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第2章:頞部陀地獄編

第十八話:肉を抉られた冬神は大いに喜ぶ

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 この情景が、ほんの一瞬の間に引き起こされた物であると信じるには、ある種の覚悟がいる。

 かすり傷一つつけることも敵わない……そう信じさせるほどの強さを見せつけてきた神は、今、半身をすり潰され、赤黒い血肉を外界に晒している。傷口からもうもうと立ち昇る黒い煙は、神の絶対的な力がその肉体から抜け出しているようにも見えてくる。

「……」

 神の鼻歌は途絶えていた。状況の激変を受け入れ切れずにいた神は、呆然とした表情で、傷口へと視線を向けている。傷口から噴水のように吹き出る血を、残った左腕で抑えようとする神の所作は、極めて自然な物であった。

 のたうち回るような激痛を、その傷は神にもたらしているはずであるが、神の顔が苦痛に歪む予兆は見られない。

「あっはぁ♡!」

 数秒間にも及ぶ神の沈黙は、攻撃を行う上でのまたとない好機であることは言うまでもない。女武者が喘ぐような嬌声と共に、硬直した神の間合いに一切の躊躇もなしに潜り込み、岩を貫くような蹴りを叩きこんだのは、彼女にとっては当然の行動であった。

 連撃、連撃、連撃。途絶えることのない猛攻が、神の全身に襲いかかる。

 女武者の足は鞭のようにしなり、巨岩をも砕く痛烈な一撃を次から次へと神に叩き込んでいく。女武者の足が神の体を打ち据えるたびに、耳をつんざく衝撃音が空気を震わせ、神の肉体は衝撃に合わせて動揺する。

「あっはぁ♡! あははは♡!! ははははは!! はぁああああああ♡♡!」

 全くの無抵抗となった敵に対する攻撃は、余程気分が良い物なのだろう。

 女武者のヒステリックなまでの嬌声はますます甲高いものとなり、彼女の気分の高揚と合わせるようにしてその蹴りはますます素早く、重くなっていく。勝利を確信した女武者の顔には、狂気じみた笑顔が張り付いており、口からはみ出た舌からは大粒の涎が滴っている。

 頬を紅潮させた彼女は、獣のように鋭利で真珠のように白い歯を外気に晒し、自分自身の残酷なまでの嗜虐心を思う存分に満たしている。血反吐を吐いて空中で踊る神を見据える彼女の目は、確かに狂気を帯びていたが、それ以上に飛び上がるような喜びで満ち満ちている。

 なんて爽やかな笑顔だ。なんて穏やかな表情だ。

 そんな表情を、何で彼女は出来るのか。それは、理不尽などという言葉では到底言い表せない程の不条理な暴力をこれまで好き勝手に振るってきた神を、一方的にリンチ出来るからに他ならない。

 それは、いったいどれほど素晴らしい快感をもたらしてくれるのだろうか?

 神に下半身を抉り取られ、無様に真っ暗網へと落下していた私は、その甘美な快感を脳裏に浮かべ、ブルリと体を震わせる。

 私もそれを味わいたい。なぜ、炎に炙られる痛みにのたうち回り、完膚なきまでの敗北を喫した私は、それを享受できないのだろう?








 ふざけるのも大概にしろ。








 右手に握られた肉断ち包丁の刃先を、私は氷漬けにされた傷口へと挿し込んでいく。鉄の刃がみちみちと音を立てて肉へと食い込んでいき、既に散々に痛めつけられた私の肉体は、この自傷行為を前に痛烈な悲鳴をあげ、この非常な決断を下した脳髄に対しあらん限りの罵詈雑言を吐きかける。

 だが、私はその悲痛な訴えを無視し、極太の刃を引いて見せた。

 鮮血が飛び散り、残り少ない私の肉体が、神経の接続から外れて地獄の底へと落ちていく。それは、私という存在の復活の狼煙であった。

 ボコボコと、沸騰する水のような音を立てて、骨が、内臓が、筋肉が、死すらも救済と思えるような痛みを伴って再生していく。極寒の空にさらけ出された私の肉体は、やがて鉄の茨で織られた鎖帷子、板金鎧に覆われていき、数秒の落下を経た後には、完全に回復していた。

「はぁっ! がぁあああ!!」

 早く、この肉断ち包丁を神に叩き込みたい。早くしなければ、あの腹立たしい女武者が快感を全て独り占めにしてしまう。

 この切実なまでの焦りが、私を突き動かす。私と共に地獄の底へと落ちていく岩塊を足場に、私は空へと駆け上がる。

 その目的地は、冬神。半身を失い、されるがままに嬲られる哀れな女神が、私の目的地だ。

 あぁ! 岩を駆け上がるこの時間がもどかしい! 早く登らなければ! 早くこの肉断ち包丁を神の脳髄に叩き込みたい!

 神を切り裂くイメージが、幾度も幾度も頭の中でループする。中途半端な快楽、不完全燃焼な爽快感。私が欲しいのはそれではない。

 イメージから少しでも強い快感を得ようとする脳髄。いい加減に疲れてきた。肉断ち包丁を握る力が自然と強くなってくる。

 私と神の間に立ちはだかる最後の岩塊を足場に中空へと飛び上がった時には、私は肉断ち包丁を大きく振り上げ、その攻撃線を神へと合わせていた。

 コンマ秒、コンマ秒だ。それさえあれば、私は神に致命の一撃を与えられる。両腕の筋肉が怒張し、大雪崩すらも凌いで見せた膂力をこの肉断ち包丁へと込めていく。

 もどかしいもどかしい。早く時間が過ぎ去ってほしい。このまま、神には無抵抗であってほしい。

「……」

 神はいまだ無抵抗であった。無抵抗のまま、女武者に蹂躙されている。破城槌のような女武者の一撃は、神に徐々に、取り消しの効かないダメージを蓄積させていく。純白の肉体は血糊で汚れ、女武者の体から吹き上がる炎に炙られる中で炭となっていく。

 最早、抵抗する気力も残されていないのだろう。急がなければ。

「はぁああ!! あああああ!!」

 両腕に蓄えた力を爆発させ、渾身の一撃を込めた一振りを、冬神へと振り下ろす。

 勝利は目の前にあるっ……!








「見事。見事なり」








 透き通るような声。寒空を震わす重い言葉。総身が振るい上がる。

「私とここまで戦える剛の者と出会えた……今宵は誠に素晴らしい日よ」

 神だ。冬神の声だ。これまで鼻歌以外に紡いでこなかった神が、今、人の言葉を紡いで見せている。

 この事実が神経を伝い、高速で処理される。前提がガラガラと音を立てて壊れる音が聞こえてくる。

 神は健在だ。余裕しゃくしゃくとした彼女の言葉は、満身創痍の身から発せられたものとはとても思えない。

 この神はいまだ私たちをあしらえるだけの余力を残している……!

「故に、私もそなたらをもてなそう」

 肉断ち包丁の刃先が神の体を振れる直前、神は慈愛に満ちた目で、私の方へと振り向いた。肉を抉る女武者の猛攻が今も続いているにも関わらず、神はそれを意に介する素振りを見せていない。

「っ……!」

 高揚感に冷や水をかけられる。

 ……この後の未来はどうなるか。少なくとも私が望んだものにはならないということだけは確信できた。それでも、私は剣を振り下ろした。








 コマ送りのように状況は少しずつ、しかし劇的に変化した。神の周りで踊る空気が結晶へと変わり、急速に膨張したそれは、四方を貫く槍衾と化して私たちに襲いかかった。







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