四月一日

杉本けんいちろう

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ー第四章ー

上田夏希

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『夏希ー!』

『智くん!』

『今日、俺、部活休みなんだ!一緒に帰ろうぜ!』

『ホントに!?いーよ!一緒に帰ろ!』

『…なあ、今日、夏希ん家行っていい?』

『えー…。どうしよっかなぁ…。』

それは、少し肌寒くなってきた中ニの秋。私は、同級生の智くんに告白されて、付き合うようになった。

『お邪魔しまーす!』

『はい、どうぞ。』

『あれ?誰もいないの?』

『ウチは、母子家庭だからね。ママは、いつも晩くまでお仕事なの。』

『そ、そーなんだ…。大変だな。』

『ウソ!智くん、ちょー心こもってないけど!ホント!テキトーだよね。』

『んなことないから!俺以上に夏希の事を想ってる奴なんていねーよ?』

『ホントにー?』

『ほら!この目を見てみ!この目のどこがテキトーなんだ?』

『…だんだん目が寄ってる!もー!そうやってすぐフザけるんだから!』

『あはははは!』

『もう!このテキトー男!』

でも、この見た目も軽そうで、テキトーだけど、こうしていつも私を笑わせてくれる智くんが好きだった。
実は、こう見えて智くんは美術部。私から見てだけど、智くんの描く油絵は天才的に上手かった。

『夏希、見て見て!コレ!』

『なーに?』

『昨日、部活中にイメージだけで夏希を描いてみたんだ。軽いスケッチみたいな感じだけど…。』

『…え?ねー智くん。私って、こんなに暗いかな?』

『え!暗い?そんなつもりは、ないけどな。フツーに笑った顔を描いたつもりだけど…。』

『そう…。んーん!私の気のせいだよ!よく似てるよ!ね、コレもらっていい?』

『もちろん!』

『ありがとう!大事にするね!』

ーーー。

『えー!?コレ智くんが描いたの?ちょー上手ーい!』

『うーん…、ねー愛子ぉ。私って、ホントにこんな感じ?』

『どういうこと?超そっくりだと思うよ!私は!』

『瑠美は?』

『私も!似てると思うけど?何で?夏希は、そう思わないの?』

『いや、上手いんだけどさ…。だって笑ってるのに、なんか暗くない?』

『そうかなぁ…。光りの加減じゃない?』

『私も、そう思うよ。』

『そっかなぁ…。』

『…あ!ねぇ!じゃーさ!彩子に聞いてみようよ。』

『彩子に?』

『うん!意外になんか言ってくるかもよ。』

『そう?…ま、いっか。』

『…ねー!彩子!』

『え!?な、何?』

『そんなに毎回、毎回ビクビクすんなよ!』

『ホントだよ!別に私達、何にもしてないじゃんねー!』

『ホント!ホント!』

『ねぇ、彩子。』

『な、何?夏希…。』

『この絵見てどう思う?』

『え…?』

『ほら!よく見て!』

『…。』

『ノーリアクションかよ!やっぱダメだ!コイツ!』

『何も感想ないの!?何でもいいから言いなよ!』

『…。』

『うわ!コイツ、ホントにダメだ!聞いた私達が、バカだったわ!』

『ホント!どうしようもないね!教科書以外見えてないんじゃないの!?』

『ほら!この分厚いメガネをよーく拭いて、よく見なさいよ!』

『いやー!やめて!』

『夏希、それ面白い!あーあ!彩子ちゃんの大事なメガネが指紋だらけだね!かわいそうに!』

『あはははは!しょーがないなー!私が、キレイキレイしてあげる!ほら、貸してごらん!』

『もー!やめてよ!』

『いーから、貸しなさいよ!』

『あ!』

『じゃあ、せっかくだからね、色付けてあげるね!』

『やめてよー!』

『うるさいなぁ!…ほら見て!黄色!黄色!はい、彩子かけてみて!』

『…。』

『あはははははは!ちょー似合うんだけど!彩子、こっちの方がいーよ!こっちの方が、もっと面白い!』

『ただでさえ面白いのに、これかけてたら、もう鉄板でしょ!』

『ウウッ…!ウワーッ!』

『ったく!泣くなよ!こんなんで!ただ、蛍光ペンで塗っただけじゃんか!すぐ落ちるでしょ!もう!被害妄想激しいんじゃないの?』

『もう!いーよ、行こ!』

『ウウッ…。』

『また泣いてる!』

『ウウッ…、上手いよ…。』

『あ!?』

『上手いけど…、笑ってるのに、なんか寂しそう…。』

『は!?あんた何言って…。』

『ちょっと待って!彩子!ホントに!?寂しそうに見えるの?』

『うん…。』

『何で!?何でそう見えんのよ!』

『なんとなく…。』

『何よ、それ!あんた!バカにしてんでしょ!』

『してないよ!』

『もういーわよ!デブメガネ!ちょっと、もう一回メガネ貸しなさい!真っ黒に塗り潰してやるわ!』

『やめてー!いやー!』

何でなんだろう。まさか、彩子にまで、そんな事言われるなんて…。見える人には見えるの?私の笑顔には陰があるの?

そんなの嫌…。

『ほら!夏希!早く起きなさい!』

『ん…、ママ?何?また?』

『ごめん!ごめん!一時間だけでいいから!ほら、早く!生活かかってんだから!』

『もう…!』

ママは、水商売をやってなんとか生計を立てている。その為に私は、こうやってお客を繋ぎ留める為と言って、真夜中でも私を起こしてまで外に追いやられる。
何をしているのかくらい分かってる。生活の為って言われたらしょうがないけど、たまに、そのまま近くの公園で朝を迎える事もあった。
でも私は、ママを恨んではいない。だってママは、いつだって私を守ってくれた。
いなくなったパパの暴力からも、小学校の時のいじめからも…。
だから私は、ママの為に娘でいる事より、良き理解者でなければならなかった。ママからお客が離れないように、私達からお金が逃げないように…。

寒い寒い真冬でもそれは同じ。

『夏希、今日もお願いね。』

『うん…。』

『一時には、連れて来るからそれまでには出てっといてよ!』

『分かった…。』

ただ、その日は少し違った―。

『あー、寒ーい!早く終わんないかな!さすがに死んじゃうよ!もーダメ!ちょっと様子見。様子見。』

気付かれないように、そーっと、古くなった玄関のドアを引く…。

ところが!

『おわ!誰?この子?』

『え!?』

調度、お客の男が帰る所だった。不運にも出くわしてしまった。

『夏希!あんた何やってんの!』

『ごめんなさい!』

『夏希?なに、この子もしかして、ルイの娘?』

『え?な、何言ってんのよ!違うわよ!…別の部屋の子よ!あーほら!部屋間違っちゃったのね!このアパート、扉がどこも同じだから!ね?そうよね!?』

『ご、ごめんなさい!間違っちゃった!失礼しました!』

『本当か…?扉なんてフツーどこも同じだろ!しかも、こんな時間に。…んま、いーや!じゃーな!ルイ!また店でな!』

『え、ええ!なんかごめんなさいね!またね!待ってるわ!和也さん!』 

私は、凍るような寒空の下、やらかしてしまった失態と、嘘とは分かっていながらも、まさかのママからの他人呼ばわりに、もう涙を止められないでいた。

ただでさえ寒い真冬のその夜は、まさに、身も心も凍らせた。頬を伝う涙の後が余計に寂しさを乗せて…。
しかし、それを上回る、まさかの出来事が起こるのはそれからだった。

翌日、学校からの帰り道―。

『やあ!夏希ちゃんだっけ?』

『え!?』

まさかの夕べの男だった!

『大丈夫だよ!何もしないから!』

『…。』

『夏希ちゃん、ルイの娘なんだろ?』

『…違うよ!』

『もう、そんな嘘なんてつかなくていいから!俺はね、ルイと結婚したいんだ!』

『え?』

『つまりは、君のお父さんになるんだよ!ルイは、ホステスとして娘がいることを不利に思ってるけど、俺はルイを女として、惚れた女として守ってやりたいんだ。』

『…あの、それ本気ですか?』

『ああ!本気だとも!俺と結婚してホステスも辞めて、俺の為に家庭に入って欲しいんだ。収入は心配しなくていいぞ!俺は、こう見えて大手の商社マンだから!』

『…でも、それは、私の存在を知らなかったからですよね。私がいたら…。』

『夏希ちゃん!君もルイが好きなんだね!夕べの俺が家に来てる間、寒い外に出て行ったり、ルイの為に今まで相当大変だったろう。もう大丈夫だよ!そんな事はさせないから。夏希ちゃん。俺が結婚を決めたのは、君の存在を知ってからだ。君も含め、守ってあげたくなったんだよ。』

『…。』

『今日、これからルイにプロポーズをしようと思ってるんだけど、良いかな?』

『はい…。ママを幸せにしてあげて下さい!』

『ありがとう!夏希ちゃん!…あ!まだ自己紹介をしてなかったね!西崎和也、三十六歳。ルイの二つ上になるのかな。』

その夜―。

断る理由がないママは、和也さんからのプロポーズを涙を流しながら受け入れていた。

それは、まだまだ春の息吹も遠い二月の事だった。でも、私達には誰よりも早い春の便りだった。

『マジで!?お母さん再婚すんの!?』

『うん!』

『へー!よかったじゃん!あ!じゃあ夏希、名字変わっちゃうんだ!』

『それがね、その再婚相手の人が、俺は、三男の末っ子だから養子縁組でいいんだって!後継ぎがいない上田姓を残そうって、もうホントに出来た人なの!』

『そうなんだぁ!よかったな!いい人と会えて!夏希は、その人の事なんて呼んでんの?パパ?』

『…和也さん。』

『和也さん!?名前かよ!あー危険な親子関係だぁ!血の繋がらない父と娘が…、あー…!』

『ちょっとやめてよ!』

『バーカ!冗談だよ!冗談!あははは!』

『もー!智くん!!また、そんな事ばっか言って!』

『あはは!ごめん!ごめん!…ってか、今日俺ん家来ない?今日から俺の親二人で旅行行ったんだ!』

『え…。でも…。』

『いーじゃんか!もう俺達、付き合って三ヶ月以上だよ?そろそろいーんじゃないの?』

『…うん!分かった!じゃあ行く!私も智くんに、目いっぱい愛してもらう!だって、ママだけなんて、ズルいもん!』

『よーし!俺の有りったけの愛で包んでやるな!』

『もう!バカ!』

私は、今年、人生で一番最高の春を迎えた。新しいパパと新しい家と大好きな彼。この幸せが永遠に終わるなって、心からそう願いたい。

ただ一つだけ…。

私もそう見えていた、あの彩子に言われた言葉だけが、いつまでも頭の片隅から消える事はなかった。

〝笑ってるのに、なんか寂しそう…。〟
 
新学期―。

三年生になった私は、初日の教室で、先生からまさかの報告を聞いた。彩子が失明したと…。
これには、さすがにクラス中の誰もが驚いて、戸惑っていた。失明したっていう事は、どう考えても、もうこの学校には二度と来れない。確かに、彩子の事を友達だったかと言われると、素直に頷けない自分がいるけど、あの一言を私にぶつけた唯一の人間として、彩子のこれからを気にならないわけがなかった…。

『夏希!まだ寝てるの?早くしないと遅刻するわよ!』

『うーん…、あと五分…。』

『夏希!こら!』

『え?ちょっと、あなた!』

『パッパと起きねーか、こら!もう中三だろ!今年受験だろ!もうちょっと自覚を持ってしっかりしなさい!』

『は、はい…。ごめんなさい。』

あれ?この人、こんな人だったっけ…?

また別の日ー。

『こら!夏希!今、何時だと思ってるんだ!』 

『え?』

『本当に、いい加減しっかりしなさい!』

『ちょっと、あなた!そんなに叱らなくても…。』

『いーや!ルイがそうやって、今まで甘やかして来たからいけないんだ!これからは、夏希の将来の為に、ビシビシ行くからな!』

『あなた…。』

『俺の娘としては、最低でも大学までは出てもらわんとな!国立大卒の商社マンの父親としての立場がない!分かったな!夏希!これから勉強は、俺がびっちり教えてやるからな!』

『は、はい…。』

なに…?何かがまた変わり始めたよ…。

新学期が始まった途端、和也さんの人格が、嘘みたいに変わった。絶対的尊厳、明らかな命令口調、時には暴力まで…。
物心ついた頃には、始まっていた家庭の闇…。パパの暴力から始まって、離婚、故の貧困生活。やっと落ち着いて、幸せな時間が訪れたと思ったのに、なのになぜ?
将来の為だって、私の為だって、理由は分かるけど私は、まだ見えないいつかの幸せよりも、今、目の前に広がる生活に平穏な幸せが欲しいんだよ。

和也さんは、分かってくれてはいない…。

『ねー!留美!今日カラオケ行かない?』

『いーよー!行こ!行こ!調度、私も行きたかったんだ!夏希も行くでしょ?』

『ごめん!私ダメだわ!』

『えー!何で?夏希、最近どうしたの?なんか前より真面目になったって言うか、ノリが悪くなったって言うか。』

『ごめんね、愛子!最近、和也さんが厳しくてさ…。色々うるさいんだよね。』

『あー、例の新しいパパ?…そうなんだ。じゃあ、しょうがないね。』

『うん…。また今度行くから!』

『分かった!じゃあね!夏希!また明日ね!』

『うん!ごめんね!バイバーイ!』

こうやって、友達と遊ぶ機会も減って行った。私は寂しがり屋。一人っ子だから、友達と一緒にいる事が何よりの喜びだった。それを制限されている今、それが将来の為と言われても、犠牲の上に立つ明るい未来の意味を疑ってしまう。苦汁を飲んできた過去を払拭したい私には、今が全て!遠い未来より、今を楽しみたいの!

でも、やっぱりオトナは、分かってくれない…。

『夏希!またか!お前は何度言ったら分かるんだ!こんな時間まで一体何やってんだ!そんなんじゃ良い高校に入れんぞ!』

『ご、ごめんなさい。』

『おら!パッパと机に向かえ!』

『痛っ!』

『ちょっと、あなた!やり過ぎよ!髪を引っ張る事ないでしょ!』

『ああ!?うるせーな!コイツは、こうでもしなきゃ勉強なんかやんねーんだから!いーんだよ!言って分からん奴には、制裁しかないんだよ!』

『あなた…。』

『ウウッ…。』

『夏希!』

『何泣いてんだよ!泣けば許されると思いやがってな!ったく!最近のガキは!それが、この甘ったれた精神を造ってんだよ!俺は、そんなんじゃ許さんぞ!今日のノルマを達成するまで机から逃がさないからな!』

『あなた!一体どうしたのよ!?そんな人じゃなかったわよね!?夏希にだって、もっと優しかったはずなのに!こんな強制的に勉強を押し付けたって無理に決まってるじゃない!』

(バチーン!)

『ママ!』

『お前は黙ってろ!誰が、こんな娘に育てたと思ってるんだ!今までのルイとの生活が、このザマを生んだんだろ!もう、お前は、教育に関して口出しするな!夏希は、俺が育てる!』

『あなた…!』

『おら!いつまで泣いてんだ!お前も殴られたいのか?嫌だったらさっさと勉強を終わらせろ!』

『ウウッ…。はい…。』

また、あの生活が始まるの?何でウチに来る人は皆、暴力を振るうのよ!私達が一体何をしたって言うの!?

神様、ズルいよ。何で私なの…?

『夏希!』

『…。』

『おい!夏希!』

『え?あー、智くん。どうしたの?』

『どうしたのじゃねーよ!こっちのセリフだよ!夏希、最近、全然元気ねーんだもん!愛子達もめっちゃ心配してるぞ!』

『うん…。なんかさ…。』

『何?』

『なんか、私って神様に遊ばれてるよね…。』

『はあ?何だよ、それ!?』

『だって…。何で私ばっか、こんな目に合わなきゃいけないの?もう神様に遊ばれてるとしか思えない。』

『何言ってんだよ!そんな訳が…。』

『あるのよ!最初のパパからの暴力から始まって、貧乏生活、やっと解放されたと思ったら、また暴力!私は、もう耐えられないよ!』

(バチーン!)

『な!何するのよ!智くんまで私に暴力を振るうの!?』

『夏希さぁ、だったら、まず彩子に謝って来いよ!』

『え…?』

『俺、実は、彩子と幼稚園の時から、ずっと一緒でさ。まぁ、ほとんど口はきいてないし、中学入ってからクラスも別々になって会う機会も無くなってきたけど、たまに見かけた夏希達の彩子に対するいじめ、あれは酷いんじゃねーか?』

『だって、あれは…!』

『自分が小学校でいじめられてたから!?中学では、いじめられないようにいじめっ子になったってか!?家でのストレスを彩子にぶつけてたってか!?お前、それは最低だろ!』

『智くん…。』

『ま、俺だって彩子がいじめられてるのを黙って見過ごしてた立場だから言う資格なんかないのは分かってる。でもな、いじめられてる奴の気持ちが分かるんだったら、それを守ってやるのがフツーだろ!何でいじめる側になっちゃうんだよ!やられたらやり返せかよ!?そんなんじゃ何も解決しねーじゃんか!やられる痛みを知ってんなら、やり返す前に、それで終わらせろよ!』

『智くん…。』

『ほんの一瞬だけ、ぐっと堪えるだけだよ。夏希にだって出来ただろ。彩子は、それが出来てたんだ。反抗する勇気の有り無しの問題じゃねーんだ。アイツの場合、全部、自分で終わらせようとするんだよ。俺な、幼稚園の時、一回だけ彩子に助けてもらった事があるんだ。ほら、俺って、その頃から部屋にこもって絵ばっか描いてたから、よくからかわれてたんだよ。でも、ある日、彩子が助けてくれたんだ。でも今度は、俺をかばった彩子がいじられるようになった。でも彩子は、絶対にやり返す事はしなかった。どんだけやられても、笑いながら〝その内終わるよ〟ってな…。アイツは、そういう奴だよ。』

『私だって、そりゃ…。』

『知ってたか?彩子ん家も母子家庭の貧乏暮らしなんだよ。』

『え…?』

『でも彩子は、いじめられても孤独に耐えて、成績は常に学年トップ。俺は、この間、彩子の失明の話を聞いて、今の夏希と同じ気持ちになったよ。何で彩子なんだ!?ってな…。俺は、ホントに今更ながら彩子へのいじめを止められなかった事に心から後悔してるんだ。単純に彩子ともっと話をしてあげるべきだったって…。』

『智くん、私って、一体何?ただの甘ったれの弱虫って事…?』

『そうだろ!でも、きっと、それが夏希なんだよ。』

『智くん…。』

『さっきは叩いてゴメン。でも、これで分かったろ?やり返さなきゃ、それで終わるんだ。』

大好きな智くんからの、まさかの叱責を受け、いかに自分が小さい人間だったかを思い知った。彩子に対しても、今更ながらに恥ずかしいほどの後悔を募らせていた。
元気が無い私を心配してくれる皆の為にも、痛すぎる傷を与え続けてしまった彩子の為にも、少しずつ前向きに行こう、和也さんの暴力も愛のムチと…。私が、ちゃんと良い子にしてさえいれば何も起こらないんだ。私は、耐え凌ぐ事を覚えようと心に決めた。

ところが、その矢先。思いもよらない出来事が起こる…。

『ただいま!…お!今日も、ちゃんとやってるな!感心!感心!』

『あなた!』

『何だ?ルイ。』 

『あなたから、言ってもらえないかしら?』

『何をだ?』

『最近、あの子、ホントに勉強しかしてないわ。』

『別に、良いじゃないか!むしろ喜ばしい限りだろ!』

『だって、友達とも全く遊ばなくなったし。あの淋しがり屋の夏希が、友達との時間を無くしたら、物凄いからっぽになっちゃうんじゃないかと思って…。』

『アホか!そんな事で、からっぽになっちゃうタマじゃないだろ夏希は!友達ごときで!笑わせんな!下らん心配してる暇があるんだったら、お前も、夏希に教えられるように一緒に勉強したらどうだ?中卒なんだから!』

『…ねぇ、あなた。』

『あ?』

(バコッ!)

『いてっ!』

『はー、はー、はー…。』

『何すんだよ!いきなり!…灰皿って!お前、何だ!俺を殺す気か!?』

『私の事は、何て言われようが構わない!でも!夏希の事をこれ以上バカにしたら、いくらあなたでも許さないわよ!あなたが夏希の何を知ってるのよ!私達の何を知ってるって言うのよ!』

『ルイ、お前!…あー、痛ぇ!うわっ!血が出てんじゃねーかよ!お前、これ立派な殺人未遂だぞ!分かってんのか?ったく!あーもーダメだ!ダメだ!母親がこれじゃ、子供に何をやらしたって無駄だわ!こりゃ、いずれ親子揃ってブタバコ行きだな!』

『もう!いい加減にしなさいよ!』

『ママ、やめてー!』

(バコッ!)

『え!?夏希!』

『…。』


私が気付いた時、そこは、病院のベッドの上だった―。

言い合いになってるママ達の声に、気になって居間の方に言ってみたら、右手で小さい灰皿を振り翳してるママがいた。その姿に、驚くのと同時に気付いたら走っていた…。和也さんをかばったんじゃなくて、ママを傷つけたくなくて…。

『夏希。ごめんね!こんなことになって。』

『ううん。それより、和也さんは?』

『反省してるわ。どうかしてたって。なんかね、あの人も、ずっと仕事が上手く行かなくて悩んでたみたいなの。その苛々の矛先が、私達に来ちゃったのよ。私に、灰皿で自分が殴られたのよりも、飛び込んで来た夏希を見て、我に還ったらしいわ。俺が皆を守るって約束したのに、俺が守られたってね…。』

『そっか…。』

『傷、痛むでしょ?私も、母親として、夏希にこんな思いをさせてしまってホントにごめんなさい。』

『もう、いーよ!ママ!私は、誰も恨んでなんかないもん!これは、もう私で終わり!』 

『夏希…。』

それから三日後の事だった―。

この病院に彩子も入院してると知ったのは…。

それは、お昼を過ぎた頃、私が、お手洗いに向かう途中だった。明らかに動きがおかしい女の子が一人。前よりも痩せていたけど、どうみても紛れも無い彩子だった。

でも何故だろう…。

私は、本当に何も見えていない彩子を目の当たりにして、怖じけづいてしまった。思わず自分を偽って上野と名乗ってしまったのだ。
何を怯える必要があったのか?
何をうろたえる必要があったのか?智くんからの叱責が、彩子への罪悪感を教えてくれたんじゃないの?上田夏希として謝らなきゃいけないんじゃないの?

あの頃とは、打って変わって明るくなって話してきた彩子に、余計に自分の愚かさと情けなさを感じて、その日以来、会いに行けず、自問自答ばかりを繰り返していた。

(ガラガラガラ。)

『夏希…。』

『智くん!』

『夏希、大丈夫か?』

『ありがとう。来てくれたんだ。うん!全然、大丈夫だよ!』

『そっか…。お母さん達は?』

『今日は、二人とも仕事。私、もう明後日には退院出来るから、お見舞いよりも仕事してって言ったの。』

『夏希…。聞いてもいいか?』

『分かってる。智くんには、何があったかちゃんと話すから。』

私は、この入院の真相を隈なく話した。智くんは、珍しく黙って受け入れ、一言だけ残して病院を後にして行った。

『じゃあ、もうこれで〝全部〟終わったな!夏希が笑顔で登校してくんの待ってるからな!』

『うん!』

色んな意味で心配してくれた智くんが、安心して帰ってくれたのはホントに良かった。ただ、私は、彩子がすぐ近くに居る事実を言う事が出来なかった。智くんのことだから、ホントは、知っていたのかも知れないけど…。

私は、やっぱり、自分の小ささに怯えていた…。
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