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安らかに眠れ、恐ろしくも美しい緋色の龍よ

帰還(終)

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 ドラキス王国、王宮。
 現国王レイバックが、王座から姿を消して早5か月と20日。新王の即位を10日後に控えたその日、王宮に最高の報せが舞い込んだ。その日は偶然にも週に1度の公休日で、王宮内に人の姿は少ない。侍女や官吏は自宅で思い思いの時を過ごしている頃であるし、十二種族長の半数も私用で街に下りている。王宮内に滞在する者と言えば十二種族長の残り半数と、そして休日の調理や掃除を担当する数人の侍女だけ。そんな閑散とした王宮内であるにも関わらず、報せは疾風のように駆け巡った。
 
 執務室で報せを受けたメリオンは、上着を羽織ることも忘れ王宮内を駆ける。途中で同じく廊下を駆けるザトと合流し、互いに何も言わないままただただ駆ける。そうして息を切らして辿り着いた先は、王宮の中央部に位置する玄関口。いまはぴったりと閉じられたその扉を、メリオンは厳かな気持ちで押し開く。

「王」

 大きく開け放たれた扉の向こうには、ずっと待ち望んだ人が立っていた。天地無用に跳ね回る緋色の髪に、同じ色合いの緋色の瞳。日に焼けた頬、よく鍛えられた体躯。生きて帰ることを願い続けた、ドラキス王国の現国王レイバックその人だ。レイバックの隣にはゼータがいて、2人の後ろには2頭の騎獣が佇んでいる。ゼータが王宮から連れ出したグラニと、もう1匹は見たことのない騎獣だ。赤銅色の瞳を持つ、神々しくも美しい騎獣。
 レイバックはメリオンとザトを見留めると、懐かしい声で笑う。

「メリオン、代理王としてよくやってくれていたようだな。ザトも、俺のいない間よく国を支えてくれた。心から礼を言う」

 幻ではない、幻聴ではない。メリオンとザトは一瞬顔を見合わせ、それから示し合わせたように深く頭を下げた。

「王、お帰りをお待ちしておりました。ずっとずっと、心より、お待ち申しておりました」

 そう伝えるメリオンの声は震えている。レイバックが行方不明になったと聞いてから5か月と20日。どのような思いで日々を過ごしたことか。どうか生きていてくれ、どうか生きて帰ってくれ。膨大な執務に忙殺されながら、暇を見つけてはそう願った。
 礼から復帰したメリオンとザトは、レイバックの元へと歩み寄る。2人が自然と視線を送る先は、ひらひらと風に舞い上がる衣服の袖。そこに腕があれば、まずあり得ない光景だ。ザトは顔には悲痛の色が浮かぶ。

「腕を失くされたのですね。苔色のドラゴンの仕業ですか?」
「そうだ。ドラゴンの姿で戦ううちに、左翼を食い千切られたんだ。片翼では飛べんし、刀を使えなければ山も下れない。ゼータが迎えに来てくれなければ、あのまま仙人になるところだ」
「ということは、山に墜ちたのですか」
「山だな。遥か東の方向にある美しい山だ。『精霊の里』と呼ばれる土地があって、その土地の者達に世話になった。もう2度と会うこともないだろうが」

 レイバックは遠い東の空を見やる。いくら目を凝らしても、そこに美しい山脈は臨めない。青々とした空にいくつもの綿雲が浮かんでいるだけ。命を繋いでくれた精霊の里、恐ろしくも美しい緋龍が眠る土地。もうその場所に帰ることはない。
 過去を手繰るレイバックの耳に、すっかりいつも通りとなったメリオンの声が届く。

「腕の件は魔法管理部に相談致しましょう。私の記憶が正しければ、欠損部位の回復を得手とする妖精族がいたはずです。魔法管理部で情報を管理しているはずでございますから」
「頼む。が、あまり急がなくても良いぞ。書類にサインを入れるくらいなら、右手があれば事足りる」
「そうはいきません。王は我が国の守り神ですから。早急に両翼を揃えてもらわねば」

 はっきりとした口調でそう言い切ると、メリオンはシャツの胸ポケットから手のひら大の名札を取り出した。表面を滑らかに削り上げられた木製の名札には、可愛らしい丸文字で「代理王兼吸血族長メリオン」と書かれている。その木札は妖精族長であるシルフィーと、小人族長であるウェールの合作だ。急な役職の変更に官吏が混乱しないようにとの配慮の元、役職変更が生じた十二種族長には名札の着用が義務付けられていたのである。今日は公休日であるから、本来であれば名札の着用義務はない。けれどもこの数か月の間にすっかり身に着けることが当たり前になってしまった名札は、例え公務時間外であったとしてもいつもシャツの胸ポケットに入っていた。公休日である今日も。

 メリオンは使い慣れた名札を右手のひらにのせる。そのまま右腕を身体の前に差し出し、魔法を発動する。木製の名札は一瞬にして燃え上がり、七色の光の粒となって青空へと昇っていく。王の帰還を祝うように、きらきらと宝石のように輝きながら。

***

 青空に昇る七色の光を、ゼータは少し離れたところから眺めていた。一国の主が帰還したというのに、場に人の姿は少ない。真っ先に駆け付けたメリオンとザトと、それから数人の侍女だけだ。しかしそれも仕方のないことだとは思う。今日は週に1度の公休日。官吏と侍女は王宮に滞在していないし、十二種族長の中にも王宮を離れている者は多いだろう。それでもきっと、報せは疾風のように巡る。先ほど1人の侍女が白の街の方へと駆けて行ったのは、そこに住まう者たちに王の帰還を知らせるためだ。
 きっと今夜はお祭り騒ぎだ。明日は仕事の日だとか、溜め込んだ雑務がたくさんあるだとか、そんなことはもうどうでも良い。皆が集い、歌い、笑い、待ち望んだ王の帰還を祝う。長旅の疲れなど吹き飛んでしまうだろう。

 今夜は数か月ぶりに美味い酒が飲めそうだ。呑気に考えるゼータの傍らに、赤銅色の影が歩み寄る。いつの間には麒麟から人の姿となったリジンだ。リジンはレイバックの周りに集う人の輪を眺め、それからぽつんと一人ぼっちのゼータを見る。

「あんた、さっきから蚊帳の外じゃないか」
「良いんですよ。レイがいなくて、皆本当に大変だったんです。私みたいなお飾り者とは訳が違いますからね」

 ゼータはからからと声を立てて笑う。強がりではない、蚊帳の外であることなど本当にどうでも良いのだ。王のいない国を支えることがどれほど大変であったか。守り神を失くした大地を守ることにどれほどの苦労があったか。王の留守を守り続けた人々の苦労を思えば、皆がレイバックの周りに集まるのは当然だ。

「それでも、あんただって頑張ったんだろう。皆の方に行けば良いじゃないか」
「本当に良いんですってば。私は元々、国政にはあまり関係のない立場なんです。何だか難しい話が始まっていますし、仲間入りしたところで結局蚊帳の外ですよ。それに今は、こうしてレイのことを遠くから眺めていたい気分なんです」

 ゼータが見つめる先では、レイバック、ザト、メリオンの3人が真剣な顔で額を突き合わせている。「即位式の中止」「各所への文は全て回収」などという単語が飛び交っているから、今が真面目な議論の最中であることは明らかだ。あの輪の中にゼータが突っ込んでいったところで、ただの置物になることは目に見えている。それならば少し離れた場所から、こうして皆の姿を眺めている方が余程有意義だ。
 多分、ザトは後程ゼータに山ほどの酒をくれるだろう。メリオンも、ぶっきらぼうながらもゼータの苦労をねぎらってくれるはず。それで十分だ。

 議論の様子を眺めながらにこにことご機嫌なゼータ。対照的に、議論に耳を澄ませるリジンは段々と不可解な面持ちになっていく。

「あー…一つ訊きたいんだが、な。周りの者がレイさんのことを『オウ』と呼んでいる。あれはその、何だ。あだ名か?」
「あだ名というか…敬称?」
「…『オウ』が敬称?」
「そうそう。王様なんですよ。『レイ』は私が勝手に呼んでいるだけで、本当の名前はレイバックです。ドラキス王国国王レイバック」

 ゼータがそう言い切った瞬間のリジンの顔といえば。まるで背中に氷水を浴びせかけられたようである。おいあんた、そういう大事なことは初めに言えよ。絶対零度の視線がゼータの横顔に突き刺さる。

「ゼータ!」

 懐かしい声とともに、玄関口の扉が開いた。猪突の勢いで玄関口をくぐり抜けたその人は、転がるように数段の階段を駆け下りて、疾風はやてのようにゼータの元へと駆けてくる。数か月ぶりに見る友の顔に、ゼータの表情は綻ぶ。

「クリス、ただいま帰りました。おすそ分けいただいた幸運のお陰で、こうして怪我一つなく」
「ああー…もう。本当に無事でよかった。毎晩毎晩、夢に見るくらい心配したんだから」
「本当ですか?私も時々見ましたよ、クリスの夢」
「僕がゼータの夢に登場したの?それ、どんな夢?」
「一緒に本の海で泳いでいるんです。私は浮き輪を着けているんですけれど、クリスは何も持っていなくて、大量の本の海にずぶずぶと飲み込まれて…」
「何その不吉な夢」

 クリスは不満げである。再会の会話もそこそこに、クリスの視線はリジンへと向く。

「それでゼータ、そちらの男性は?」
「リジンです。遠いハクジャの地から、私たちを送り届けてくれたんです」

 今玄関口にやって来たばかりのクリスは、麒麟の姿であるリジンを見ていない。リジンがどうやってレイバックとゼータを、このドラキス王国の地へ送り届けたのかは想像もできないだろう。それでもクリスは穏やかな笑顔で、リジンに向かって右腕を差し出す。

「初めまして、リジンさん。人間族長のクリスです。レイバック王の不在時は、代理王の右腕を務めていました。我が国の王と王妃をこうして無事に送り届けていただいて、本当に感謝しています」

 目の前に差し出された右手のひらを、リジンは半ば放心状態で握りしめた。レイバックが国王であるという衝撃から覚められずにいるのか、それともクリスが人間であるという事実に驚いているのか。ハクジャ出身のリジンにとって、人間は便利な奴隷でしかない。しかしこのドラキス王国では、人間であるクリスが代理王の右腕を務めているのだという。クリスの言葉に驚いた者はリジンだけではない。

「代理王の右腕?クリスはメリオンの右腕になったんですか?」
「正式に任命されたわけじゃないからね。皆が勝手にそう言っているだけ。でも最近はザトさんまで、『俺は王の肩甲骨で良い』とか言い出してさ…」

 ゼータはクリスの左胸にある名札を凝視する。木の板を滑らかに削り上げたその名札には、可愛らしい丸文字で「人間族長兼代理王の右腕クリス」と刻まれている。シルフィーの文字だ、とゼータは笑う。
ちなみにちらと盗み見たザトの左胸には、「悪魔族長兼代理王の肩甲骨ザト」との木札。中々秀逸な出来の名札である。

 遠くから「クリス」と名前を呼ぶ声。声のした方を見てみれば、議論真っ最中のメリオンがクリスに向けて手招きをしている。「人間族長兼代理王の右腕」であるクリスを、議論仲間に引き入れたいらしい。クリスはゼータの顔を名残惜しそうに見つめ、それからメリオンの方に向かって駆けていく。レイバックが王座に戻ったのだとしても、これからしばらく王宮内は目が回るほどに忙しい。メリオンからレイバックへの仕事の引継ぎ、即位式の中止手続き、治癒魔法の施術依頼、封鎖されていた王の執務室の解放。一時的とはいえ王の右腕に任命されたクリスは、今後しばらく馬車馬のように働かされることだろう。
 友を相手に旅の思い出を語るのは、全てが落ち着いたときだ。美味い酒を飲みながら、遠い異国の話をしよう。そこで出会ったたくさんの人の話を。

「王と王妃」
「ん?」

 リジンの呟きに、ゼータは疑問の声を返す。

「今の人間、『王と王妃』と言わなかったか?王はレイさんだろう。王妃は誰だ?後ろの騎獣か?」

 リジンが指さす先には、つぶらな瞳を瞬かせるグラニ。一度はロマの森に離し、別れを告げた大切な旅の伴。1か月近く離れていたにも関わらず、グラニはゼータを忘れず、ロマの森で待っていてくれた。だからレイバックとゼータは、予定よりもずっと早くドラキス王国に帰り着くことができた。
 グラニが美しく賢いことは事実。だが言葉を喋れない騎獣を王妃に召し上げようとは、今のリジンは大分動揺しているようである。ゼータは笑いを堪えることに必死である。

「グラニはただの騎獣です。王妃は私」
「…流石に嘘だろ?」
「嘘じゃないですよ。たった3年ぽっちの王妃歴ですけれど、王妃であることに間違いはありません。嘘だと思うなら、後で誰かに訊いてみてください。数分もすれば、たくさんの人が集まってくると思いますし」

 そのとき、また王宮の扉が開いた。飛び出して来た者は部屋着姿のシルフィーと、腰に剣を携えた竜族長ツキノワ。既に号泣状態のシルフィーはレイバックの腰回りにしがみつき、ツキノワもまた議論の輪へと歩み寄る。その途中でふと足を止め、ゼータに向けて深く腰を折る。「ご尽力に心から感謝致します、王妃殿」言葉がなくとも伝わる最敬礼に、リジンは再び背筋に氷水を浴びせかけられたような表情となる。

「おい、ゼータ。胸を出せ」
「胸?」
「奴隷の烙印だ。早く」

 言われるがままに、ゼータは衣服の胸元をはだける。黒々と輝く隷者の刻印が、陽の光の元に晒される。
 リジンの手のひらがゼータの胸元に触れた。途端に温かな魔力が流れ込み、隷者の刻印が淡く輝く。痛みはない。そしてリジンが手のひらを離す頃には、禍々しい隷者の刻印は消えていた。腫れもなく痕もなく、まるで初めから刻印などなかったかのように綺麗さっぱりと。自らの胸元をしげしげと見下ろすゼータに、リジンはくるりと背を向ける。

「面倒なことになる前に俺は退散する。じゃあな」
「行っちゃうんですか?一応皆様にご紹介を…」
「いらん、面倒事は嫌いだ。国家の要人様相手に粛々と名を紹介されるなど、まるで見世物小屋の猿じゃないか。脚に使った麒麟は森に逃げたとでも言っておけ」

 あまりにもリジンらしい物言いに、ゼータは思わず吹き出してしまう。確かにレイバックを送り届けた麒麟の正体が皆に知れれば、リジンは国家の賓客扱いだ。応接室に招かれて十二種族長相手に素性を語ることは避けられず、運が悪ければそのまま王宮に雇用されてしまうかもしれない。リジンはレイバックを乗せられる。今までレイバックの騎獣の確保に苦労していた王宮側としては、喉から手が出るほどに欲しい人材なのだ。面倒事から逃げるとすれば、まだリジンに注目が集まっていない今しかない。
 リジンの歩みに迷いはない。去り行く背中に名残惜しさを感じ、ゼータは思わずその背中を呼び止める。

「リジン。また会えますよね?」
「このままこの国で暮らすと言っただろ。俺は俺で新生活を楽しむから、そっちはそっちで勝手に仲良くやってくれ」
「たまに会いに行ってもいいですか?」
「…本当にあんたは変わった奴だ。好きにしろ」

 そうしてリジンは去っていく。

 澄んだ青空にぽこぽこ綿雲。緋色の屋根をのせた王宮。開け放たれた玄関口に集まる大勢の人々。ゼータは遠ざかっていくリジンを見て、それから人の輪の中心にいるレイバックを見る。澄みわたる空に左手をかざす。薬指には、かけがえのない縁を繋いでくれた片割れの指輪。君とはまだ長い付き合いになりそうだ。

「これからもずーっと一緒にいてくださいね」

 ゼータの呟きは青空に昇る。たくさんの人々の笑い声とともに。
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