かんでくる。

「無理です! 澪さんがいないのに、私にキャプテンなんて!」
「これは、澪の意向だ。お前ならできる、そう言っていた」

 萌は溢れる涙を拭うこともなく、呆然とそれを聞いていた。
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