素足のリシュワ

進常椀富

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弑する夜明け

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 空が灰色になるころ、工房の付近まで帰りついた。
 泥道が続いている。あとはここを進めばいいだけだった。
 走るのをやめて、歩きに変える。リシュワは額の汗を拭った。
 後ろではラーヴ・ソルガーがぜいぜいと息を切らして屈んでいた。

「ここで待っていろ、ラーヴ・ソルガー。敵が潜んでいないか確かめてくる」
 リシュワは産獣師を置いて、忍び足で進んでいった。
 コドン式の鎧は肌に密着していて、関節部分の守りはないので、大きな音はしなかった。

 門まで行って、なかの様子を窺う。 
 薄明のなかで、屋敷は静まり返っていた。
 ひとけはないように見える。
 しかし早朝のことだからして、寝静まっていても不思議じゃない。もっとよく確かめないといけないだろう。

 リシュワは身を屈めて中庭に入っていった。居間へ続く扉をそっと開ける。
 人が寝ていた。
 布をかけてまっすぐ寝ているのがひとり、灰色のローブにくるまってうずくまっているのがひとり。
 そしてもうひとりぶんの寝ていた気配。抜け殻のような布だけが残っている。

 気づいたときには完全に背後をとられていた。
 生身の右腕がひねりあげられ、激痛が走る。
 寄生腕の左手で突き刺してやろうとする前に、リシュワの喉元が薄く切りつけられた。金色の鋭い爪だった。
 背後で女の声がした。 
「あなたの身体、ガヤガヤうるさいわ。すぐ気づく」
「新鬼人か。ダクツの配下か」
「誰それ?」

 居間のなかで男のあくびがした。寝ていた人影がもぞもぞと起きあがる。
「お客か。あいかわらずウェルネッタは鋭いなぁ。もう捕まえてるんだからな。俺なんかやっと起きたところなのに」
 その男の異様な姿に目を瞠る。
 シルエットこそ人間の男らしいが、その表面はたえず揺れ動いていて細部がわからない。
 ずっと溶け流れているように見えた。顔はいっさいのパーツがない。

 男は片手をあげ、口もないのに声をだした。
「こっちが裸だからってそんなに熱くみつめるなよ。すぐ慣れる。俺はフィスマ。神柱(マスターピラー)ノゼマの新鬼人だ」

 どう動いたのか察知できなかったが、ローブの人物も、すぐ隣に来ていた。ローブの人物はフードを脱ぐ。
「わたしはノゼマ。もとは人間の魔導師だったもの」
 頭髪のない六十くらいの男だった。
 目が白濁していて盲目かもしれない。ノゼマは続けた。
「きみはリシュワくんかな。レオネくんから聞いている。われわれはきみに危害を加えない。まずわたしの正体をあきらかにしておこう」
 ノゼマはローブを脱いだ。リシュワはまたも異様な姿を目にして息をのむ。
 ノゼマの四肢は白銀で不可思議な文様が流れるように浮いていた。
 胴体はなく、体の中心に太陽のような輝きがある。
 輝きから炎の帯が伸びて四肢と首につながっていた。
 人間とはかけ離れていて、それどころか生物でさえありえないような姿だった。
 神々しい。
 リシュワの脳裏をその言葉がかすめた。

 ノゼマは言った。
「わたしは魔導師として、自らの身体に産獣術を施した。このような状態のものを神柱というのだそうだ。古の淵源が教えてくれた」
「レオネはどこにいる? 無事か?」
「だいじょうぶだ。呼んであげよう」
 ノゼマは不可思議なほどよく通る声でレオネを呼んだ。
「レオネくん、こちらへきたまえ。姉上がご到着だ」
 リシュワの背後で腕が開放された。
 ウェルネッタと呼ばれた女が言った。
「抵抗しないで。殺しにきたんじゃないの。どちらかといえば、わたしたちは味方」
 リシュワはウェルネッタへ振り返った。
 肌の白い整った顔立ちの女だったが、輪郭が金色の外骨格で覆われている。
 新鬼人だとすると、珍しく美しい姿だった。

 足音が聞こえて、レオネが飛びついてきた。
「姉さん!」
 リシュワもレオネを抱きしめた。
「レオネ、無事か。彼らとはどういう関係だ?」
 レオネは顔をあげた。
「逃げてるときに山のなかで出会ったの、唐突に。ウェルネッタに簡単に捕まっちゃって。話したら味方になってくれるみたいで、ここに連れてきた。ラーヴ・ソルガーのことも、レジレスのことも、あたしたちの置かれた状況をぜんぶ話した」
 フィスマが言った。
「それじゃあおまえたちの産獣師にもご登場願うか。なかよしお仲間スタイルを見せつけてな。さあ、並んで立ってスマイルだ」

 レオネが無事なら、まずはいい。リシュワはフィスマに従った。五人全員が、屋敷の戸口に並んで立つ。

 リシュワは自分の産獣師を呼んだ。
「ラーヴ・ソルガー、危険はない。彼らは味方だ。出てこい」
 門の陰から、ラーヴ・ソルガーがのっそりと姿を現した。漆黒の身体で影のようにゆっくり近づいてくる。
「われの屋敷でなにをしておる。揃いも揃って珍奇な身なりで」
 ノゼマに目を向けて、惑うように続ける。
「その姿……、まさか……、地上の魔術と産獣術を融合させたか……、もしや神柱なのか……?」
 ノゼマは答えた。
「さよう。わたしは神柱ノゼマ。そなたのいうとおりの者だ」
「おおお! そんな!」
 ラーヴ・ソルガーは走ってきて、ノゼマの前へ跪いた。リシュワたちなど目に入っていない様子だった。
「おおお、それこそわれの求めていた道! ぜひ! ぜひにわれにもその道を手解いていただきたい! そなたを師とあおぎ、われに与えられるものすべてを与えよう!」

 リシュワはラーヴ・ソルガーがこんなに謙っているのを初めて見た。内心、驚愕する。
 ラーヴ・ソルガーはノゼマを崇めるばかりに、祈るような姿勢となっていた。
「これぞ、これぞ天佑……、われの求め探していた道がこのうような形で見つかるとは。師よ、どうかわれを導いてくだされ」
 ノゼマは不動、無表情で、誰にも目を向けずに言った。
「いまはまだ神柱を増やすべきときではない。自らたどりついてしまった者のみの道であろう。わたしがここに参った目的はほかにある」
「なんだと、しかし、われは……」
 ラーヴ・ソルガーの訴えを無視して、ノゼマは続けた。 
「わたしは不当に抑圧されている新鬼人を開放して回っている。今回もその例になるだろう。しかし物事はいつも運しだい。適切な者が、的確にこのメッセージを理解できるかどうか、わたしにはわからない。わたしはただ好機を与えよう。自由への可能性を。ただし、その時間は刹那。いまより。三、二……」

 リシュワの脳裏を電撃的な理解が疾走った。
 ノゼマはラーヴ・ソルガーを殺せと言っているのだった。事情を知ったうえで。
 レジレスの軛をきっと無いものにしてくれる。
 しかし、その時間はわずか。
 リシュワの理解が誤解だったとしたら、
 ラーヴ・ソルガーを殺した瞬間、レジレスの作用によってリシュワとレオネも死ぬ。
 だが迷っている時間などなかった。リシュワはチャンスに賭けた。動く。
「一」
 ノゼマが言うよりも早く、リシュワは左腕の鉤爪で、ラーヴ・ソルガーの喉を引き裂いていた。
「ぐはぁ……!」
 ラーヴ・ソルガーは赤い血を吹きだして倒れた。その背中を、心臓めがけて鉤爪を突き刺す。

 びくりと痙攣して、ラーヴ・ソルガーは絶命した。
 みなが動きを止めていた。ノゼマもウェルネッタも、フィスマもレオネも動かない。
 どこかで鳥が甲高い、長く引く鳴き声をあげた。
 鳴き声が消えたあとも、リシュワとレオネは死んでなかった。

 レジレスの道連れは妨げられていた。

 緊張が解ける。
「はぁ……っ!」
 リシュワは喘いで膝をついた。
 鼓動が早鐘を打ち、身体に力が入らない。細かく震えていた。

「姉さん!」
 レオネが抱きついてくる。抱擁を返しながらリシュワはノゼマに目を向けた。
「これで、よかったのだろう、ノゼマどの。あなたがくれた好機、逃さずつかんだ」
 ノゼマは無言でただ、大きく頷いただけだった。居間のなかへ戻っていき、脱いだ着衣を拾う。
 ノゼマは灰色のローブを着こんで、体の中心の光を隠す。そうするとただの老人に見えた。

 リシュワはまだ震える声で尋ねた。
「わたしたちも連れていってくれるのか?」
 ノゼマは首を横に振った。
「きみたちはきみたち自身の面倒を見なければならないだろう。それが自由だ。自由といっても新鬼人は産獣師の丸薬を服用せねばならず、産獣術のケアも必要になる。だが、きみたちはこれから仕える者を選ぶことができる。どのような信条にしたがって、どのような道をたどるのか、それはわたしの関知するところではない。運が巡れば、ふたたび会うこともあるかもしれないが、そのときまではわかるまい」
 顔も口もないフィスマが笑った。
「俺としちゃあ女の連れが多くなるのは歓迎なんだが、師がこう言うんじゃしかなたない。短いあいだだったが、おさらばだ、レオネ、リシュワ。追ってくるなよ。お互いのためだ」
 フィスマはローブを着こんで背嚢を背負った。

 リシュワはこの三人ともう少し話しをしたかった。
 世界情勢について多くを教えてもらう必要がある。ラーヴ・ソルガーの遺体を傍らに、リシュワは言った。
「食事もしていかないのか」
 ノゼマはフードを目深にかぶって顔を隠した。
「わたしは食事することもできるが、もう必要はない」
 フィスマは言った。
「俺は食事ができない。もはやほとんど魔法生物だからな」
 最後にウェルネッタが言った。
「わたしは古いタイプの新鬼人だから食事はいる。でもふたりに合わせて歩きながら食べる。わたしの荷物はほとんど自分の食料だけ」
 とりつく島もない。
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