素足のリシュワ

進常椀富

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弑する夜明け

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 レオネが無事で、ラーヴ・ソルガーは始末できた。
 それだけでもありがたいと思わなければならないのだろう。
 リシュワとレオネは抱き合って、ただ見送るしかなかった。
 ノゼマは門のところで白銀の片手をあげた。
「では、これから未来を作りたまえ」
 リシュワはなんというべきか迷ったが、ただ礼を述べておくだけにした。
「ありがとう、ノゼマどの。この恩は忘れない」
 返事はなかった。三人が泥道を歩いて去っていった。

 もう朝日は輝かしく、暖かい光を降り注いでいた。
 風がそよと吹く。夏の気配を含んでいた。

 これで自由になった。
 開放された精神が、世界を新たなものとして捉えなおすかのように、新鮮な色彩が溢れた。
 この屋敷は知らずうちにかなり荒れていた。
 歩道の石畳はすきまから雑草が伸びて、緑が浸食している。
 中庭は丈の高い草に覆われ、
 枯れかけた茶色の葉と、それらの作りだす陰が、荒涼とした雰囲気を醸しだしていた。
 羽虫が多かった。
 ラーヴ・ソルガーが術に必要なかった生き物の部位を捨てていた大穴があった。虫はそこから湧いてくる。
 あたりの空気を悪臭で満たしていた。
 往時は白漆喰で美しく飾られていたであろう壁の多くはひび割れ、下のレンガがむき出しになっている。
 その可能性は低いが、ここに住み続けるのなら、多くの手入れが必要だろう。

 いっぽう、外に目を転じれば、ブナ、コナラ、楡の木が濃淡鮮やかに緑の葉を茂らせ、風に揺れていた。
 葉のさざめきがこれほど優しく聞こえるものだったのかと、改めて気づく。
 キジが甲高く鳴いていた。
 サギの声も聞こえる。
 名の判別できない小鳥たちのさえずりも賑やかだった。

 世界はいまや穏やかに、リシュワたちの門出を待っているかのようだった。
 隣でレオネの腹が鳴った。
「おなか減っちゃったよ。いろいろありすぎて」
 リシュワは笑った。
「お互い大食いになってしまったものな。食べ物は残っているのか?」
「ここを襲った人たち、食べ物には手をつけなかった。きっともっといいものを食べてるんだろうね。武器はぜんぶ持ってかれたみたい」
「食事にしよう」 

 ラーヴ・ソルガーの死体を放ったまま、ふたりは屋敷に入っていった。
 レオネが食事の準備をし、リシュワは自分のベッドを検めた。
 寝台の下に予備の剣を隠しておいたのだ。剣はあった。
 やはり剣があると安心感がちがう。これでひとここちついた。

 かび臭く、部屋の隅には蜘蛛の巣がかかっている暗い食堂で、ふたりは食事をとった。
 チーズと麦粥を口に入れ、飢えが緩和してくると、今後のことについて話しあう。
 レオネは聞いてきた。
「これからどうするの? どこかへ行くの?」
「ダクツのところへ行こう。ここでふたりして籠もっていても、じきに丸薬も尽きる。向こうには産獣師がいるはずだ」
「でも敵でしょ?」
「ラーヴ・ソルガーがいたから敵だっただけだ。いまはもうラーヴ・ソルガーはいない。あとのことを考えて余計な殺しはしていない。やつの首を持っていけば申し開きがとおるかもしれない」
「仲間にしてもらえなかったら?」
「そのときは旅に出るしかないな。新しい産獣師を求めて。そんなに遠くは行かなくて済むはずだ。コドンが居住地を遠くへ広げられるはずはないからな」
「目立つもんね。向こうのコドン、怖くない?」
「よくわからない。ラーヴ・ソルガーとダクツたちがどういう理由で敵対していたのかも、はっきりしないからな。なんらかの派閥の違いが原因らしいけど。わたしたちはいまの世界を知らなすぎる」

 食事が終わると、ふたりは産獣術で作られた丸薬を飲んだ。
 黒い豆粒のようなそれは、リシュワたち新鬼人の体調を整えるために必要なものだった。
 リシュワはラーヴ・ソルガーへの反感から、この丸薬を一週間飲まなかったことがある。
 その結果、一日中頭痛と腹痛、吐き気がおさまらない状態になり、しだいに毛穴から血がにじむようになった。
 そのときは恐怖にかられて急いで丸薬を飲んだ。
 新鬼人には、施術した産獣師の丸薬が必要なのだった。

 丸薬は三日に一粒飲むことになっているが、あと一ヶ月分は残っていた。
 新しい産獣師を見つけられるかは、コドンの人口密度にもよるが、それほど慌てなくてもいいように思えた。

 リシュワたちは旅立ちの準備をした。背嚢に詰めるのは食料のみ。
 だがレオネはお気に入りの小さな人形を、背嚢の外へ吊るした。

 あとは手土産だ。
 リシュワは剣を振るって、ラーヴ・ソルガーの首を切り落とした。
 それを麻袋に入れる。切り口から血がにじんで、麻袋の底を黒く染めた。
 不気味な献上品だが、持っていかないわけにはいかない。
 身体のほうは無造作に、ゴミ穴へ捨てた。
 産獣術に使われて残った生き物たちの部位とともに、
 ラーヴ・ソルガーの身体は穴のそこでゆっくり腐っていくことだろう。

 ダクツたちの仲間に入れてもらえなくとも、首は置いてくるつもりだった。
 そうすれば少なくとも、ダクツたちから襲われる理由はなくなる。

 リシュワは背嚢を背負い、産獣師の首を肩に担いで、屋敷の門を出た。
 うしろにはレオネが続く。やはり食料の詰まった背嚢を背負い、肩には弓をかけていた。 
 ふたりは半年間を過ごした屋敷を振り返った。
 屋敷は住人を失って暗く、そのまま緑の森に消化されていきそうな趣があった。

 レオネが言った。
「もうここに戻ってこなくていいんだね」
 リシュワは歩きはじめた。
「いい思い出があるわけでもないしな」
 

 屋敷を出たときはまだ朝のうちだった。ふたりはのどかな森のなかを、自然を堪能しながら歩いた。
 楡の木の梢にはリスが走り、ヒースの茂みにはウズラが巣を作っていた。
 森の濃い陰のなかにも、新鬼人を脅かすものはない。

 半日ほど歩いて、ふたりはダクツのいる砦へ着いた。
 ブナの木立を抜けてしまえば、あとは岩場になる。
 その先に砦の門が立っていた。陽は沈みかけ、門には松明が燃え盛って明かりを灯していた。

 リシュワとレオネは森を抜け、岩場の道を登っていった。向こうからはすぐ発見されるだろう。
 リシュワたちはまっすぐ進む。
 門衛は槍を手にとって、待ち構えていた。
「旅人たちよ、ここは宿ではない。来た道を引き返してゆけ。そこらで寝るのは勝手だが、少なくともなかには入れん」
 松明の明かりが届く距離にくると、リシュワはフードをあげて顔を晒した。
「わたしだ」
「お、おまえは!?」
 門衛は慌てて笛を取りだし、ピーピー吹きはじめた。
 リシュワたちは泰然として近づいていった。
「このまえはすまなかったな。だが、傷つけなかったことを思い出してもらいたい。わたしにも選択肢がなかったのだから」
「うるせぇ、鬼女! そこで止まれ!」
「いいだろう、待つさ。ダクツを呼んでくれ。そっちは好きなように態勢を整えるといい」

 足音が聞こえ、武器の鳴るガチャガチャいう音と、呼び合う声が響いた。
 門から人間の一隊が出てくる。新鬼人もコドンもいない。
 リシュワは剣も抜かない。レオネは柄に手をやって警戒していた。
 しかし、戦いを始めるような雰囲気は出さなかった。

 兵のひとりが門衛に聞いた。
「この女がなんだってんだ?」
「産獣師を連れて逃げた新鬼人だよ、こいつは」
 兵がリシュワに鋭い視線を飛ばす。
「仕返しにきたのか、たったふたりで」
 リシュワは手のひらを上に向けた。
「敵意はない。戦うつもりはない。投降だ。ダクツを呼んでくれ。彼なら事情がわかる」
「いま来たぜ。通してくれ」
 人垣を抜けてダクツが姿を現した。 
 逆だった髪、両性具有の浮き彫りがされた鎧、冷え固まった溶岩のような右腕。昨晩と変わりない。
「リシュワ、逃げてきたのか。ラーヴ・ソルガーはいまどこだ?」
「ラーヴ・ソルガーはここだ」
 麻袋を開けて、中身を転がし落とす。
 そこには表情のない禿げた生首が、松明を見あげていた。

 ダクツは生身である左手であごを撫でた。
「殺しちまったか。殺せないんじゃなかったのか」
「事情が変わった。考える暇もないチャンスが与えられた。そのへんの事情も話せればと思う」
「まあいいさ。そっちのは?」
「妹のレオネだ。こっちも新鬼人だ。力になれるだろう」
 ダクツを両腕をあげた。
「ようし! 兵たち、持ち場に戻れ! こいつらは客だ。俺が案内する。首はゲデ・スオーンの工房へ運んどいてくれ」

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