彼女は小石

よなぷー

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河合留美A01

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 私――河合留美かわい・るみは、自分が小学校高学年の頃から始まった、父の幸信ゆきのぶと母の明日香あすかの間の夫婦喧嘩に毎回おびえていた。

 彼らの大声によるののしり合いが始まると、いつも自分の部屋の片隅に引っ込み、震えながら嵐の通過を待った。

 何でお父さんもお母さんも、仲良くできないんだろう。好き同士で結婚したはずなのに……。怒鳴り声の撃ち合いに両手で耳を塞いだ。ああ、早く終わってほしい――



 両親の罵詈雑言ばりぞうごんの応酬はやむどころか次第にエスカレートしていった。

 私が中学1年になったとき、とうとうお父さんはお母さんに暴力を振るうようになった。お母さんは喧嘩続きの家庭が私の成育に悪影響を与えることをおもんぱかったみたいだった。そしてとうとう私を、北海道の実家に預けることにしたのだ。

 お母さんがたの祖父・河合幸治こうじ、祖母・河合慶子けいこのもと、私は道立中泉なかいずみ中学校へ通うようになった。お母さんからは、電話で「二人の言うことをよく聞いて、よく勉強してね」と口酸っぱく言われた。分かってるって、お母さん。それより、怪我したりしないでね。そう返すと、涙声で「ありがとう」と言われた。

 でも知らない学校、知らない街で、私は一人ぼっちだった。中学で孤独に授業を終えると、優しい祖父母の待つ実家へダッシュで駆け戻るのが常だった。

「ねえおじいちゃん、この本借りるね!」

「ほっほっほ。全く留美は本が好きじゃのう。ええから、書庫にある本は全部借りなさい。好きなだけ読んでいいから」

「ありがとう!」

 本は私を夢中にさせた。波乱万丈な血沸き肉躍る冒険。身の毛がよだち背筋も凍る怪奇。絡み合った複雑な謎の糸を解いていく推理。そして、淡い切ない真心を歌った恋愛。

 私は特に恋愛ものにぞっこんだったなあ。いつか小説のような恋がしたい。痛切にそう願ったものだ。でも、どうやったらできるのだろう? その問題は解答を得られぬままだった。



「好きです」

「え?」

 それは通り雨のように唐突な出来事だった。私が中学2年のときだ。好きでも何でもない、ひょろっとした男子から、学校の帰り道に告白されたのだ。同じクラスで、名前は長谷川薫はせがわ・かおる。雪深い街路を集団下校で歩いているときに不意打ちされた。

 私は気が動転し、目の前で自分を見下ろしてくる両目に釘付けになる。それは優しそうというには、少し感じが悪かった。

「あのさ、俺、こんな頼りない風体ふうていだけど……。でも、全力で河合さんのこと守るからさ。俺と付き合ってよ。好きなんだよ、河合さん」

 熱弁をふるう彼に、私は一歩後退する。怖い。その気持ちが何よりもまず最初に心を占めた。

「で、でも……。そんな急に、言われても……」

 長谷川くんが一歩前進してくる。

「ねえ、駄目かな?」

「わ、私……」

 私はぐっと首をすくめ、視線をらした。

「か、考えさせて!」

 気が付けば、長谷川くんを置いて全速力で逃げ出していた。顔が熱い。呼吸が苦しい。胸が痛い。疲れて立ち止まり、振り返ったとき、そこに彼はいなかった。

 実家に帰るなり、ちゃぶ台に突っ伏す。自分の乱れる息遣い、脈動する心音を五感で聞いた。流れる汗が気持ち悪い。

 男子に告白されるなんて初めてだった。血流が静まらず、頭はがんがんする。好きじゃないんだから断るべきだった。何で断れなかったんだろう。どうして言えなかったんだろう。

 自分が長谷川くんと仲よく腕を組んで歩く姿を想像する。どう思い浮かべても、それは言い知れぬ嫌悪を誘発した。小説のようには上手くいかない現実を、私は目を閉じてひしひしと感じていた。



「あの、ごめんなさい!」

 翌日、私は長谷川くんに断りを入れた。校舎裏で、自分と彼以外、他にひと気はなかった。昼休みのことである。私から彼を呼び出し、連れ立ってここへやってきたのだ。

 寝ずに必死で考えてきた拒否の台詞が、脳味噌からなかなか引っ張り出せない。もどかしい思いで、頭に浮かび上がる言葉を早口でまくし立てた。

「いろいろ考えちゃって……。寝ないで考えて、断ったら悲しむだろうなとか、落ち込んじゃうだろうなとか、思ったりしたんだけど……。でも、私の正直な気持ちを打ち明けないと、かえって失礼なんじゃないかなって、そう結論づいて……」

 しどろもどろだったが、どうにかゴール直前までぎつけた。最後の気力を振り絞って、長谷川くんの目を見ないように頭を下げる。

「私、長谷川くんとは付き合えません。ごめんなさい!」

 やっと言えた。罪悪感が胸を侵食する。さぞや彼はがっかりしていたたまれないだろう。私は何とか助けようと気を使い、その場から一人立ち去ろうとしかけた。

 私の聴覚に予期せぬ一言が浴びせられたのは、その直後だった。

「何だ、つまんねえ女」

「え?」

 長谷川くんは態度をガラリと豹変ひょうへんさせていた。その目は害虫を見下ろすように寒々しく、今まで見たことがないようなふてぶてしさをまとっている。一段低い声で、頼んでもいない解説を始めた。

「クラスの男連中でよ、ジャンケンしたんだよ。負けた奴が罰ゲームで河合に告白するって取り決めでさ。俺にはみんなに結果を報告する必要があるの。せっかく告白してやったってのに、すげなく断りやがって……。みんなにどういえばいいんだよ、このくそが」

 私は居丈高いたけだかな彼に対する恐怖と、聞き捨てならない言葉に、思わず声が震えた。

 罰ゲーム?

「私に告白するのが、罰ゲームって……」

 長谷川くんは獣じみた笑いを浮かべた。

「当たり前だろ? お前みたいな根暗読書野郎、誰が好きになるんだよ! どんな反応するか見てみたかっただけに決まってんじゃん。あーあ、俺笑われちゃうよ。つまんねえの」

 次の瞬間だった。私は自分でも信じられないことに、思い切り彼の左頬を平手打ちしていたのだ。

「いってえ!」

 長谷川くんが負傷箇所を押さえて尻餅をつく。雪の潰れる音がした。

「てめえ……!」

 彼は怒りに満ちた目で自分を見上げている。その目に正対したとき、一時の激情は雲散霧消して、私は屈辱と恐怖と情けなさの三位一体の感情で胸郭きょうかくを満たされた。背を向けると、今度は本当に立ち去った。それも昨日以上の全力で。

『お前みたいな根暗読書野郎、誰が好きになるんだよ』――その言葉が脳裏にこびりついて離れない。私は涙を指で拭った。ひどい。何でそんなこと言われなきゃならないの? それとも私って、そういう存在だったの? 自分でも気がつかないうちに――

 自分のクラスに戻ると、男子たちの奇異の視線が自分に突き刺さるのを感じた。針のむしろの気分で着席し、なかなかおもてを上げられなかった。長谷川くんも戻ってきたのか、声が聞こえたが、男子の爆笑がそれに重なった。

 授業は普通に行なわれ、その日はそのまま下校した。



 その次の日からだった。女子たちが私に対して、陰湿ないじめを始めたのは。

 ふられた長谷川くんが仕返しに、仲のよい女友達たちをけしかけたらしい。いじめっ子のリーダーは気の強いボス猿、新井美夏あらい・みかさんだったけど、長谷川くんとの関係は不明だった。もっともそれは瑣末さまつなことだった。

 筆記用具を隠す。

 弁当の中身をトイレに捨てる。

 体操着にジュースをこぼす。

 机に心ない落書きをする。

 靴に画鋲を仕込む。

 スマホを壊す。
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