恋をするのに理由はいらない

玖羽 望月

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 旅館の裏側は、森と言っていいくらい緑が広がっていた。この旅館自体、温泉街を離れた奥まった場所だが、建物の周りだけは整備されていて、散歩するにはちょうど良かった。

「あ、ほらほら。川、やっぱりあった」

 なんの変哲もない景色でも、澪は喜んでいた。俺の手を引っ張りながら澪は先を指差した。

「川っていうより、沢じゃね?」

 深いところでも大人の膝丈くらいしかないせせらぎに、あちこちゴツゴツとした岩場が見える。

「沢って言うんだ。足、つけてみてもいいかな?」

 清らかな水の流れを見つめながら、澪は言う。
 小学生みたいなこと言い出すんだな、と思うが、俺はふと気づく。

 本当なら幼い頃にしていたかも知れない体験を、今になってようやく経験できるってことか……

 そう思うと、なんでもさせてやりたくなる。親になったような気持ちだが、どんな小さなことでも、世の中には楽しいことがたくさんあるって知って欲しい。

「よし。そうだな、あの岩に座って」

 上が平らで座りやすそうな大きめの岩。それを指差すと俺は言う。

「いいの? やった!」

 いそいそとそこに向かい座ると、履いていたスニーカーの紐を解いている。

「ほら、俺がやってやる。シンデレラの逆バージョンだな」

 姫君にかしずくようにその場にうずくまると、澪を見上げてそう言った。

「そんなこと、しなくていいって」
「やりたいからやってんだ。じっとしてろって」

 靴と靴下を脱がせて、パンツの裾を上げようと手をかけると、それまで大人しくしていた澪は急に足を引っ込めた。

「い、いいっ! ここからは自分でする!」

 慌てた素振りを見せる澪に、俺はしゃがんだまま尋ねる。

「急にどうした?」

 澪は岩の上で足を抱えるように座り、俺の顔を不安気に見下ろしている。

「足、傷だらけだから……」

 右足には手術の跡が未だに痛々しく残っている。だからなのか、澪はできるだけ足が隠れるような服装しか選ばないのはわかっていた。

「そんなこと気にしねぇって。いいから大人しくしてろ」
「でも……」
「でもじゃねぇ。そのうちもっと至近距離で見るんだから、今のうちに慣れとけって」

 羞じらうように頰を染めると、澪は足を抱えていた腕を緩める。俺はそこから足を引っ張り出すと、裾を捲った。

 よく見ると、言われた通りに足にはあちこち古傷が残っている。その傷を、澪は恥だと思っているのだろうか。俺には、今まで戦ってきた証にしか見えない。
 薄らと残るその傷を撫でると、俺は顔を上げた。

「……綺麗、だよ」

 微笑みながら言うと、澪は眉を顰めていた。

「またそんなこと言って……。本当に軽いんだから」
「何言ってんだ。むちゃくちゃ重いぞ?」

 俺は、軽い調子でそう返した。

 茹だるような暑さの続く真夏だとは思えないくらい、ここは心地よい。
 並んで水に足をつけ、規則的に聞こえる水の流れる音に耳を傾ける。木々の間を縫ってそよぐ風は緑の匂いと天然の冷気を運んでくれていた。

「気持ちいい……。ずっとここにいたい……」

 パシャパシャと水と戯れながら、しみじみとした口調で澪は言う。

「だな……。現実を忘れるな」

 俺も同じように水に足をつけながら答えた。

「なんか……外の世界は、こんなに広いんだなぁ、って思っちゃう」

 木々の隙間から見える空を眺めて、澪はポツリと言う。

「世界相手に戦ってたのに?」

 少し寂しそうな横顔に投げかけると、澪は視線を下ろした。

「私は……、カエルだったなって、思い知った。大海を知らない憐れなカエル……」

 澪は自虐的にも取れる言葉を吐き出す。そんな澪の肩を、俺は自分の元へ引き寄せる。

「大海を知るのは、いくらでも間に合う。まだまだ人生長いんだから」

 澪の頭に顔をつけ、俺は悟すように言う。

「そう……だね。ずっと、自分は選手としていつまで保つんだろうって考えてたから、人生そこで終わっちゃうみたいに感じてた。けど、よく考えてみれば、人生まだまだだもんね」
「あぁ。俺だってまだまだ知らねぇことは山ほどあるからな。一緒に……知っていこう」

 俺の肩にコテンと頭を乗せると「……うん」と小さく澪は言った。
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