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……あれだけ言ったのに、いや――旅の初めに一度忠告したきりだったか。男は息をあげて足を引きずっていた。
いったいいつになったら休憩をとるつもりだろう。俺はいつしたって構わないんだが。まさか野営の時間まで耐えるつもりなのか?
男の荷物を持ってやったって構わない。ここで休憩と言ってやったって構わない。だが俺は言った。「お前が言うまで休憩はとらない」と。
だから俺は足を止めなかった。振り返りもしなかった。ただ、男の息づかいを見失わない程度に歩調を合わせた。道を確認するフリをして何度か地図を広げて立ち止まった。道中出くわした魔物は全て片付けた。この男がいては逃げることができないから。
そんなことを何度か繰り返しているうちにドサリという音が聞こえる。
「ゆ、勇者様……」
男の疲弊しきったか細い声が聞こえる。
「た、助けてください……」
◆◆◆
「なんでもっと早く言わないんだ」
「……」
時間としては少し早いが、男はもう歩けないだろうと見込み野営の準備を済ませた。久し振りに、魔除けの魔方陣も描いてみた。
こんなもの、気休めでしかないが――そんな魔方陣の中で、男はぐったりして横になっていた。
「足を見せてみろ」
「わっ……」
思った通り、筋肉が張っていた。この一般人は、どれほどの運動量で限界を迎えるのだろうか。
俺はこの手の症状を和らげる塗り薬やマッサージには詳しい。ずっとそれで凌いできたクチだ。
「……なんで、もっと早く言わないんだ」
もう一度同じことを尋ねる。
「……」
男はやはり答えなかった。だが、
「勇者様は、やっぱりこういうことに慣れているんですね」と零した。
“こういうこと”とは?
長距離を歩くこと? 魔物を殺すこと? テントを張ること? 魔方陣を描くこと? 無理をした者の介抱?
俺が黙って処置を続けていると、男は続けた。
「お手を煩わせてすみません。俺もこういうことは得意なんですけど、やっぱり勇者様の方が手際が良いですね」
“こういうこと”とは、介抱のことだったのかもしれない。
「筋肉に無理をさせるな。お前は良くても、裂ける可能性がある。そうなればもう、ひどいことになる」
「……」
男はまた黙り込んだ。それから、バツが悪そうに
「すみません。無理を……しました」と零す。
「明日は……もう少し早めに言います」
「この足で明日も歩けるとは思えないが」
「いいえ」
男は小さくふふっと笑うと力なく言った。
「歩けますよ」
諦めか自嘲か――その目は、俺にもどこか覚えのあるような気がした。
そういえば、すっかり忘れていたがこの男は瀕死の俺を介抱したのだった。
それを思い出したのは夕食を済ませ、明日に備えて早めに寝ようとしていたときだった。
男の家には当然寝袋のようなものは無かったので俺のものを貸した。男は遠慮したが、俺はもう既に毎日寝ずとも問題ない身体をしている。
それを告げると、男は渋々といった感じで承諾した。
俺は食事を抜くことに関しても常人より耐えうるだろう。限界については正直「試したことがないのでわからない」が。
一人で旅していると色々と無頓着になるので、食事や睡眠は2日に1回だったりする。俺が疎かにしているだけだから、勿論1日3食食べて1日5時間以上寝るとすこぶる体調が良い。
身体はただ、無理をできるようになっていく。
それはそれとして、この男の話だ。
これは本人に聞く他あるまい。だけど今晩聞いていいものか、少し考えた。
男は今、疲労状態にある。心身共に休息が必要なはず。
そうだ、うん。明日聞こう。
そう決めるととりあえず目をつむり息を整え、「お前ももう寝ていいぞ」という信号を出す。
すると程なくして「お休みなさい」という声と、もぞもぞと寝袋に収まる音が聞こえる。
俺は当然眠らないのだが、俺が起きたままではそのままやすやと安眠できる人間は余程図太いし――俺はそういう人間も嫌いではないが、少なくともこの男にそういう気は感じられなかった。
こういう夜は考え事をして過ごす。長らく仲間は居なかったが、それでも戦えない者の護衛などをしなければならないときはあった。なのでこういう感じの夜もごくたまにあった。
俺は基本的に他人がいる場では安心して眠ることができない。どうしても必要なときはやむなしとして休むが、一人で寝ていた方が落ち着くし回復の効率も跳ね上がる。仲間が居たときも、宿は別室を取っていた。
男は、足が痛むのか頻繁に衣擦れの音と苦しそうな呼吸を漏らしていた。
◆◆◆
数刻して夜も更けた頃、忍ぶようなゴソゴソという音が聞こえてくる。
そして、男がテントから出て行く。それも、こっそりと音を殺しながら。
俺はそっと耳をそばだてる。男が慎重な足取りでテントと俺から遠ざかる。足が痛むのかそれを庇うような歩き方だ。……用を足しに行くのだろうか?
すると程なくして、男の息がやや荒くなる。
「は――っ……は――ーっ……」
かみ殺すように細い吐息。衣服を脱ぐような衣擦れの音。
「ぐっ、……ぅ、は、は…ぁ、ぁっ……」
これはもしや……自慰か?
「ん、んっ……く、ぅ、ぁ……あ、ふ……」
悩ましい喘ぎ声。声を抑えているが、同時に声を漏らすことで別のなにかを抑えているようにも感じさせる鳴き方だ。
言ってしまえば、苦しそうだった。
ぼんやりとそんなことを考えていると、その声がピークを迎えようとしていた。
「あっ…あ゛、ん゛っ…ん、ふ……っ、はぁ……はぁ……。
ぐ、ぅ、あ゛、あっ! ……んっあ゛っ! はぁ、ぁ…! んっ……」
ヒュッ、と、音がした。空を切る音だろうか。
何かを裂くような音も続く。
「はぁ……はぁ……。ぁ……んっ……はぁ……」
それからはただ酸素を求めるように、内側の熱を逃がすかのように大きく深呼吸を繰り返す。
「はぁ――――っ……はぁ――ーっ……。ふ、んぐ……」
男はたまに苦しそうに吐息を漏らした。
これは……いや、恐らく自慰だけど、自慰だったとして、不可解な点が一つある。――音だ。
あの性器を刺激すると出る水音や、性器を繰り返し擦るような身体の動きが聞こえてこない。
「はぁ……はぁ、は……ぁ、はぁ……。ん、ん……」
じゃああのような声を上げて、いったいなにをしている?
声が聞こえると言っても、聞かされているわけではない。いくら夜の森といっても、虫の声は絶えず響いている。
この声は俺が“聴いている”のだ。だが、このように一人耽っているところを盗み聴くのは、なんとも言えない罪悪感があった。
それでも盗み聞きをやめなかったのは、男のしていることに疑問が残ってしまったから。
……何をしているんだ?
より一層意識を集中する。
「はぁ……はぁ……ふぅ……ん……、っ……はぁ……」
どう考えても性的なことをしているものにしか聞こえない。聞こえないんだが。
いやほら、よく考えろ。喘ぎ声って、なにもエロいことをしたときのものだけじゃない。
例えば、苦痛を感じたときとかにも。
「んっ……ん、はぁ、くっ……!」
そのとき。
グチュリ。
クチュ、チュッ……ピチャ、クチュ……。
待ち望んでいたか、はたまた聴きたくなかったか、正直よくわからない。
よくわからないが、なんとなく馴染みのある音が響いた。
……いや、響いたというのは語弊があるか。ともかく、水音だ。
「ふーっ、ふっ……、あ゛、ん゛、ぐ、あ゛、あ、ぁ、っ!」
声も段々と荒くなっていく。これは間違いなく、アレしているときのソレじゃなかろうか。
最初は何をしているのかわからなくて不気味でしかなかったが、何をしているかわかってしまえば急にいやらしく感じるものだ。
このまま2発目を迎えてしまうのかと思ったそのとき、
チュ、チュ……チュク、チュ……
「ん゛、んッ……ふ、はぁ……っはぁ、はぁ……」
てっきり加速していくのかと思ったそれは、緩やかに減速していった。
どうしたんだ?
「はぁ……はぁ……、は、はっ、はっ……はぁ……はぁ……」
これは……躊躇いか?
「…………ふぅ、ふ……ん、はぁ……はぁ……」
その後、再び水音が聴こえることはなく、長い間かみ殺すような浅い呼吸を繰り返した後、男はなにか土をザクザクしてから川へ向かった。そこで念入りに身体を洗い、道中服を着て、少し時間が経ってからテントに戻っていったのである。
俺はこれらを目視したのではなく、あくまで遠くから、必要とあれば距離を詰めながら聴き分けた。
男が致した跡は、なんとなく見に行かなかった。
……なんだか人として踏み越えてはいけない壁を感じる気がするのだ。
端的に言えばその事実を目の当たりにするのが怖かった。その残り香を嗅ぐのが怖かった。不明瞭な点は、残っているのだが。
他人の自慰を盗み聴くのは初めてではない。とは言っても別に好き好んで聴いているわけではない。
他人の動向が気になって聞き耳を立ててしまうだけだ。加えて、皆が寝静まる夜中にそっと行われることに多いのが、自慰なだけだ。
俺にもちゃんと性欲や性の衝動はある。だが、他人の自慰を盗み聴いて興奮する趣味は無かった。むしろちょっと引いてしまう。
いつもなら自慰だとわかれば意識を逸らし聴くのをやめるのだが、今回はまさにその“不可解な点”が気になってつい聞き入ってしまった。
途中から思考放棄してしまったが、考えれば考えるほど謎だった。
そういえば、テントに戻る男の足音は、足を庇っていなかったように思える。
その後、男は呻く様子もなく寝入ったようだった。
◆◆◆
あれから俺は考えても不毛だと、暇だったのでうたた寝をすることにして――朝だ。
ガラリと大きめの音を立ててテントを開けた。男はまだ寝ている。しばらく眺めていたら、男は朝日が差し込んできて眩しかったのか眼を覚ます。
「あ……んー、おは、ようござ……」
まだ眠そうだ。
俺は返事もせずにテントを閉じると、そのままモゾモゾとテントを這う音が聞こえてきた後、男が出てくる。
「おはようございます……」
「ああ」
「飯、作りますね……」
律儀なもんだが、俺は食わずともやっていけるので当然と言えば当然だった。朝食を欲しているのは間違いなく男の方なのだから。
「いや、その前に足を見せろ」
「え」
鍋やら火やらを探していた男の足をグイと掴んで軽く押せば寝起きの身体は抵抗することなくコテンと倒れる。
そのまま足を揉み込む。……筋の張りが消えている。男の足は一晩で治っていた。
「おい、痛みは」
「……んー、ん……」
男はまだ寝ぼけているようでにゃむにゃむと間の抜けたテンポで首を横に振る。
なにをしたらこんなことになるのか聞きたいところだが、こんな状態では碌な答えが返ってこないだろう。俺はひとまず男が覚醒するのを待つことにした。
それから適当に投げ出してみたら、男は寝ぼけた様子のまま着々と朝食の準備を始めていった。
馴染みの無い道具のはずなのに、半覚醒状態でよくもああつつがなくできるもんだ。
軽い朝食ができるころには、男もすっかり目が覚めてきたようだ。
「勇者様は、コーヒーどれくらいが好き?」
人なつっこい笑顔で仕上げのコーヒーに取りかかっている。俺は、一切手を貸さずに眺めていたのだが、手際が良い。
「なんでもいい」
「じゃあ俺のと同じ感じでやりますね」
しっかり二人分用意された朝食を囲み、俺は改めて男に尋ねた。
「足はもう大丈夫なのか?」
「ん?」
男は一瞬ポカンとして、自身の足を触ってから「はい」と言って立ったりしゃがんだりして見せた。
俺はそのことについて掘り下げていいのか大分悩んだ。心当たりが無いわけではない。
こいつは瀕死状態の俺をキレイに治したのだ。元々俺に備わっている代謝能力を持ってしても大した力だ。回復魔法が使えると見て間違いない。
薬のたぐいであれば傷痕が残るはずだし、もっと時間がかかるはずだ。
ただ、旅をしていない、村町に住む一般人が回復魔法を使えるというのは色々とデリケートなもので、もしかしたら、町でのわだかまりはその力のせいかもしれない。男も心なしかこの話題を避けているようだった。
別に、この男の心を傷つけようが俺には関係ないのだが。だけど、わざわざ踏み荒らす理由こそなかった。
「……」
どちらともなく沈黙が訪れる。俺は気にせず朝食を平らげると、なにも言わずに皿を返した。
「あ! あの、どうでした?」
男がおずおずと聞いてくる。……どう、とは?
俺は思わず首をかしげた。
「いや、えっと……。味の加減はどうでしたか? 勇者様の好みが知りたいです」
俺は思わず考え込んだ。
……味の? 好み?
俺は食う物が無ければ木の根を囓ったし泥水だって啜ってみせた。だが、それ以外は特に……。
「消化できるものならなんでも構わない」
そう言うと、男は一瞬呆けたのちに落ち込んだようにシュンとして、
「俺は、ハムとレタスのサンドイッチが好きです。コーヒーは、砂糖とミルクが入っているものが好きです。……でもミルクは、入ってなくても一応飲めます」
そう呟くのだった。
男の所作からこれはきっとただの自己紹介ではないと、言外になにか言いたいのだということは伝わったが、その真意はわからなかった。
いったいいつになったら休憩をとるつもりだろう。俺はいつしたって構わないんだが。まさか野営の時間まで耐えるつもりなのか?
男の荷物を持ってやったって構わない。ここで休憩と言ってやったって構わない。だが俺は言った。「お前が言うまで休憩はとらない」と。
だから俺は足を止めなかった。振り返りもしなかった。ただ、男の息づかいを見失わない程度に歩調を合わせた。道を確認するフリをして何度か地図を広げて立ち止まった。道中出くわした魔物は全て片付けた。この男がいては逃げることができないから。
そんなことを何度か繰り返しているうちにドサリという音が聞こえる。
「ゆ、勇者様……」
男の疲弊しきったか細い声が聞こえる。
「た、助けてください……」
◆◆◆
「なんでもっと早く言わないんだ」
「……」
時間としては少し早いが、男はもう歩けないだろうと見込み野営の準備を済ませた。久し振りに、魔除けの魔方陣も描いてみた。
こんなもの、気休めでしかないが――そんな魔方陣の中で、男はぐったりして横になっていた。
「足を見せてみろ」
「わっ……」
思った通り、筋肉が張っていた。この一般人は、どれほどの運動量で限界を迎えるのだろうか。
俺はこの手の症状を和らげる塗り薬やマッサージには詳しい。ずっとそれで凌いできたクチだ。
「……なんで、もっと早く言わないんだ」
もう一度同じことを尋ねる。
「……」
男はやはり答えなかった。だが、
「勇者様は、やっぱりこういうことに慣れているんですね」と零した。
“こういうこと”とは?
長距離を歩くこと? 魔物を殺すこと? テントを張ること? 魔方陣を描くこと? 無理をした者の介抱?
俺が黙って処置を続けていると、男は続けた。
「お手を煩わせてすみません。俺もこういうことは得意なんですけど、やっぱり勇者様の方が手際が良いですね」
“こういうこと”とは、介抱のことだったのかもしれない。
「筋肉に無理をさせるな。お前は良くても、裂ける可能性がある。そうなればもう、ひどいことになる」
「……」
男はまた黙り込んだ。それから、バツが悪そうに
「すみません。無理を……しました」と零す。
「明日は……もう少し早めに言います」
「この足で明日も歩けるとは思えないが」
「いいえ」
男は小さくふふっと笑うと力なく言った。
「歩けますよ」
諦めか自嘲か――その目は、俺にもどこか覚えのあるような気がした。
そういえば、すっかり忘れていたがこの男は瀕死の俺を介抱したのだった。
それを思い出したのは夕食を済ませ、明日に備えて早めに寝ようとしていたときだった。
男の家には当然寝袋のようなものは無かったので俺のものを貸した。男は遠慮したが、俺はもう既に毎日寝ずとも問題ない身体をしている。
それを告げると、男は渋々といった感じで承諾した。
俺は食事を抜くことに関しても常人より耐えうるだろう。限界については正直「試したことがないのでわからない」が。
一人で旅していると色々と無頓着になるので、食事や睡眠は2日に1回だったりする。俺が疎かにしているだけだから、勿論1日3食食べて1日5時間以上寝るとすこぶる体調が良い。
身体はただ、無理をできるようになっていく。
それはそれとして、この男の話だ。
これは本人に聞く他あるまい。だけど今晩聞いていいものか、少し考えた。
男は今、疲労状態にある。心身共に休息が必要なはず。
そうだ、うん。明日聞こう。
そう決めるととりあえず目をつむり息を整え、「お前ももう寝ていいぞ」という信号を出す。
すると程なくして「お休みなさい」という声と、もぞもぞと寝袋に収まる音が聞こえる。
俺は当然眠らないのだが、俺が起きたままではそのままやすやと安眠できる人間は余程図太いし――俺はそういう人間も嫌いではないが、少なくともこの男にそういう気は感じられなかった。
こういう夜は考え事をして過ごす。長らく仲間は居なかったが、それでも戦えない者の護衛などをしなければならないときはあった。なのでこういう感じの夜もごくたまにあった。
俺は基本的に他人がいる場では安心して眠ることができない。どうしても必要なときはやむなしとして休むが、一人で寝ていた方が落ち着くし回復の効率も跳ね上がる。仲間が居たときも、宿は別室を取っていた。
男は、足が痛むのか頻繁に衣擦れの音と苦しそうな呼吸を漏らしていた。
◆◆◆
数刻して夜も更けた頃、忍ぶようなゴソゴソという音が聞こえてくる。
そして、男がテントから出て行く。それも、こっそりと音を殺しながら。
俺はそっと耳をそばだてる。男が慎重な足取りでテントと俺から遠ざかる。足が痛むのかそれを庇うような歩き方だ。……用を足しに行くのだろうか?
すると程なくして、男の息がやや荒くなる。
「は――っ……は――ーっ……」
かみ殺すように細い吐息。衣服を脱ぐような衣擦れの音。
「ぐっ、……ぅ、は、は…ぁ、ぁっ……」
これはもしや……自慰か?
「ん、んっ……く、ぅ、ぁ……あ、ふ……」
悩ましい喘ぎ声。声を抑えているが、同時に声を漏らすことで別のなにかを抑えているようにも感じさせる鳴き方だ。
言ってしまえば、苦しそうだった。
ぼんやりとそんなことを考えていると、その声がピークを迎えようとしていた。
「あっ…あ゛、ん゛っ…ん、ふ……っ、はぁ……はぁ……。
ぐ、ぅ、あ゛、あっ! ……んっあ゛っ! はぁ、ぁ…! んっ……」
ヒュッ、と、音がした。空を切る音だろうか。
何かを裂くような音も続く。
「はぁ……はぁ……。ぁ……んっ……はぁ……」
それからはただ酸素を求めるように、内側の熱を逃がすかのように大きく深呼吸を繰り返す。
「はぁ――――っ……はぁ――ーっ……。ふ、んぐ……」
男はたまに苦しそうに吐息を漏らした。
これは……いや、恐らく自慰だけど、自慰だったとして、不可解な点が一つある。――音だ。
あの性器を刺激すると出る水音や、性器を繰り返し擦るような身体の動きが聞こえてこない。
「はぁ……はぁ、は……ぁ、はぁ……。ん、ん……」
じゃああのような声を上げて、いったいなにをしている?
声が聞こえると言っても、聞かされているわけではない。いくら夜の森といっても、虫の声は絶えず響いている。
この声は俺が“聴いている”のだ。だが、このように一人耽っているところを盗み聴くのは、なんとも言えない罪悪感があった。
それでも盗み聞きをやめなかったのは、男のしていることに疑問が残ってしまったから。
……何をしているんだ?
より一層意識を集中する。
「はぁ……はぁ……ふぅ……ん……、っ……はぁ……」
どう考えても性的なことをしているものにしか聞こえない。聞こえないんだが。
いやほら、よく考えろ。喘ぎ声って、なにもエロいことをしたときのものだけじゃない。
例えば、苦痛を感じたときとかにも。
「んっ……ん、はぁ、くっ……!」
そのとき。
グチュリ。
クチュ、チュッ……ピチャ、クチュ……。
待ち望んでいたか、はたまた聴きたくなかったか、正直よくわからない。
よくわからないが、なんとなく馴染みのある音が響いた。
……いや、響いたというのは語弊があるか。ともかく、水音だ。
「ふーっ、ふっ……、あ゛、ん゛、ぐ、あ゛、あ、ぁ、っ!」
声も段々と荒くなっていく。これは間違いなく、アレしているときのソレじゃなかろうか。
最初は何をしているのかわからなくて不気味でしかなかったが、何をしているかわかってしまえば急にいやらしく感じるものだ。
このまま2発目を迎えてしまうのかと思ったそのとき、
チュ、チュ……チュク、チュ……
「ん゛、んッ……ふ、はぁ……っはぁ、はぁ……」
てっきり加速していくのかと思ったそれは、緩やかに減速していった。
どうしたんだ?
「はぁ……はぁ……、は、はっ、はっ……はぁ……はぁ……」
これは……躊躇いか?
「…………ふぅ、ふ……ん、はぁ……はぁ……」
その後、再び水音が聴こえることはなく、長い間かみ殺すような浅い呼吸を繰り返した後、男はなにか土をザクザクしてから川へ向かった。そこで念入りに身体を洗い、道中服を着て、少し時間が経ってからテントに戻っていったのである。
俺はこれらを目視したのではなく、あくまで遠くから、必要とあれば距離を詰めながら聴き分けた。
男が致した跡は、なんとなく見に行かなかった。
……なんだか人として踏み越えてはいけない壁を感じる気がするのだ。
端的に言えばその事実を目の当たりにするのが怖かった。その残り香を嗅ぐのが怖かった。不明瞭な点は、残っているのだが。
他人の自慰を盗み聴くのは初めてではない。とは言っても別に好き好んで聴いているわけではない。
他人の動向が気になって聞き耳を立ててしまうだけだ。加えて、皆が寝静まる夜中にそっと行われることに多いのが、自慰なだけだ。
俺にもちゃんと性欲や性の衝動はある。だが、他人の自慰を盗み聴いて興奮する趣味は無かった。むしろちょっと引いてしまう。
いつもなら自慰だとわかれば意識を逸らし聴くのをやめるのだが、今回はまさにその“不可解な点”が気になってつい聞き入ってしまった。
途中から思考放棄してしまったが、考えれば考えるほど謎だった。
そういえば、テントに戻る男の足音は、足を庇っていなかったように思える。
その後、男は呻く様子もなく寝入ったようだった。
◆◆◆
あれから俺は考えても不毛だと、暇だったのでうたた寝をすることにして――朝だ。
ガラリと大きめの音を立ててテントを開けた。男はまだ寝ている。しばらく眺めていたら、男は朝日が差し込んできて眩しかったのか眼を覚ます。
「あ……んー、おは、ようござ……」
まだ眠そうだ。
俺は返事もせずにテントを閉じると、そのままモゾモゾとテントを這う音が聞こえてきた後、男が出てくる。
「おはようございます……」
「ああ」
「飯、作りますね……」
律儀なもんだが、俺は食わずともやっていけるので当然と言えば当然だった。朝食を欲しているのは間違いなく男の方なのだから。
「いや、その前に足を見せろ」
「え」
鍋やら火やらを探していた男の足をグイと掴んで軽く押せば寝起きの身体は抵抗することなくコテンと倒れる。
そのまま足を揉み込む。……筋の張りが消えている。男の足は一晩で治っていた。
「おい、痛みは」
「……んー、ん……」
男はまだ寝ぼけているようでにゃむにゃむと間の抜けたテンポで首を横に振る。
なにをしたらこんなことになるのか聞きたいところだが、こんな状態では碌な答えが返ってこないだろう。俺はひとまず男が覚醒するのを待つことにした。
それから適当に投げ出してみたら、男は寝ぼけた様子のまま着々と朝食の準備を始めていった。
馴染みの無い道具のはずなのに、半覚醒状態でよくもああつつがなくできるもんだ。
軽い朝食ができるころには、男もすっかり目が覚めてきたようだ。
「勇者様は、コーヒーどれくらいが好き?」
人なつっこい笑顔で仕上げのコーヒーに取りかかっている。俺は、一切手を貸さずに眺めていたのだが、手際が良い。
「なんでもいい」
「じゃあ俺のと同じ感じでやりますね」
しっかり二人分用意された朝食を囲み、俺は改めて男に尋ねた。
「足はもう大丈夫なのか?」
「ん?」
男は一瞬ポカンとして、自身の足を触ってから「はい」と言って立ったりしゃがんだりして見せた。
俺はそのことについて掘り下げていいのか大分悩んだ。心当たりが無いわけではない。
こいつは瀕死状態の俺をキレイに治したのだ。元々俺に備わっている代謝能力を持ってしても大した力だ。回復魔法が使えると見て間違いない。
薬のたぐいであれば傷痕が残るはずだし、もっと時間がかかるはずだ。
ただ、旅をしていない、村町に住む一般人が回復魔法を使えるというのは色々とデリケートなもので、もしかしたら、町でのわだかまりはその力のせいかもしれない。男も心なしかこの話題を避けているようだった。
別に、この男の心を傷つけようが俺には関係ないのだが。だけど、わざわざ踏み荒らす理由こそなかった。
「……」
どちらともなく沈黙が訪れる。俺は気にせず朝食を平らげると、なにも言わずに皿を返した。
「あ! あの、どうでした?」
男がおずおずと聞いてくる。……どう、とは?
俺は思わず首をかしげた。
「いや、えっと……。味の加減はどうでしたか? 勇者様の好みが知りたいです」
俺は思わず考え込んだ。
……味の? 好み?
俺は食う物が無ければ木の根を囓ったし泥水だって啜ってみせた。だが、それ以外は特に……。
「消化できるものならなんでも構わない」
そう言うと、男は一瞬呆けたのちに落ち込んだようにシュンとして、
「俺は、ハムとレタスのサンドイッチが好きです。コーヒーは、砂糖とミルクが入っているものが好きです。……でもミルクは、入ってなくても一応飲めます」
そう呟くのだった。
男の所作からこれはきっとただの自己紹介ではないと、言外になにか言いたいのだということは伝わったが、その真意はわからなかった。
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