幻想美術館

K:火炎瓶

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1枚目:初恋の夢

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 東京の夏は暑い。
 東京でなくとも夏ならば暑いのだろうが、このコンクリートに囲まれた都市は地元に比べて酷く粘つくような暑さをしていた。ただ、地元に比べればあのやたらとミンミン泣き喚く蝉は少ない。烏は野蛮だけど。
 昨年の3月、就職を機に上京した。暮らし始めて1年は経てども、ガチャガチャと物で溢れたこの街に私はまだ、慣れないでいる。
 はァ、と大きなため息を吐いた。幸せが逃げるわよ、というおばあちゃんの小言が脳裏を掠める。そんな程度で逃げる幸せならいらんわ、と唇を尖らせた高校時代を思い出して私は苦笑いした。あの頃は青かった。何もかもが。
 スマホに指を走らせる。
 この辺り、だろうか。
 我ながら何をしているんだろう、と思いつつ私は足を進める。藁にもすがる思い、とよく言うけれど、今の私は都市伝説にも縋りたい。
 横断歩道を横切って、郵便局の角を右。建物が減り、段々と人通りが疎らになってきて、不安が首をもたげる。
 ここは本当にあの東京だろうか。
 初めて東京に来たとき、こんな小さな土地にこんなにも人が押し込められているなんて、と思ったのを思い出す。
 やっぱり引き返そうか。そんな気持ちになってきたが、頭を左右に振って目的を思い出す。半端な覚悟で来たわけじゃない。
 頭にこびりついた錆のような記憶。それを剥がして捨ててしまわないと、私はいつまで経ってもあの時で足踏みをしたままになってしまう。
 そんな気がするのだ。
 おろしたての新品のシューズに踵が擦れて痛い。履きなれたやつにしとくべきだったなぁ、と後悔しつつももう引き返せない。
 今日しかないわけじゃない。けれども、きっと今日やらなかったら、私はきっと、一生あの記憶にしがみついたまま生きていくことになる。
 それだけは嫌だった。
 無意識に唇を噛んで歩き続け、ようやくたどり着いた。白い、比較的大きな建物だ。洋館チックな、なんというか……シンプルな……無機質な。そんな言葉を並べ立てるのが良かろうと思う。
「ここが……」
 ──幻想美術館。
 人の記憶や夢、想い。そういったものを取り出して作った絵を描く幽霊がいる、と。
 ネットでまことしやかにささやかれている怪談だった。
 そして絵に描かれたものへの執着をなくしてしまうのだと言う。
 ……それなら、私のこれも、なんて、馬鹿げた期待を持ってやって来たはいいものの。
 幻想美術館と洒落た看板はあれども、人影はひとつも無い。美術館近辺での騒音は宜しくなかろうと誰かを呼んでみるのはやめて、凝った装飾がされた門を押してみる。ギィィ、と重たい音がして、門はあっさり開いた。美術館というなら警備の人がいそうなものだけど、それも見当たらない。ただの廃美術館なのか。だがそれにしては綺麗過ぎやしないか?
 ネットの記事では心霊スポット扱いされていたのを思い出して震えると、冷たいものが首筋を這ったような気がした。

 ──昔画家の死体が発見されたとかって聞いたぜ
 ──マジかよww
 ──え、やば

 ネット記事に付けられたコメントが脳裏を過ぎる。
 ええい、ここまで来て帰れるもんか。
 わざわざ靴擦れ作って帰るだけなんて、冗談じゃない。
 私は無理やりに元気を出して、肩肘を張ってみる。
 エントランスには誰もいなかった。でも、天井の白い照明がついているから、完全な無人という訳ではないだろう。落ち着いた色合いの赤い床と、真っ白な壁が続いていく廊下を見て、私は深呼吸した。
 点在する照明の数を数えながら歩いていく。いくつもの額縁に収まった絵がずらりと壁に並んでいる。手を伸ばしたら触れることも出来るんじゃないかと思う程無防備に。
 ただ、絵の善し悪しなんて分からないし、そもそもそんなことをしてはいけないくらい、知っている。だから私はそれを横目に、なるべく足早に人を探した。
 その時だった。
 突き当りで大きな絵が1枚。
 やたら豪華な金の額に飾られていた。
 子供の絵だった。油彩画……だと思う。
 イーゼルに掛けたキャンバスの前で、こちらを振り返るような構図。手のひらを絵の具だらけにして、こちらを見て、ああ、しまった、とでも言いたげな。服装が中世のそれではない。恐らく……近代。
 絵画の知識は皆無に等しい。けれども、目が離せない。
 じっとその絵に見入っていると、背後からこんにちは、と声がした。
 心臓がドキリとした。振り返るとそこには若い男の子が1人。大学生くらいの、黒髪の青年だった。襟元の緩めな黒いシャツを着ていて、長く癖のある前髪の向こうで、黒目がちの大きな目が柔らかく三日月を描いている。
 いつの間に……!
「こ……っ、こんにちは」
 半ばひっくり返った声でそう返すと、青年は私の横に並び、視線を絵画へ向けた。青年も、私と同じく迷い込んだ客なんだろうか。それにしては、やけに手荷物がないのが気になった。
 ……足はあるみたいだ。
「気になりますか」
 視線は絵画に固定されたまま、青年は私に短く尋ねた。
「え……ええ」
「この子は僕です。小さい頃……多分、小学校にあがる前かな」
 青年は絵画に手を伸ばすようにして、手を引っ込めた。まるで火傷でもしたかのような動き方だった。
 どのくらいそうしていたのかは分からない。
 青年が私に向き直り、次の絵を見ましょうか、と言った。
「あの……あなたは……?」
「あ……、すみません。つい、忘れていました。僕は佐伯といいます」
 そうじゃない。
 青年は誤解をそのまま、隣の絵を指さした。
 ピアノを引く女性の絵だった。
 どこかのコンサート会場だろうか、その中に華やかな赤いドレスをまとい、奏でる姿。けれども所々色が掠れていて、美しいはずなのに胸が締め付けられるような気がした。
「ピアニストになりたかったのだそうです」
 青年は──佐伯さんは、訥々と語る。
「実際、この人はそれだけの素晴らしい才能をお持ちでした。けれども不幸にも……信号無視のトラックに跳ねられて。右腕には後遺症が残りました。そうして、この人はここへ来ました。──夢を諦めるために。この未練を断ち切って、前進むために、僕は筆を取りました」
 ああ……そうか。彼が、噂の幽霊なのか。
「ここへ来る人は皆そうです。忘れたい記憶、諦めたい夢。そういうものと見切りを付けるために来ます」
 じ、と佐伯さんが私を見つめた。
 深い海の底のような、冬の湖畔のような静かな色を宿したような瞳だった。
「あなたもそうでしょう?」
 肩の力が抜けた。
 抜けて始めて、肩に力が入っていたことを知った。
「……はい」
 泣き笑いのような顔をしていたと思う。
 ああ、やっと、これで私は──


 案内されたアトリエだと言う場所はまるで倉庫みたいだった。高い窓から光がぼんやりと差し込んでいて、白い壁には子供の落書きみたいな絵が描いてある。
 散らかっていてごめんなさい、と申し訳なさそうに頭を下げる佐伯さんはまるで叱られる前の子供みたいな顔をしていた。床に落ちているのは画材や新聞紙で、流しには色のついた水が入ったバケツに絵筆が何本も突っ込まれていた。
 佐伯さんは丸い木の椅子を出した。
「どうぞ、座ってください」
「ありがとうございます」
 腕まくりをして、佐伯さんはイーゼルを建てる。そこに両手を広げたくらいのキャンバスを選んできてセットして、彼は筆を持った。水の入ったバケツだけ傍に用意されている。近くに置かれた椅子の上に投げられているパレットにはなんの絵の具も絞り出されてはいない。
 そのことを尋ねると、佐伯さんは僅かに口角をつり上げた。
「いりません。絵の具は、あなたの言葉だから」
 何もついてない、湿った筆先。私が語ることで色がにじみ出るのだと言う。なまじ信じられないが、この美術館の存在自体がそもそも信じ難いのだ。ならばもう、毒を食らわばなんとやら、だ。
「聞かせてください。あなたの、忘れたいもの」
 優しい声だった。
 墓場までもって行くのだと思っていた。
 けれども、もう私1人では抱えきれない。
 忘れてしまいたいと強く願ってしまった記憶だった。


  ──もう何年も前のことになります。
 当時の私は高校生でした。
 あの年頃の女の子、というのは、恋をすることに熱心な、というよりは恋をしていることがステータスだったようなに思います。実際、彼氏がいる、告白された、した、誰々が好き。そんな会話に中身などありはしなくて、単にその会話をしている自分たちが大人びた高校生という身分に相応しいと思い込んでいるような、そんな感じでした。私は……こういうと、良くないかも知れませんが、そういう子たちを見下していたんだと思います。けれども同じくらい、憧れて、羨んでいた。バカみたいですよね。同じになりたくない、なんて言いながら、本当は同じことがしたかったんだもの。……私の高校は女子高でしたから、もっぱら目に入る異性となれば、男性教師です。それが、私の初恋でした。


 佐伯さんは筆を持った手を動かしている。本当にあの筆先に色があるのだろうか。彼の表情はキャンバスと前髪に隠れて見えない。けれども相槌の声は優しい。随分と奇妙なことだ、と思う。自分より年下の、それも身も知らずの異性に私は重たい石のように溜め込んだ思いを、記憶を吐き出している。
「……どうかしましたか?」
 私が話すのをやめたから、佐伯さんは顔を上げた。
 窓から差し込む光を弾いた瞳が不思議な色を孕んでいるように見えたが、それも一瞬だった。
「いえ、なんでも」
 首を左右に振ると佐伯さんは続けて、とジェスチャーしたので、私は再び口を開いた。


 ──よくあることだと思います。友達が、あの先生カッコイイよね、なんて言っていたのがきっかけだった、かな。単なる珍しいもの見たさ、というか。でも私は、1目で世界が変わったくらい、本気でした。友達のいう「好き」と、私の「好き」は違う。画面の向こうにいる俳優やアイドルに向けるような好きじゃなくて、私の好きは、一生をかけてもいいくらいの好きだったんです。いつか先生じゃなくて、下の名前で呼ぶことができたら、死んでもいい。そう思いました。でも……あの人は先生で、私は、生徒で。年の差も、立場も、何もかもがあまりに遠くて……冗談交じりに繰り返した好き、なんて通じるわけなくて。例え本気だったとしても……そこには大きな厚い壁があるんです。
 あの人、結婚したんです。私が3年生の時。別の学校の先生だって聞きました。私の方がその人よりずっと先生のことが好きだって思ったけど……なんにも、できなかった。ただ家に帰って、1人で散々泣きました。あともう少し。卒業して、制服を脱いでしまえば、私は生徒っていう肩書きがなくなって、先生と対等になれると思ったのに。今思えば、それだって手遅れにも程があるわけですけれど。青かったと思います、何かと。
 ……私、一人っ子だし。出来れば両親も結婚してほしいって、口にはしないけど思っていることを知っています。お見合いをしました。相手は結構いい人です。私のことを好きだと言ってくれましたし、気もあうし。でも、私は、まだ先生のことを忘れられないでいる。
 このままあの人と結婚したら、きっと……苦しいまま、だから。
 だから、ここへ来たんです。

 そんな大した内容でもないのに、話終えるとふぅ、と息が漏れた。
 思っていたよりも、あっさりと語ったことに驚いた。
 佐伯さんはせっせと筆を動かしている。時おり手を止めて首を傾け、また筆を動かす。
 私は窓の方へ視線をやった。
 風に木の枝が揺れて、ぷちりと葉が吹き飛んでいた。


 きっかけなんて、知らない。
 気づいたら好きになってた。
 それだけの、話。

 ──せーんせっ。
 ──おー、またお前か。なんだよ。
 ──えっへへ、なんでもない!
 ──なんでもありません、だろが。


 ──先生。

 ──私、本当に、あなたの事が好きだった。


 ──せんせー、すき!
 ──はいはい。そりゃどーも。
 ──もー、冗談だと思ってるでしょー。


 1度でいいから、本気でぶつかってほしかったなぁ。

 
 カタリと筆を置く音で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。けれども空はまだ、明るい。
「まだ絵の具が乾いていないので……触らないで」
 佐伯さんが汚れた指先をタオルで拭いながら言った。
 心臓がうるさく鳴った。
 イーゼルから下ろされたキャンバス。
 やけに動作がゆっくりに見えた。
 佐伯さんはイーゼルの向きを変え、片手でひょいとキャンバスを掴んで私の前へ経つ。
 そして、もう一度、キャンバスはイーゼルに掛けられた。
  ウェディングドレスを着た私。横には、あの人がいる。どこかの教会で、永遠の愛を誓う2人の姿だった。
 咲き乱れた赤い薔薇と、顔をくしゃりと歪めて笑みを向け合う2人。
 声が出なかった。よろよろと絵に近寄る。紛れもない、あの人だった。
「せんせい……!」
 私は先生の容姿について一言も触れなかった。だと言うのに、そこにいるのは、先生だった。
「綺麗ですね」
 彼はそう言って、眩しそうに目を細めた。
 その瞬間何かが壊れたように、私の瞳からは涙が溢れた。ぽたり、ぽたりと、大きな雫が床に落ちて滲んでいった。
 ずっと、その言葉が欲しかった気がする。
 いつか見た夢だったの、あの人と、歩くことが。
 結婚することに後悔はない。
 ない、けれど。
 叶うことなら、あの人に私の本気を知って欲しかった。
 出来ることなら、こんな風になりたかった。
 膝から崩れ落ちてすすり泣く私の肩に、佐伯さんは手を置く。
 
「あなたの想いは、こんなにも綺麗ですよ」

 ああ。

 確かに、あれは、

 ──幸せな恋だった。

 錆ついた記憶が剥がれ落ちる。
 あの青かったトキメキは、決して苦いだけじゃなかった。


 ひとりきり泣いて、まるで失恋が確定したあの日みたいに泣いて、私は大きく鼻を啜った。
 佐伯さんはその間何も言わずに傍にいた。
「すみません……」
「いえ。よくあるので」 
 差し出されたハンカチを受け取って涙を拭う。化粧が崩れないように目元を拭って、私はもう一度、絵と向き直る。
「記憶や夢、想いから絵の具ができるんです」
 彼は筆先を水を含ませたタオルで拭いながら言った。
「でも、こんなに綺麗に色が出たのは初めてです。大体は掠れたり、滲んだり、澱んだりするので、こちらで調整して伸ばしたり削ったりするんですが」
 ちら、と彼が視線をやった先には油彩画教室で見るようなナイフが置いてあった。思い返せば、最初に紹介された子供の絵は、ガサツいた表面をしていたし、ピアニストの絵もインクが掠れているところがチラホラあった。
 私は幸せそうに笑う絵の私に向き直る。
 ……こんな顔を、私は出来るだろうか。
 私はこれから結婚する。けれど、こんな、幸せそうな顔を──
「あの……僕がこんなことを言うのもあれですが」
 佐伯さんは頬を描いた。
「結婚の方は……」
「ああ、大丈夫です。相手にもその話はしてあるんです。高校生の頃の初恋」
 ふと、彼の顔が、あの声が甦る。
「『 ──それでもいい』って」
 なんだか照れくさくなって私はもじもじと指をさ迷わせた。
 思えば、彼こそ、こんな私のどこが良かったんだろう。単なる見合いだと思っていたけれど、もしかしたら、彼の中には高校生の頃の私のような何かがあるのだろうか。だとしたら、私はもう、あの泣いていた高校生なんかじゃない。前を向いて彼と向き合わなければ。
 あれだけ真っ直ぐに気持ちを向ける彼と一緒になることが、不幸せなんて嘘に決まっている。なぜだかそんな妙な自信があった。
「そうですか……」
 佐伯さんは少しほっとしたようだった。そしてしゃんと背を伸ばす。
「出口まで案内します。途中気になる絵があれば、ご覧になってください」
 アトリエから出て、また白い廊下を歩く。
 壁には大小様々な絵がかかっていて、その下には端的なタイトルが並んでいる。私の絵も、いつかはここに並ぶのだろうか。
「それにしても、ビックリしました」
「びっくり?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返す様がなんとなく幼く見えて、おかしかった。
「幽霊が出るって聞いてたから」
「幽霊」
「佐伯さんのことですね」
 そう言うと佐伯さんは困惑交じりに苦笑した。
「幽霊……幽霊か……」
 結構な心霊スポットになってますよ、と言うと佐伯さんは照れくさそうに、ネットには疎くて、と零した。人付き合いもあまり得意でないし、とついでに零す。
 どこにでもいそうな、気弱そうな青年である。コンビニでバイトをしていたら、クレーマーに泣かされていそうな。
 けれど、きっと性根の優しい人だと私は思う。
 少なくとも、私にとってはそうだ。
「こちらです」
 入ってきたのと同じところだった。晴れた空がちらりと見えた。
 私の執着が、あの絵に吸われていったのか、それとも絵に描き起こされたことで願いがかなったからなのか。それは分からないけれど、私の足取りは軽かった。
「ありがとうございました」
 頭を下げると、佐伯さんはいえ、と手を左右に振って、困ったように眉を下げる。
「気をつけておかえりください」
「そうします」
 それじゃあ、と背を向けたところで、疑問が1つ振ってきた。
「あの」
 私は彼に問う。
「あの絵の子供、あれは自分だって言いましたよね」
 彼は絵を描く。
 人の記憶や夢、想いを取り出して、それを絵の具に。
 絵の具の元になるそれらを取り出された人は、それへの執着を無くすのだ、と。
 なら、あの絵は。
 ここの絵が、彼によって描かれたものだと言うなら。
 彼が描いたものだと言うなら、あの子供の絵は──

 彼は笑った。
 へらりと、人好きのする顔で。
 深い悲しみを湛えた瞳で。
「あなたは──」
 風が吹く。びゅう、と足元に落ちた葉が舞い上がる。
 目を閉じて次に開けたとき、彼はもう、どこにもいなかった。
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