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第二話「黒い染み」
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引っ越しから一週間が経過した頃、麻子は少しずつ新しい生活に慣れ始めていた。朝は波の音で目覚め、日中は作家とのメールのやり取りに追われ、夜は海を見ながら原稿の編集作業を行う。そんな日常が形作られつつあった。
しかし、夜になると必ず聞こえてくる階段の足音だけは、どうしても慣れることができなかった。
「また始まった…」 深夜、パソコンに向かっていた麻子は、キーボードを打つ手を止めた。今夜も誰かが階段を上がってくる音が響いてきた。
ゆっくりと、規則正しく、一段、また一段。 その足音は、いつも決まって彼女の部屋の前で止まる。しかし、ドアをノックすることも、声をかけることもない。ただそこに立ち続けるのだ。
麻子は勇気を振り絞ってドアスコープを覗いた。廊下には誰もいない。しかし、三階と四階の間の踊り場の壁に浮かぶ黒いシミが、以前より大きくなっているように見えた。
その夜、麻子は再び不思議な写真を受け取った。今度の写真には、踊り場で佇む女性が写っていた。前回と同じ白いワンピース姿だが、今回は後ろ姿で、壁に向かって立っている。そして壁には、人型のような黒いシミが浮かんでいた。
翌朝、麻子は向かいの佐々木さんに声をかけてみた。 「佐々木さん、この建物について何か…」
「そうね…」 佐々木さんは言葉を選ぶように間を置いた。 「二十年前、この建物で若い女性が何人か姿を消したことがあったの。最後に見つかったのは…」
その時、管理人の山岸が突然現れた。 「佐々木さん、昔話は程々にしておきましょう」
山岸の声には、普段の丁寧さの中に、わずかな威圧感が混じっていた。佐々木さんは言葉を飲み込み、申し訳なさそうに麻子を見つめた。
その後、佐々木さんは何も語ろうとしなかった。しかし、麻子の部屋を去る際、小さな声でつぶやいた。 「踊り場には近づかない方がいいわ」
その言葉が、逆に麻子の好奇心に火をつけた。夜になって、彼女は決意した。足音の正体を突き止めようと、階段の踊り場で待ち伏せることにしたのだ。
時計は深夜0時を指していた。 暗い踊り場に立つ麻子の背後で、ゆっくりと足音が近づいてきた。しかし、振り返っても誰もいない。代わりに目に入ったのは、壁の黒いシミだった。
よく見ると、シミは確実に大きくなっていた。そして、まるで人が壁に溶け込んでいるかのような形をしている。麻子が恐る恐る手を伸ばすと、シミの部分だけが妙に冷たかった。
突然、背後から誰かに見られているような感覚に襲われた。振り返ると、階段の上に白いワンピース姿の女性が立っていた。しかし、その顔は…顔があるべき場所が、真っ黒に潰れていたのだ。
麻子は悲鳴を上げて自室に逃げ帰った。ドアを閉め、鍵を掛け、震える手でスマートフォンを取り出した。画面には、「着信履歴なし」の表示。しかし、麻子には確かに電話の着信音が聞こえていた。
その瞬間、部屋の電気が消えた。真っ暗な部屋の中で、麻子は息を殺した。そして、ドアの向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「コンコン」 今度は確かにノックの音がした。麻子は動けなかった。ただ、ドアの向こうの気配に耳を澄ませることしかできなかった。
「三崎さん」 山岸の声だった。 「大丈夫ですか?停電のようです」
安堵のため息をつきながら、麻子はドアを開けた。山岸は懐中電灯を持って立っていた。
「こんな時間に、踊り場で何をされていたんですか?」 その問いかけに、麻子は言葉を失った。誰も見ていないはずなのに、なぜ山岸は知っているのか。
「この建物には、知らない方がいいことがたくさんあります」 山岸の声は、いつもの丁寧さを失っていた。 「余計なことを調べるのは、やめた方がいい」
その夜以来、麻子の部屋には毎晩のように写真が届くようになった。全て踊り場で撮られた写真で、写っている女性の姿は徐々に壁に溶け込んでいくように見えた。
不安と好奇心が入り混じる中、麻子は地元の図書館で古い新聞を調べ始めた。そこで彼女は、二十年前の連続失踪事件の詳細を知ることになる。
被害者は全て若い女性で、最後に目撃されたのは全て浜風マンションの階段だった。そして最後の被害者は、踊り場で変死体として発見された。記事には、壁に大きな黒いシミがあったという証言も載っていた。
図書館から帰る途中、麻子は佐々木さんと出会った。
「あの事件のこと、調べたのね」 佐々木さんは諦めたように言った。 「私も、二十年前にここに住んでいたの。あの子たちのことは、忘れられない」
「あの子たち?」 「ええ、失踪した女性たち。みんな、あの踊り場で…」
その時、突然の雷鳴が響いた。梅雨の雨が、一気に降り出す。
「今夜は、気をつけて」 それだけ言い残して、佐々木さんは傘も差さずに立ち去った。
その夜、麻子は恐ろしい発見をする。届いた新しい写真には、二十年前に失踪した女性たちと、まったく同じ白いワンピースを着た自分の姿が写っていたのだ。
しかも写真の日付は、明日の日付になっていた。
麻子は震える手で山岸に電話をかけた。しかし、管理人室からの応答はない。代わりに、階段を上がってくる足音が、また聞こえ始めた。
今夜は、いつもと違う足音だった。複数の人の足音が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
そして、ドアの向こうで止まった。 「コンコン」
麻子は、おそるおそるドアスコープを覗いた。 廊下には、白いワンピースを着た女性たちが立っていた。顔のない、黒く潰れた顔を持つ女性たちが。
そして彼女たちの後ろには、にやりと笑う山岸の姿があった…
しかし、夜になると必ず聞こえてくる階段の足音だけは、どうしても慣れることができなかった。
「また始まった…」 深夜、パソコンに向かっていた麻子は、キーボードを打つ手を止めた。今夜も誰かが階段を上がってくる音が響いてきた。
ゆっくりと、規則正しく、一段、また一段。 その足音は、いつも決まって彼女の部屋の前で止まる。しかし、ドアをノックすることも、声をかけることもない。ただそこに立ち続けるのだ。
麻子は勇気を振り絞ってドアスコープを覗いた。廊下には誰もいない。しかし、三階と四階の間の踊り場の壁に浮かぶ黒いシミが、以前より大きくなっているように見えた。
その夜、麻子は再び不思議な写真を受け取った。今度の写真には、踊り場で佇む女性が写っていた。前回と同じ白いワンピース姿だが、今回は後ろ姿で、壁に向かって立っている。そして壁には、人型のような黒いシミが浮かんでいた。
翌朝、麻子は向かいの佐々木さんに声をかけてみた。 「佐々木さん、この建物について何か…」
「そうね…」 佐々木さんは言葉を選ぶように間を置いた。 「二十年前、この建物で若い女性が何人か姿を消したことがあったの。最後に見つかったのは…」
その時、管理人の山岸が突然現れた。 「佐々木さん、昔話は程々にしておきましょう」
山岸の声には、普段の丁寧さの中に、わずかな威圧感が混じっていた。佐々木さんは言葉を飲み込み、申し訳なさそうに麻子を見つめた。
その後、佐々木さんは何も語ろうとしなかった。しかし、麻子の部屋を去る際、小さな声でつぶやいた。 「踊り場には近づかない方がいいわ」
その言葉が、逆に麻子の好奇心に火をつけた。夜になって、彼女は決意した。足音の正体を突き止めようと、階段の踊り場で待ち伏せることにしたのだ。
時計は深夜0時を指していた。 暗い踊り場に立つ麻子の背後で、ゆっくりと足音が近づいてきた。しかし、振り返っても誰もいない。代わりに目に入ったのは、壁の黒いシミだった。
よく見ると、シミは確実に大きくなっていた。そして、まるで人が壁に溶け込んでいるかのような形をしている。麻子が恐る恐る手を伸ばすと、シミの部分だけが妙に冷たかった。
突然、背後から誰かに見られているような感覚に襲われた。振り返ると、階段の上に白いワンピース姿の女性が立っていた。しかし、その顔は…顔があるべき場所が、真っ黒に潰れていたのだ。
麻子は悲鳴を上げて自室に逃げ帰った。ドアを閉め、鍵を掛け、震える手でスマートフォンを取り出した。画面には、「着信履歴なし」の表示。しかし、麻子には確かに電話の着信音が聞こえていた。
その瞬間、部屋の電気が消えた。真っ暗な部屋の中で、麻子は息を殺した。そして、ドアの向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「コンコン」 今度は確かにノックの音がした。麻子は動けなかった。ただ、ドアの向こうの気配に耳を澄ませることしかできなかった。
「三崎さん」 山岸の声だった。 「大丈夫ですか?停電のようです」
安堵のため息をつきながら、麻子はドアを開けた。山岸は懐中電灯を持って立っていた。
「こんな時間に、踊り場で何をされていたんですか?」 その問いかけに、麻子は言葉を失った。誰も見ていないはずなのに、なぜ山岸は知っているのか。
「この建物には、知らない方がいいことがたくさんあります」 山岸の声は、いつもの丁寧さを失っていた。 「余計なことを調べるのは、やめた方がいい」
その夜以来、麻子の部屋には毎晩のように写真が届くようになった。全て踊り場で撮られた写真で、写っている女性の姿は徐々に壁に溶け込んでいくように見えた。
不安と好奇心が入り混じる中、麻子は地元の図書館で古い新聞を調べ始めた。そこで彼女は、二十年前の連続失踪事件の詳細を知ることになる。
被害者は全て若い女性で、最後に目撃されたのは全て浜風マンションの階段だった。そして最後の被害者は、踊り場で変死体として発見された。記事には、壁に大きな黒いシミがあったという証言も載っていた。
図書館から帰る途中、麻子は佐々木さんと出会った。
「あの事件のこと、調べたのね」 佐々木さんは諦めたように言った。 「私も、二十年前にここに住んでいたの。あの子たちのことは、忘れられない」
「あの子たち?」 「ええ、失踪した女性たち。みんな、あの踊り場で…」
その時、突然の雷鳴が響いた。梅雨の雨が、一気に降り出す。
「今夜は、気をつけて」 それだけ言い残して、佐々木さんは傘も差さずに立ち去った。
その夜、麻子は恐ろしい発見をする。届いた新しい写真には、二十年前に失踪した女性たちと、まったく同じ白いワンピースを着た自分の姿が写っていたのだ。
しかも写真の日付は、明日の日付になっていた。
麻子は震える手で山岸に電話をかけた。しかし、管理人室からの応答はない。代わりに、階段を上がってくる足音が、また聞こえ始めた。
今夜は、いつもと違う足音だった。複数の人の足音が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
そして、ドアの向こうで止まった。 「コンコン」
麻子は、おそるおそるドアスコープを覗いた。 廊下には、白いワンピースを着た女性たちが立っていた。顔のない、黒く潰れた顔を持つ女性たちが。
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