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ニナが十の歳に、実母のエルサが早逝した。
病が見つかってからあっという間に息を引き取ったエルサの亡骸を前に、心の準備も出来ぬままだった夫のルフィーノ・カヴァニス伯爵は慟哭し、一人娘のニナは共に泣き崩れた。
エルサは侯爵令嬢で、四女だった。
婚約当時のルフィーノは実直な青年で、代々続いた領地の経営は順風満帆。だが結婚後すぐに起きた天変地異により両親を亡くし、規模の大きな地盤沈下と液状化の発生で領地経営は困難を極める。妻の実家はこれを不憫に思い、毎年赤字の補填をするようになった。
十年以上続いたその補填は、エルサの死により打ち切られる。
遺されたルフィーノは自らも汗水垂らし、時には満身創痍でこの補填に駆けずり回ることで、なんとか領地経営を維持できるよう努めた。
「お父様、領民の皆さんは大丈夫でしょうか。先日、川が氾濫し、傷んでいた橋が落ちたと聞きました」
「そうだね、ニナ。何とか嵐の夜に備えようとしたが、無駄に終わった。今、土嚢問題と新しい橋の場所を再検討している所だよ。だけど良い技術者がいなくて、なかなか進まないんだ」
「さようでございますか。怪我人が出たと伺いましたので、私はお薬や食料を持って慰問に伺おうと思います」
「助かるよ、ありがとう、ニナ。皆んなもお前が行くと喜ぶ」
「お父様、今年も不作だと。もう少し土地に見合った作物を植える方が育ちが良いのかもしれません」
「そうだね、ニナ。わかっているんだ。だから農作物の有識者を招いているんだけど、忙しいと後回しにされていて…」
「さようでございますか。我が領地は王都から遠い訳でもありませんのに……他の方にお願いできないものでしょうか」
「そうだねぇ、私に強い伝手があればなぁ」
万事このような調子で進まず、年々領地は荒れていく。
収穫が少なければ納税率も上がり、生活が苦しいと農民たちは他領地へ逃げ出した。
ニナはしばしば頭を抱える父を見、諳んじてしまえる程に読みこんだ長い母の手紙を幾度も思い出すことになる。
『殿方には過度な期待をしてはいけません。
恐らく貴女の御父上であるルフィーノも、遠からずお酒に溺れるようになるか、財力のある後妻を貰うなどの具体的な手段をとることでしょう』
妻の実家から無償で補填を受けていた間に、エルサが何度申し入れても抜本的な改革を打とうとしなかった夫を見ていたから、まるで見てきたかのごとく母には予見ができていた。
ニナが十四の頃、ルフィーノは金持ちの女を後妻に入れた。
後妻は年上の女で、ブレンダと言った。
ブレンダは二十歳近く年の離れたリーベルト男爵と死別。莫大な遺産を手にしていた。男爵は領地経営の他には貿易商を営んでおり、他国との売買でひと山当てた名の知れた富豪であった。
その容姿は迫力に尽きる。
高齢の夫を腹上死だか興奮死だかさせた肉塊的な身体と厚化粧、傲慢とも取れる発言に最初は皆が呆気にとられた。
だが、このブレンダという女には有り余る金と何故かしら人心を掌握する力があった。
加えて良く通る声、腹に響く笑い声、巧みな話術。社交性に長け、旨味のある話をまとめ上げる術を持っていた。誰もが生半に彼女を無視できず、蛾が外灯に集まるように吸い寄せられた。
そうして最後には彼女の信奉者になる。
そうなればもう、沼から這いでることは至難と言えた。
父、ルフィーノもその一人だ。
ブレンダは元夫との間に二人の子を儲けた。
長男のエドヴァルド。長女のイリナ。
夫の死後はこのエドヴァルドが爵位を継いだが、やや特殊な事情があって領地は返上。ブレンダは死後まで遣いきれない金を持て余し、暇が高じた結果、溺愛する娘を世界の中心に置くようになる。可愛い娘に最高な人生を送らせたい! ブレンダはそう思った。
そうなれば、おしゃまで快活な国一番の可愛い娘を大切にする男が必要だった。素晴らしい男はどこにいる? ブレンダは『男爵の娘』では叶わない夢を見始めた。
一方で母と息子エドヴァルドの相性は最悪だった。
産んだ直後から、息子には違和感しかなかった。可愛いと思えず、抱いたこともない。さらに話の通じない息子とはまともな会話が成立しない。全員が「はい」というところで、エドヴァルドだけが「は?」と返した。顔を合わせれば苛立つ会話にブレンダは嫌気がさし、体格の良いことを理由にして息子を早々に騎士育成の寄宿学校に追いやった。
そうしてブレンダは手始めに男爵元夫人から現役の貴族夫人への道を模索し始めた。
公爵や侯爵の配偶者は出自が非常に大きな役割を果たす為、難しい。だが出来れば子爵よりも、もうひとつ上が良い……辺境の地へは行きたくない。愛も子も要らぬ。
ならば伯爵でやもめ、出来れば風采の上がらない男はいないものか。
そうした理由でルフィーノに白羽の矢が立った。
甘言を弄してルフィーノを手中に収めた後で、返しきれない程の金をカヴァニス伯爵家の借金返済の為に貸し出した。
一夜にして肩が軽くなったルフィーノは抜け殻のように安堵の息を吐く。
ブレンダに絡めとられたルフィーノには婚姻の誓約書サインする以外ない。
そうしてブレンダとイリナはカヴァニス伯爵家へとやってきたのである。
病が見つかってからあっという間に息を引き取ったエルサの亡骸を前に、心の準備も出来ぬままだった夫のルフィーノ・カヴァニス伯爵は慟哭し、一人娘のニナは共に泣き崩れた。
エルサは侯爵令嬢で、四女だった。
婚約当時のルフィーノは実直な青年で、代々続いた領地の経営は順風満帆。だが結婚後すぐに起きた天変地異により両親を亡くし、規模の大きな地盤沈下と液状化の発生で領地経営は困難を極める。妻の実家はこれを不憫に思い、毎年赤字の補填をするようになった。
十年以上続いたその補填は、エルサの死により打ち切られる。
遺されたルフィーノは自らも汗水垂らし、時には満身創痍でこの補填に駆けずり回ることで、なんとか領地経営を維持できるよう努めた。
「お父様、領民の皆さんは大丈夫でしょうか。先日、川が氾濫し、傷んでいた橋が落ちたと聞きました」
「そうだね、ニナ。何とか嵐の夜に備えようとしたが、無駄に終わった。今、土嚢問題と新しい橋の場所を再検討している所だよ。だけど良い技術者がいなくて、なかなか進まないんだ」
「さようでございますか。怪我人が出たと伺いましたので、私はお薬や食料を持って慰問に伺おうと思います」
「助かるよ、ありがとう、ニナ。皆んなもお前が行くと喜ぶ」
「お父様、今年も不作だと。もう少し土地に見合った作物を植える方が育ちが良いのかもしれません」
「そうだね、ニナ。わかっているんだ。だから農作物の有識者を招いているんだけど、忙しいと後回しにされていて…」
「さようでございますか。我が領地は王都から遠い訳でもありませんのに……他の方にお願いできないものでしょうか」
「そうだねぇ、私に強い伝手があればなぁ」
万事このような調子で進まず、年々領地は荒れていく。
収穫が少なければ納税率も上がり、生活が苦しいと農民たちは他領地へ逃げ出した。
ニナはしばしば頭を抱える父を見、諳んじてしまえる程に読みこんだ長い母の手紙を幾度も思い出すことになる。
『殿方には過度な期待をしてはいけません。
恐らく貴女の御父上であるルフィーノも、遠からずお酒に溺れるようになるか、財力のある後妻を貰うなどの具体的な手段をとることでしょう』
妻の実家から無償で補填を受けていた間に、エルサが何度申し入れても抜本的な改革を打とうとしなかった夫を見ていたから、まるで見てきたかのごとく母には予見ができていた。
ニナが十四の頃、ルフィーノは金持ちの女を後妻に入れた。
後妻は年上の女で、ブレンダと言った。
ブレンダは二十歳近く年の離れたリーベルト男爵と死別。莫大な遺産を手にしていた。男爵は領地経営の他には貿易商を営んでおり、他国との売買でひと山当てた名の知れた富豪であった。
その容姿は迫力に尽きる。
高齢の夫を腹上死だか興奮死だかさせた肉塊的な身体と厚化粧、傲慢とも取れる発言に最初は皆が呆気にとられた。
だが、このブレンダという女には有り余る金と何故かしら人心を掌握する力があった。
加えて良く通る声、腹に響く笑い声、巧みな話術。社交性に長け、旨味のある話をまとめ上げる術を持っていた。誰もが生半に彼女を無視できず、蛾が外灯に集まるように吸い寄せられた。
そうして最後には彼女の信奉者になる。
そうなればもう、沼から這いでることは至難と言えた。
父、ルフィーノもその一人だ。
ブレンダは元夫との間に二人の子を儲けた。
長男のエドヴァルド。長女のイリナ。
夫の死後はこのエドヴァルドが爵位を継いだが、やや特殊な事情があって領地は返上。ブレンダは死後まで遣いきれない金を持て余し、暇が高じた結果、溺愛する娘を世界の中心に置くようになる。可愛い娘に最高な人生を送らせたい! ブレンダはそう思った。
そうなれば、おしゃまで快活な国一番の可愛い娘を大切にする男が必要だった。素晴らしい男はどこにいる? ブレンダは『男爵の娘』では叶わない夢を見始めた。
一方で母と息子エドヴァルドの相性は最悪だった。
産んだ直後から、息子には違和感しかなかった。可愛いと思えず、抱いたこともない。さらに話の通じない息子とはまともな会話が成立しない。全員が「はい」というところで、エドヴァルドだけが「は?」と返した。顔を合わせれば苛立つ会話にブレンダは嫌気がさし、体格の良いことを理由にして息子を早々に騎士育成の寄宿学校に追いやった。
そうしてブレンダは手始めに男爵元夫人から現役の貴族夫人への道を模索し始めた。
公爵や侯爵の配偶者は出自が非常に大きな役割を果たす為、難しい。だが出来れば子爵よりも、もうひとつ上が良い……辺境の地へは行きたくない。愛も子も要らぬ。
ならば伯爵でやもめ、出来れば風采の上がらない男はいないものか。
そうした理由でルフィーノに白羽の矢が立った。
甘言を弄してルフィーノを手中に収めた後で、返しきれない程の金をカヴァニス伯爵家の借金返済の為に貸し出した。
一夜にして肩が軽くなったルフィーノは抜け殻のように安堵の息を吐く。
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