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10 少女と黄色い百日草
しおりを挟む律がベッドの上でスマートフォンを弄っていたところ、メッセージアプリに連絡が入る。
寺田だ。
『体調はどうだ?』
届いたメッセージは、いつもと同じ内容である。
『大丈夫。ありがとう』
対する律も、決まった定型文を返信する。
――連絡、してこなくていいのに……。
今は近しい人と連絡を取るだけでも、胸が抉られるような気持に襲われる。
律はスマートフォンの画面を切り、ぽすんっと後ろに横たわる。
自分はもう、彼の知っている自分ではないのだ。
やる気も努力する心も目標もない。堕ちるところまで堕ちた。薄情な人間だと思って存在を忘れてくれた方が気も楽だ。
「――ちょっと! 痛いじゃないの! この下手くそ!」
突如、隣のベッドから女性の怒声が飛び込んできた。
例の入院患者だ。どうやら看護師の点滴針の刺し方が気に食わなかったらしい。
「申し訳ございません!」
担当の看護師の女性が慌てて謝罪をする。
こういったやり取りは、律が入院してきた当初から、既に日常的に交わされていた。
看護師の粗を見つけては何かにつけて文句を言う女性。昨日の夕方には入浴の順番について文句をつけていた。
律が入院しているこの病棟ではひとりずつしか入浴ができないため、部屋ごとで交代制の入浴となる。
看護師からその日の入浴の時間を昼過ぎに伝えられるのだが、不平のないように平等に順番を回している筈だ。
そういった彼女の不平不満を隣で聞くだけの律でさえ苛立ちを感じる。直接言われる看護師のストレスは計り知れない。余程暇なのか、性格がひねくれているのだろう。
……早く退院してくれないかな。
恐らくそれは自分だけの願いではないだろうと、律は推測する。
思い起こせば、律の入院初日も嫌味を言われた記憶がある。
何故同室に人が来るのだ。私はひとりじゃないとストレスが溜まる。もし悪化してしまったらどう責任を取ってくれるのだ。
そんな言葉を律に聞こえるように看護師にぶつけていたものだから、腹が立つ。
律も体調が悪くなかったら、ひとこと言い返していたことだろう。
思い出しただけでふつふつと怒りが沸き上がる。気分転換に外に出よう。今日もマキが妹のお見舞いに病院に来ているかもしれない。
夏休みの時期だからなのか、マキは結構な頻度で病院に来ている。
今日は何の話をしようか。
律はちょっとした高揚感を抱きながら、体を起こし病室を後にした。
いつもの中庭へと到着する。
先にマキがベンチに座っている日もあるのだが、今日はまだ彼の姿が確認できない。
代わりに、ベンチの正面に位置する花壇に座り込む、幼い少女の姿があった。
少女は膝に両腕を回し、微動だにせずに一点を見つめている。夕方のこの時間に人がいること、ましてはこんなに小さい子がひとりでいることは珍しい。
律は気にせずベンチに向かおうとしたのだが、もしかすると少女の体調が悪化して動けずにいるのではないかと、嫌な不安が脳裏を掠め小走りに少女の元へと向かう。
「どうしたの? 気分悪い?」
少女の傍に駆け付けた律は、中腰になると膝に両手をつき声を掛ける。
少女は見ず知らずの律に対し少しだけ驚いた顔を見せたが、そのまま徐々に表情を曇らせると無言で首を横に振る。
「さくらが植えたお花がね、元気がないの。だいじに水やりをしてたのに、かわいそう」
少女はか細い声でそう呟くと、視線を正面の花へと戻す。
律が少女の視線の先を追うと、そこには黄色の百日草が、弱々しく花を咲かせていた。
その花は他の花たちに比べると首が大きく前に傾いており、今にも茎から折れてしまいそうになっている。皴が目立つ花びらの先端は茶色く色を変え、残された時間の短さを物語っていた。
「お姉ちゃんのお名前は、さくらちゃんっていうのかな?」
律はそっと少女の横にしゃがみ込み、視線の高さを彼女に合わせる。
「うん、さくらだよ」
少女は意気消沈した様子で返事をする。
「さくらちゃん、さくらちゃんが大事に育ててくれたお花はね、頑張って綺麗に咲いて、さくらちゃんにありがとうって思っているよ」
「うん……」
相当大事に育てていたのだろう。さくらという少女は眉尻を下げ肩を落とし、今にも涙が零れるのではないかと思う程の潤んだ瞳をしている。小学校低学年くらいに見える少女だ。悲しいという感情を、あまりにも正直に心の中で処理してしまうのだろう。
「昨日はあんなに元気だったのに、今日は元気じゃないの。さくらも、急にからだがいたくなったりするの。このお花も、急にからだがいたくなったのかな」
――そうか。
彼女はこの花に自分の姿を重ね、大切に育てていたのだ。
尚更それは花の《寿命》だから、という淡白な答えを、どの優しい言葉に置き換えても伝えることはできないと律は判断した。
「さくらも、ずっとびょういんなの。からだもいたいままなの。おねつも出るの。ずっとこのままなのかな。ママにはないしょにしてるけど、ほんとは学校にいきたい。でもさくらもこのお花みたいに、ずっとここでねたり起きたりしかできないのかな」
さくらのストレートな問い掛けに、律は喉の奥がぐっと詰まる。
彼女の辛さは本人にしか分からない。どのような病気を患っているかも分からないため、軽はずみに言葉を選ぶことはできないが、こんなに小さな子どもに明るい未来が待っていない筈がない。どうか希望は捨てずに、病気と闘ってもらいたい。
「さくらちゃん……」
心臓の端がヒヤリと傷む。
しかし律が曇った表情を見せてしまえば、さくらに不必要な不安を与えてしまうことだろう。
律はできるだけ穏やかな笑顔を浮かべ、さくらと向き合う。
「大丈夫だよ。ここでお花を大事に育てたことも、病院での毎日のご飯も、苦いお薬の味も、看護師さんとの会話も、それから、そうだね、カーテンの向こうから聞こえる鳥さんの声とかも、……大きくなったらさくらちゃんの大切な思い出に変わるから。今は辛いかもしれないけど、さくらちゃんは他のお友達はまだ知らない、痛かったり辛かったりすることを知ってるから、その分お友達に優しくできる、可愛い可愛い女の子になれるよ」
なんという稚拙な言葉の羅列なのだろう。
ここぞという時に的確な言葉が出てこない自分に嫌気がさす。この二十数年間、自分は一体何をしてきたのか。こんなに小さな子どもひとりを励ましきることもできないなんて。
ただ、それでもどうか伝わってほしいと、ただそれだけを祈り想いを口にしていた。
「……さくら、可愛くなれるかな。おりこうさんにおくすり飲んだら、学校にいけて、ともだちもできるかな」
少しでも言葉が届いてくれたのか、桜の表情がゆっくりと明るくなり、声にも覇気が戻ってくる。
「できるよ。このお花も、さくらちゃんのことが大好きなお友達だと思ってるよ。ありがとう、頑張れって応援してるよ」
律の言葉にさくらは「えへへ……」と擽ったいように笑い、右手の指先でトン、トン、と二回、優しく花を撫でる。するとそのまま勢いよくスクッと立ち上がった。
「さくら、がんばるね! お花の元気がないことは明日先生にそうだんするね! ありがとう、お姉ちゃん!」
ばいばい、とさくらは元気よく手を振り、病棟へと駆けていく。
律も笑顔で手を振り返す。
さくらの姿が見えなくなると、先程の自分の口から出た言葉を思い返した。
自分も、昔の記憶がいつの間にか思い出となっていたのだろうか。伝わってほしいの一心だったが、あの時自分は、果たして何を伝えたかったのか。
――生きて。
きっとそれだけを伝えたかったに違いない。
なんとも分かりにくい言い回しをしてしまったが、さくらには誰よりも優しく幸せな人生を築いていってほしい。
明るい未来が待っている――。
なんて、今の律には説得力の欠片もないのだが……。
「律、そんなところでぼーっとして、どうしたの?」
思考を巡らせていたところ、急にマキの声が耳に届きハッとする。
気付かぬ内に隣にマキが立っており、律の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
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