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霜弍谷鴇

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第一章 雪降る街のカゲ

第14話 野仲恭平の日常

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 野仲恭平のなかきょうへいの朝は早い。

 学校のある日は必ず6時に起床すると、自分の弁当を作りつつ朝食の準備をする。弁当と言っても米は前日に炊いたものを詰めて冷蔵庫に入れておいているし、おかずも大半が自然解凍の冷凍食品だ。

 弁当を自分で作っていると言うとクラスメイトからは驚かれるが、慣れてしまえばただの習慣と化すので現在は特別大変とも思わない。

 朝食も簡単に作るが、例の如く料理の腕前もごく平均的。美味しいと思えば美味しいし、もうちょっとなんとかならないかとも思うが、努力ではどうにもならないと野仲は諦めている。

 そんな朝食を祖母は美味しいと言ってくれるが、妹からは文句しか聞いたことがなかった。

 昨日の怪我もあり、この日野仲は学校を休むことにした。側頭部の怪我は少し切れただけのようで、風呂でシャンプーが染みて唸ったこと以外に特別支障はなかったが、それ以外の細かな擦り傷などが目立ちそうだったこともあり、ゆっくりと休もうと思った。

 思えばここ数日は毎晩妖を祓い続ける生活をしていた。和に何もするなと言われ、陰陽寮から陰陽師が派遣されるであろう状況なのだから、自分の出る幕はない。

 学校を休むので弁当は作らずに朝食だけを作る。夕食などは祖母が作ってくれるが、負担をかけたくないので朝食は平日休日問わず自分が作ることにしていた。

 朝食の準備ができると、野仲は妹を起こし祖母を呼んだ。そうしていつものように朝食を食べる。祖母は「今日くらいは良いのに、休んでなさいよ」と言ってくれたが、やはり負担をかけたくなかった。

 妹は「そんな元気そうなのに休むとか、高校ってクソ楽勝なんだね」と毒づいた。そして玉子焼きは甘いのが良かっただのなんだとあれこれ文句を言いつつ暴言を吐く妹が完食するのを見届けた。こんな他愛もない日常に、野仲はひどく安堵した。

 妹が学校へ行くのを見送り、洗い物はやっておくから休んでいないさいと言う祖母に甘えて、野仲はふぅと一息つく。そのまま自室に篭るのもなんなので、居間のテレビをつけてソファに座った。

 テレビから流れるニュースを聞き流しながら、沈み込む体をソファに預けて携帯を開いた。昨日八条から知らされた、SNSで広がっていた氷漬けの男性の写真については、まだ鎮火せずさまざまな憶測が飛び交っているようだった。

 しかし大方の流れは造形物、と言うことに落ち着いてきている印象だ。警察が回収していく写真がアップされたことが追い風となったようだが、きっと和の尽力あっての流れなのだろう。

 野仲は携帯を閉じると共に目を閉じ、この数ヶ月間のことを思い返した。和に出会い、妖をった。どこまでも普通で、異常なまでに平均的な自分の世界や価値観が裏返ったような出来事だった。

 そこから様々なことがあったが、その中でもここ数日は比ではない程に濃密だった。季節外れの雪、旧校舎での妖祓いと、そして昨日の雪入道ゆきにゅうどうとの遭遇。

 どれもあまりに異常なことで、身が震えるほどに恐ろしい出来事だった。けれどそれ以上に自分の無力さが、不甲斐なさがなによりも心にへばり付いて剥がれない。

 そんな折、着信音が鳴り野仲の意識は現実に引き戻された。画面を見ると、『蓮乃要はすのかなめ』という表示が見え、野仲は電話に出た。

「もしもし? 蓮乃はすの、授業中じゃないの?」

「キョウ、た、助け……」

 それは間違いなく蓮乃の声だったが、弱々しく掠れていた。——まさか。

「蓮乃!? どうした、何があった!?」

「……られた」

「なに? 聞こえないよ蓮乃!」

「お、折られちまった」

「ど、どこを……蓮乃の骨が折れるなんて何が」

「あいつだ、あ、あいつがやったんだ。あの、あの暴力眼鏡委員長が」

「……へ?」

 暴力眼鏡委員長、八条はちじょうか、と野仲の脳内で変換される。途端に野仲は自身の焦りが杞憂であったと気づき、胃の痛みを感じつつ息を吐いた。

「あ、ああぁまた来た! 助けてくれキョウ! また折られる、俺の身体がボキボキにされちまう!」

 野仲は昨日のグループでのやりとりを思い出した。

『蓮乃はあたしを待ってなさい。帰ったら折るわよ』

 蓮乃……。

「蓮乃ごめん、それは蓮乃が悪い」

「ちげえんだって! 気づかなかったんだよ、ほんとだよ! しかもちゃんと学校戻って送ってったじゃねぇか!!」

 野仲が呆れていると、電話越しに八条の声も聞こえてきた。

「不安な中1時間も待ったのよ!? しかもなぁにが『お前なんか襲う物好きいねぇよ、その眼鏡の方がよっぽど狙われるわ』だこらぁ!!」

「い、一言一句覚えてやがる! ごはぁっ!!」

 電話の向こうからボキボキという音が野仲の耳に直撃する。お、折られてる、蓮乃の何かが折られている音がする、と野仲は戦慄した。

「は、はすのぉぉぉぉぉ!!」

 ブツッ、ツー、ツー。電話の切れた音が残酷に鳴る。そして直ぐに、今度はメッセージが届いた。蓮乃からだった。

『キョウ、なんかあったら言えよ』

「え?」

 野仲はひとり声を出し目をしばたいた後、しばし携帯を握りながら天を仰いだ。

 元々勘の鋭い蓮乃ではあるが、付き合いの長さや深さを考えると自分の異変に気づいていない方がおかしいか、と野仲は思った。気づいていながら何も言わずに今日までいてくれたのだろう。

 そして元気付けるためにふざけた電話までしてきてくれたのだ、感謝しなくてはいけない。実際、心にへばり付いていたヘドロのような重たい気持ちはどこかへ消えていた。蓮乃が折られたのは本当だろうが。

 ソファに背を預けた野仲は、自身の中の葛藤を感じていた。

 蓮乃に話せたら、相談できたらどれだけ心強いか。けれど言える訳がない、巻き込むことはできない。

 野仲はぐるぐる回る思考を、自分の弱さを手放そうと、ソファに寝そべり目を閉じた。携帯に東雲、八条から体調を心配する連絡の通知音が鳴る頃には意識も手放し、深い眠りに落ちていた。

 そんな野仲に祖母はそっと毛布をかけ、前髪の分け目から覗く頭部の傷を優しくさすった。
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