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05三学期の憂鬱
返されたシャープペンシル事件03
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「りんご食べる?」
「ありがとうございます」
僕はその日のリハビリが終わって、車椅子で彼女の部屋を訪ねた。そこで早速彼女が差し出してくれたのが、『病室に置いてある果物あるある』1位のりんごだった。2位はバナナかな。
僕は漫画『あしたのジョー』の力石徹のように、ガツガツとりんごを丸かじりした。そんな僕を優しく見つめる桜さんは、何だか日に日に痩せてきているように思えた。最初から青白い顔と細い手足とで、健康そうには見えなかったけど。
「おいしい?」
「はい、おいしいです」
僕はすっかり食べ終えて、芯をゴミ箱に落とした。何となく聞いてみる。
「桜さんはどんな病気なんですか?」
彼女は立てた人差し指を唇に当てて、頬を緩ませた。
「秘密よ」
「何でですか?」
「ドラマや映画に良く出てくるでしょ、『不治の病にかかった主人公』。『不治の病にかかったヒロイン』でもいいかな。たいていの場合、どんな病気なのかは最後まで明かされないんだ。何でだと思う?」
僕は眉間に皺を寄せて考え込んだ。しかし答えは簡単に思えたので、一応述べてみる。
「同じく重い病気にかかっている人に、絶望感を与えたくないから――ですか?」
「当たり」
桜さんは優秀な生徒を褒め称える先生然とした。大きく万歳して伸びをする。
「私、この病気にかかったとき、自分は映画のヒロインなんだ、って思うようにしたんだ。だから病名は秘密」
彼女は急に僕を手招きした。僕はベッドぎりぎりまで車椅子を近づけて、はて何だろうと身を乗り出す。
桜さんは僕の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「こんな美形の男も現れたし、一層悲劇の映画らしくなってきたね――ちょっときみだと幼すぎるけども」
僕はどきどきしながら彼女の瞳を見つめた。その輝きは僕の魂を正確に射抜いていた。
と、そのときだ。
「きゃっ」
彼女がベッドからずり落ちそうになったのだ。慌てて元に戻ろうとして失敗し、その結果さらに体勢がおかしくなる。次の瞬間には、桜さんは僕の胸にしなだれかかっていた。
「あ……」
僕は、人間とはもっと重いものだと思っていた。だがそのとき僕が抱えた彼女の体は、びっくりするほど軽かった。まるで羽毛の詰まった枕を受け止めた感じだったんだ。
彼女は僕の手を借りて、再びベッドに戻った。
「ご、ごめんね」
「いえ……」
僕は心臓の鼓動の高まりを感じていた。生まれて初めて母さん以外の女性と触れた、そのことがかなり衝撃的だったからだ。僕は耳朶の熱さを感じながら、今自分はどんな顔をしているんだろうと気が気でなかったよ。
桜さんは気まずい雰囲気を一掃しようとしたのか、わざとらしく余裕を見せた。
「どう? お姉さんを抱き締めた気分は……。正直に白状しなさいよ、桐木くん。うりうり」
ぎこちなく白い歯をのぞかせる。僕は軽かったとか、痩せていたとか、そんな無粋な言葉を撃ち出すわけにもいかず、結果――
「幸せでした」
そんな意味不明の答えを返した。彼女は目を丸くした。
「へえ、そう」
そして双眸をすがめ、にっこり笑った。
「優しいんだね、桐木くん。私、好きになりそう」
僕は何も返せず――奇行すらできず――、自分の未熟さを呪う次第だった。
さて、その後の話で、どうやら桜さんは2年前から入退院を繰り返しているということが分かった。通っている中学にもなかなか出席できないそうだ。
ある日僕は、桜さんの病室で「たけし軍団に入る方法」をファイルにまとめていた。その頃は松葉杖歩行訓練を終え、T字杖歩行訓練を行なっている最中だった。リハビリも最終段階で、退院日も3日後と決まっていたんだよ。
僕と彼女との別れは、急速に近づいていたんだ。
「私、あさっての卒業式には出るつもりなんだ」
ベッドの足側に腰かけている僕に、桜さんは唐突にそう言った。僕は首を傾げた。
「外へ出て大丈夫なんですか?」
僕は桜さんの病状を心配した。常に青白く、痩せこけている彼女が、外に出かけて問題ないんだろうか。その危惧があったんだ。
そのことを伝えると、桜さんは腕を曲げて力こぶを作ってみせた。
「大丈夫よ。こう見えて私はしぶといんだから」
その力こぶは見るからに細く、頼りなかったけど、僕を安心させる効果があった。
「ただ、ちょっと気になることがあってね……」
彼女は右の手の平をこちらに向けた。筋張った指が震えている。
「このとおり、病気のせいで文字を書くことが難しくなってるの。卒業式といったらクラスメイトとの寄せ書きでしょう? うまく書けるかどうか不安なんだ。一応手帳にボールペンで書いて練習してるんだけど、一向うまくならないのよね」
僕は桜さんの願いを叶えてあげたかった。彼女の悲しい顔を見るのは心底嫌だったんだね。で、勢い込んで言い放った。
「じゃあ、僕の使ってるシャーペンを貸しますよ」
「シャープペンシル? でも、ボールペンとあまり変わらないじゃない」
僕はどんと胸を叩いた。
「ぺんてるの『ERGoNoMix』シャープペンシルなら、かなり書きやすいんです。僕の愛用の品なんですよ」
彼女は興味深そうに目をまたたかせたが、同時に少し気が引けていた。
「いいの? 大事なものなんでしょう?」
「いいんです。ちょっと待っててくださいね」
僕は自分の病室に戻った。この頃には個室ではなく、4人部屋に移っている。他の3人が思い思いに過ごしている中、僕は鞄からシャーペンを取り出し、再び桜さんの部屋を訪れた。問題のシャーペンを見せる。
彼女は受け取って、好奇心たっぷりにしげしげと眺めた。
「変わった形状してるのね」
「ええ。僕の病室には父さんと母さん、妹の愛がときおり見舞いにやってくるんです。勉強の遅れを取り戻してほしいと、父さんから学習道具を渡されてて……。その中にこいつが入っていたんですよ」
桜さんは手帳を取り出し、ページを開いた。ミミズがのたくったような文字があちこちに書かれている。そんな中へ、『ERGoNoMix』のペン先を走らせると、格段に上手な――でも頼りなさげなのは変わらない――文字が描かれた。
彼女は顔をほころばせた。
「これ、いいかも! ……借りちゃっていいのね、桐木君」
「はい。桜さんに使ってほしいんです」
「でも、私の一時退院中に、桐木くんはいなくなっちゃうけど……」
「桜さん、僕が退院してからも病気と戦ってください。そしていつか、元気になって無事に退院したら、このシャーペンを僕に返しにきてください。いつまでも待ってますから……!」
僕の熱心な懇願に、彼女は本当に嬉しそうにほほえんだ。
「うん、分かったわ! ありがとう、桐木くん」
「ありがとうございます」
僕はその日のリハビリが終わって、車椅子で彼女の部屋を訪ねた。そこで早速彼女が差し出してくれたのが、『病室に置いてある果物あるある』1位のりんごだった。2位はバナナかな。
僕は漫画『あしたのジョー』の力石徹のように、ガツガツとりんごを丸かじりした。そんな僕を優しく見つめる桜さんは、何だか日に日に痩せてきているように思えた。最初から青白い顔と細い手足とで、健康そうには見えなかったけど。
「おいしい?」
「はい、おいしいです」
僕はすっかり食べ終えて、芯をゴミ箱に落とした。何となく聞いてみる。
「桜さんはどんな病気なんですか?」
彼女は立てた人差し指を唇に当てて、頬を緩ませた。
「秘密よ」
「何でですか?」
「ドラマや映画に良く出てくるでしょ、『不治の病にかかった主人公』。『不治の病にかかったヒロイン』でもいいかな。たいていの場合、どんな病気なのかは最後まで明かされないんだ。何でだと思う?」
僕は眉間に皺を寄せて考え込んだ。しかし答えは簡単に思えたので、一応述べてみる。
「同じく重い病気にかかっている人に、絶望感を与えたくないから――ですか?」
「当たり」
桜さんは優秀な生徒を褒め称える先生然とした。大きく万歳して伸びをする。
「私、この病気にかかったとき、自分は映画のヒロインなんだ、って思うようにしたんだ。だから病名は秘密」
彼女は急に僕を手招きした。僕はベッドぎりぎりまで車椅子を近づけて、はて何だろうと身を乗り出す。
桜さんは僕の頬に手を伸ばし、そっと触れた。
「こんな美形の男も現れたし、一層悲劇の映画らしくなってきたね――ちょっときみだと幼すぎるけども」
僕はどきどきしながら彼女の瞳を見つめた。その輝きは僕の魂を正確に射抜いていた。
と、そのときだ。
「きゃっ」
彼女がベッドからずり落ちそうになったのだ。慌てて元に戻ろうとして失敗し、その結果さらに体勢がおかしくなる。次の瞬間には、桜さんは僕の胸にしなだれかかっていた。
「あ……」
僕は、人間とはもっと重いものだと思っていた。だがそのとき僕が抱えた彼女の体は、びっくりするほど軽かった。まるで羽毛の詰まった枕を受け止めた感じだったんだ。
彼女は僕の手を借りて、再びベッドに戻った。
「ご、ごめんね」
「いえ……」
僕は心臓の鼓動の高まりを感じていた。生まれて初めて母さん以外の女性と触れた、そのことがかなり衝撃的だったからだ。僕は耳朶の熱さを感じながら、今自分はどんな顔をしているんだろうと気が気でなかったよ。
桜さんは気まずい雰囲気を一掃しようとしたのか、わざとらしく余裕を見せた。
「どう? お姉さんを抱き締めた気分は……。正直に白状しなさいよ、桐木くん。うりうり」
ぎこちなく白い歯をのぞかせる。僕は軽かったとか、痩せていたとか、そんな無粋な言葉を撃ち出すわけにもいかず、結果――
「幸せでした」
そんな意味不明の答えを返した。彼女は目を丸くした。
「へえ、そう」
そして双眸をすがめ、にっこり笑った。
「優しいんだね、桐木くん。私、好きになりそう」
僕は何も返せず――奇行すらできず――、自分の未熟さを呪う次第だった。
さて、その後の話で、どうやら桜さんは2年前から入退院を繰り返しているということが分かった。通っている中学にもなかなか出席できないそうだ。
ある日僕は、桜さんの病室で「たけし軍団に入る方法」をファイルにまとめていた。その頃は松葉杖歩行訓練を終え、T字杖歩行訓練を行なっている最中だった。リハビリも最終段階で、退院日も3日後と決まっていたんだよ。
僕と彼女との別れは、急速に近づいていたんだ。
「私、あさっての卒業式には出るつもりなんだ」
ベッドの足側に腰かけている僕に、桜さんは唐突にそう言った。僕は首を傾げた。
「外へ出て大丈夫なんですか?」
僕は桜さんの病状を心配した。常に青白く、痩せこけている彼女が、外に出かけて問題ないんだろうか。その危惧があったんだ。
そのことを伝えると、桜さんは腕を曲げて力こぶを作ってみせた。
「大丈夫よ。こう見えて私はしぶといんだから」
その力こぶは見るからに細く、頼りなかったけど、僕を安心させる効果があった。
「ただ、ちょっと気になることがあってね……」
彼女は右の手の平をこちらに向けた。筋張った指が震えている。
「このとおり、病気のせいで文字を書くことが難しくなってるの。卒業式といったらクラスメイトとの寄せ書きでしょう? うまく書けるかどうか不安なんだ。一応手帳にボールペンで書いて練習してるんだけど、一向うまくならないのよね」
僕は桜さんの願いを叶えてあげたかった。彼女の悲しい顔を見るのは心底嫌だったんだね。で、勢い込んで言い放った。
「じゃあ、僕の使ってるシャーペンを貸しますよ」
「シャープペンシル? でも、ボールペンとあまり変わらないじゃない」
僕はどんと胸を叩いた。
「ぺんてるの『ERGoNoMix』シャープペンシルなら、かなり書きやすいんです。僕の愛用の品なんですよ」
彼女は興味深そうに目をまたたかせたが、同時に少し気が引けていた。
「いいの? 大事なものなんでしょう?」
「いいんです。ちょっと待っててくださいね」
僕は自分の病室に戻った。この頃には個室ではなく、4人部屋に移っている。他の3人が思い思いに過ごしている中、僕は鞄からシャーペンを取り出し、再び桜さんの部屋を訪れた。問題のシャーペンを見せる。
彼女は受け取って、好奇心たっぷりにしげしげと眺めた。
「変わった形状してるのね」
「ええ。僕の病室には父さんと母さん、妹の愛がときおり見舞いにやってくるんです。勉強の遅れを取り戻してほしいと、父さんから学習道具を渡されてて……。その中にこいつが入っていたんですよ」
桜さんは手帳を取り出し、ページを開いた。ミミズがのたくったような文字があちこちに書かれている。そんな中へ、『ERGoNoMix』のペン先を走らせると、格段に上手な――でも頼りなさげなのは変わらない――文字が描かれた。
彼女は顔をほころばせた。
「これ、いいかも! ……借りちゃっていいのね、桐木君」
「はい。桜さんに使ってほしいんです」
「でも、私の一時退院中に、桐木くんはいなくなっちゃうけど……」
「桜さん、僕が退院してからも病気と戦ってください。そしていつか、元気になって無事に退院したら、このシャーペンを僕に返しにきてください。いつまでも待ってますから……!」
僕の熱心な懇願に、彼女は本当に嬉しそうにほほえんだ。
「うん、分かったわ! ありがとう、桐木くん」
応援ありがとうございます!
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