影の階段

ロキ

文字の大きさ
2 / 7

第二話「黒い染み」

しおりを挟む
引っ越しから一週間が経過した頃、麻子は少しずつ新しい生活に慣れ始めていた。朝は波の音で目覚め、日中は作家とのメールのやり取りに追われ、夜は海を見ながら原稿の編集作業を行う。そんな日常が形作られつつあった。
しかし、夜になると必ず聞こえてくる階段の足音だけは、どうしても慣れることができなかった。
「また始まった…」
深夜、パソコンに向かっていた麻子は、キーボードを打つ手を止めた。今夜も誰かが階段を上がってくる音が響いてきた。
ゆっくりと、規則正しく、一段、また一段。
その足音は、いつも決まって彼女の部屋の前で止まる。しかし、ドアをノックすることも、声をかけることもない。ただそこに立ち続けるのだ。
麻子は勇気を振り絞ってドアスコープを覗いた。廊下には誰もいない。しかし、三階と四階の間の踊り場の壁に浮かぶ黒いシミが、以前より大きくなっているように見えた。
その夜、麻子は再び不思議な写真を受け取った。今度の写真には、踊り場で佇む女性が写っていた。前回と同じ白いワンピース姿だが、今回は後ろ姿で、壁に向かって立っている。そして壁には、人型のような黒いシミが浮かんでいた。
翌朝、麻子は向かいの佐々木さんに声をかけてみた。
「佐々木さん、この建物について何か…」
「そうね…」
佐々木さんは言葉を選ぶように間を置いた。
「二十年前、この建物で若い女性が何人か姿を消したことがあったの。最後に見つかったのは…」
その時、管理人の山岸が突然現れた。
「佐々木さん、昔話は程々にしておきましょう」
山岸の声には、普段の丁寧さの中に、わずかな威圧感が混じっていた。佐々木さんは言葉を飲み込み、申し訳なさそうに麻子を見つめた。
その後、佐々木さんは何も語ろうとしなかった。しかし、麻子の部屋を去る際、小さな声でつぶやいた。
「踊り場には近づかない方がいいわ」
その言葉が、逆に麻子の好奇心に火をつけた。夜になって、彼女は決意した。足音の正体を突き止めようと、階段の踊り場で待ち伏せることにしたのだ。
時計は深夜0時を指していた。
暗い踊り場に立つ麻子の背後で、ゆっくりと足音が近づいてきた。しかし、振り返っても誰もいない。代わりに目に入ったのは、壁の黒いシミだった。
よく見ると、シミは確実に大きくなっていた。そして、まるで人が壁に溶け込んでいるかのような形をしている。麻子が恐る恐る手を伸ばすと、シミの部分だけが妙に冷たかった。
突然、背後から誰かに見られているような感覚に襲われた。振り返ると、階段の上に白いワンピース姿の女性が立っていた。しかし、その顔は…顔があるべき場所が、真っ黒に潰れていたのだ。
麻子は悲鳴を上げて自室に逃げ帰った。ドアを閉め、鍵を掛け、震える手でスマートフォンを取り出した。画面には、「着信履歴なし」の表示。しかし、麻子には確かに電話の着信音が聞こえていた。
その瞬間、部屋の電気が消えた。真っ暗な部屋の中で、麻子は息を殺した。そして、ドアの向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「コンコン」
今度は確かにノックの音がした。麻子は動けなかった。ただ、ドアの向こうの気配に耳を澄ませることしかできなかった。
「三崎さん」
山岸の声だった。
「大丈夫ですか?停電のようです」
安堵のため息をつきながら、麻子はドアを開けた。山岸は懐中電灯を持って立っていた。
「こんな時間に、踊り場で何をされていたんですか?」
その問いかけに、麻子は言葉を失った。誰も見ていないはずなのに、なぜ山岸は知っているのか。
「この建物には、知らない方がいいことがたくさんあります」
山岸の声は、いつもの丁寧さを失っていた。
「余計なことを調べるのは、やめた方がいい」
その夜以来、麻子の部屋には毎晩のように写真が届くようになった。全て踊り場で撮られた写真で、写っている女性の姿は徐々に壁に溶け込んでいくように見えた。
不安と好奇心が入り混じる中、麻子は地元の図書館で古い新聞を調べ始めた。そこで彼女は、二十年前の連続失踪事件の詳細を知ることになる。
被害者は全て若い女性で、最後に目撃されたのは全て浜風マンションの階段だった。そして最後の被害者は、踊り場で変死体として発見された。記事には、壁に大きな黒いシミがあったという証言も載っていた。
図書館から帰る途中、麻子は佐々木さんと出会った。
「あの事件のこと、調べたのね」
佐々木さんは諦めたように言った。
「私も、二十年前にここに住んでいたの。あの子たちのことは、忘れられない」
「あの子たち?」
「ええ、失踪した女性たち。みんな、あの踊り場で…」
その時、突然の雷鳴が響いた。梅雨の雨が、一気に降り出す。
「今夜は、気をつけて」
それだけ言い残して、佐々木さんは傘も差さずに立ち去った。
その夜、麻子は恐ろしい発見をする。届いた新しい写真には、二十年前に失踪した女性たちと、まったく同じ白いワンピースを着た自分の姿が写っていたのだ。
しかも写真の日付は、明日の日付になっていた。
麻子は震える手で山岸に電話をかけた。しかし、管理人室からの応答はない。代わりに、階段を上がってくる足音が、また聞こえ始めた。
今夜は、いつもと違う足音だった。複数の人の足音が、ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
そして、ドアの向こうで止まった。
「コンコン」
麻子は、おそるおそるドアスコープを覗いた。
廊下には、白いワンピースを着た女性たちが立っていた。顔のない、黒く潰れた顔を持つ女性たちが。
そして彼女たちの後ろには、にやりと笑う山岸の姿があった…
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

だから言ったでしょう?

わらびもち
恋愛
ロザリンドの夫は職場で若い女性から手製の菓子を貰っている。 その行為がどれだけ妻を傷つけるのか、そしてどれだけ危険なのかを理解しない夫。 ロザリンドはそんな夫に失望したーーー。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

橘若頭と怖がり姫

真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。 その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。 高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...