貴様の手の甲に誓いの口づけを

三崎

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2.仮面の来訪者

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 ざざぁ、と澄んだ風が芝生をさらった。
 
 芝生に落ちていた薄桃色の花びらが、風にのって宙へと舞い上がり、そしてまた落ちる。
 どこまでも蒼い空には雲ひとつなく、真っ白な太陽が青々とした芝生を照らしていた。広い芝生の周囲には適度に間引かれた木々と、そして木々の間に顔をのぞかせるイタチと野ウサギ。
 
 満足な風除けも日除けもないその場所に、2人の子どもが座り込んでいた。1人は少年、1人は少女。そろいの金茶髪を揺らしながら、1人の子どもは熱心に花をつんでいる。赤、黄、桃、橙。小さな手にはあふれんばかりの花束が握られていた。
 
 少年と少女の背後に歩みよる者がいた。優しい面立ちの若い女性だ。腰まで伸びた金茶髪と、青いワンピースのすそが、風に吹かれてふわふわと揺れている。
 女性は花束作りに没頭する子どもたちの背中をじっと見つめ、それから優しくこう呼びかけた。
 
「イシュメル、リリアナ」
 
 少年と少女は振り向いた。お母さん、と少年の口が動いた。2人はどちらともなく顔を見合わせ、駆けだした。腕の中にみずみずしい花束を抱え込んだまま。
 太陽の元を駆けに駆けて、競い合うようにして女性の足元へとすがりついた。
 
「お母さん。これ、あげる」
「お母さんのために作ったんだよ。今日はお母さんの誕生日だから」
 
 2つの花束を受け取り、女性は微笑んだ。
 
「ありがとう、嬉しいわ。おうちに帰ったら花瓶に入れて飾ろうね」
 
 女性は花束を持たない方の手で、少年と少女の頭を交互になでた。青いワンピースに顔をうずめ、子どもたちは誇らしげだ。
 3人は肩を並べて歩き出した。暖かな陽光の下を、青々と茂る芝生を踏みしめて、そろいの金茶髪を揺らして歩く。あはは、うふふ。彼らの口元からは、幸せに満ちた笑い声が聞こえてくる。
 
 ごう
 
 と音を立てて熱風が吹き荒れた。緑の芝生はまたたく間に業火に溺れ、蒼天の空に火の粉が吹き上がった。笑い声は悲鳴に代わり、花束は松明のように燃え上がる。
 
 3人は炎の中を逃げ惑い、しかし逃げる場所などあるはずもなく、やがて燃え盛る業火に飲み込まれていった。
 
 幸せな風景は焼き尽くされた。
 跡形もなく。
 
 ***
 
 ジャラリと金属のぶつかり合う音で、イシュメルは浅い眠りから覚めた。
 暗闇に包まれていた牢の中にランプの灯りが射しこんでいる。かすむ目をこすり、鉄格子の外側を見上げてみれば、そこにはランプを掲げた人影があった。魔王ではない。もっと小柄な、少女のような人影だ。
 
 イシュメルは慎重に尋ねた。
 
「私になにか用か」
 
 その人影はぴくりと肩を揺らしたが、答えはない。黄金色のランプを片手にぶら下げ、牢の内部をじっと見つめている。イシュメルもそれ以上問いを重ねることはせず、鉄格子越しに人影を見つめ返す。
 突然の来訪者は奇妙な格好をしていた。くるぶし丈のローブですっぽりと全身を覆い、顔には仮面をつけている。山羊の頭蓋骨をモチーフにした薄気味の悪い仮面だ。悪魔を彷彿とさせる姿である。
 
 仮面の来訪者は黄金色のランプを床に置くと、きょろきょろと周囲の様子をうかがいながらローブの内側を漁った。
 間もなくしてローブの内側から取り出された物は、数本の鉄鍵をぶら下げた鍵束だ。イシュメルの覚醒のきっかけとなった金属音は、ローブの内側でこの鍵束が揺れた音だったのだろう。
 
 訝るイシュメルの目の前で、牢の錠前に鉄鍵が差し込まれた。1つ、2つ、3つ。4つ目の鉄鍵が差し込まれたところで錠前がカチャリと鳴った。次いでゴトリと重たい音を立てて錠前が床に落ちた。
 
 薄く開かれた牢の出入り口を見つめ、イシュメルは小さな声で尋ねた。
 
「……助けてくれるのか?」
 
 仮面の来訪者は何も言わず、ただこくこくと頭を上下に振った。気味の悪い仮面に隠されて、その表情は読めない。
 
「ありがとう」
 
 イシュメルは小さな声で礼を述べると、腰をかがめ牢の出入り口をくぐった。身体を動かせば脚や腕に負った傷がズキズキと痛む。長いこと硬い地面に座り込んでいたため、腰や膝の関節も凝り固まっている。
 仮面の来訪者は、床に置かれていた小金のランプを持ち上げた。イシュメルに向けてちょいちょいと手招きをすると、他に灯りのない廊下を歩みだす。イシュメルはその小さな背中に続いた。
 
 やはりここは地下牢であったようだ。長い廊下に窓はなく、むせ返るような悪臭が満ちている。行き場を失くしたカビの臭いと、血と汚物の臭い、そして肉と脂の腐る臭い。地下牢にはイシュメルの入れられていた牢の他に、十数に及ぶ牢が並んでいる。牢の内部は暗く様子をうかがうことはできないが、そこには人間の死体が転がっているのかもしれない。
 
 仮面の来訪者の導きにより、陰鬱な廊下をいくらか歩くと、目の前には古びた上り階段が現れた。ごつごつとした石造りの階段は、少し揺らせば簡単に崩れ落ちてしまいそう。けれども階段の上部に開け放たれた扉を認め、イシュメルは安堵した。あの扉をくぐれば地上へと出ることができる。
 
 イシュメルは仮面の来訪者に礼を言った。
 
「感謝する」
 
 そして次の瞬間には、その横面に殴りかかった。
 肉を打つ重たい音と、声にならないかすれた悲鳴。黄金のランプが床に落ち、ガラス部分が粉々に砕け散った。唯一の灯りはかき消えて、残されたものは底なしの暗闇だけ。
 ランプの破片を踏みつけて、イシュメルは冷たく言い放った。
 
「本当に感謝している。これでもう少しだけ足掻くことができる」
 
 イシュメルの左手指では、2つの指輪が淡い輝きを放っていた。
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