甘夏と青年

宮下

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11 ゆっくりと、顔を上げる

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「マキ! さっきまでね、ここで小さな女の子と話をしていたの」

「へえ、この時間に、珍しいね」

 二人は会話を交わしながら近くのベンチへ移動する。

「ずっと入院していて、退院の目途もついてないみたい」

「そうなんだ」

 ベンチに並んで腰掛ける二人。
 律は両腿りょうももに手を添えながら視線を落とす。

「私さ、その子に、頑張るねって言わせちゃったの。無責任だよね」

 自嘲気味な笑みを浮かべる律に、マキは不思議そうな表情で首を傾げる。

「それのどこが無責任なの?」

「だってさ、もうきっと充分に頑張っているじゃん」

 律は腿に添えた両手を、ぎゅっときつく握りしめる。

「苦しい思いをして、それでも健気に笑っているのに、まだあの子を頑張らせないといけないの?」

 さくらが一体何をしたというのだ。こんなに小さな頃から注射の痛みに慣れてしまって、同年代の友達ではなく大人たちに囲まれる日々を過ごして。
 そして、自分のような人間になってしまったら――。


「それは……死ねって言ってるの?」

 マキの不謹慎な言葉が耳に届く。

「そんなことは言ってない!」

 律は怒りを隠すことなく、反射的にマキに怒声を浴びせてしまう。
 しかし、すぐに我に返ると落ち着きを取り戻し、ぽつりぽつりと言葉を落とす。

「ごめん。……ただ、応援とか、励ましとか、それが苦しい時もあるから」

 できるよ、とか、大丈夫、とか。
 相手の何を知ってそんな言葉を吐けるのか。

 ――私の何を知って、そんな言葉で刺せるのか。

「律は卑屈になりすぎだよ」

 穏やかな表情を浮かべ、律に言葉を掛けるマキ。

「その子が頑張ろうって思えたなら、それでいいじゃん」

 そのまま両手を上に逸らし、ぐっと背伸びをする。

「律が、頑張ろうって思えた時に、頑張ればいいよ」

 そしてゆっくりと腕を下ろすと、律に対し笑顔を見せた。

「……私が……」

 自分が、心が動いたとき。

 その単純明快な考えは律の心にストンと落ち、マキの柔らかな表情も受け、じんわりと心が解されていく。
 さくらがこの先どういう人生を歩むのかは分からない。
 ただそれでも今、笑顔で明日のことを考えてくれたのならば、それだけで良かったのかもしれない。
 そもそも自分の言葉が彼女にそれ程までの影響を与えると考えたこと自体が烏滸がましく思えてきた。
 さくらには、これから長い未来がある。
 さくらにとって律との出逢いは人生におけるほんのひとピースで、今日の出逢いがなくとも彼女の人生には恐らく影響はないのだろう。結局は自分が自分で未来(さき)を切り開いていく、のだ。
 ただ、さくらにとって律との出逢いは些細な出来事でも、律にとっては偶然ではない、何か大切なきっかけとなる気がしてならなかった。

「あーあ、あんなに小さな子が頑張っているのに。ほんと、最近の私はひとりで不貞腐れていて恥ずかしくなってきた」

 どこか吹っ切れたような表情で口を開く律。
 すると、律の言葉を聞いたマキが可笑しそうに笑い出す。

「もう拗ねなくていいの?」

 マキはにやりと意地の悪い笑みを浮かべる。

「……長い時間拗ねていてどうも悪かったですね」

 律は不機嫌に見えるように返したつもりであったが、堪えきれずに少しだけ笑いを零してしまった。
 マキを相手に会話をすると、気持ちが若返るような気がする。マキが他の同年代の子たちに比べ大人びていることもあるのだが、自分がマキに対しそれ程までに心を許している自覚もあった。

「……元気な人はここにはいないよ」

 マキが、ぽそりと呟く。

「どうしたの?」

 律はマキの言葉を聞き返す。

「病気だったり怪我だったりがあるから、みんなここにいるんだ。一見笑顔の人でも元気な人はここにはいない。だから無理して自分を騙さなくてもいいと思う」


 珍しく真剣な面持ちで言葉を紡ぐマキ。
 律とぱちりと目が合うと、ふっと儚さと温もりが混在した柔和な笑みを浮かべた。

「……うん。うん、頑張ろう」

 律は数回、小さく頷く。
 具体的に何を頑張るのかは分からない。この先の展望も未だに見えてこない。
ただ、これからも続くであろう未来から目を逸らし、逃げ道を選ぶことだけはもう辞めよう。

「律は頑張っているよ」

 マキは正面を向いたまま、律が予想もしていなかった言葉を投げる。

「何が分かるの」

「何でも分かるよ」

 何の根拠もなく、それにしてはあまりにも優しい表情で言葉を紡ぐマキに、律は何故だか涙が出そうになり、隠すように早めに会話を切り上げ病棟に戻ることにした。

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