貴様の手の甲に誓いの口づけを

三崎

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3.手の甲に誓う

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 月のない夜だ。薄雲に覆われた夜空には一粒の星さえ見えず、雲を吹き散らすだけの風もない。木々の騒めきも虫たちの鳴き声もない、静かな夜だ。
 
 魔王城の一室で魔王は床に就いていた。1人で寝るにはいくぶん広いベッドの上で、柔らかな毛布に身を包み、穏やかな寝息を立てている。
 人の心を持たぬと恐れられる魔王とて、生物であることに違いはない。生きるために水を飲むし、夜が来れば眠くなる。魔王も魔族も人間も、生きるための機能に大きな違いはないのだ。

 
 空気の動く気配を感じ、魔王は目を覚ました。本性が獣であるだけに、魔王の五感は他者よりも鋭敏だ。暗闇でも遠くの物を見ることができるし、ささいな物音も聞きわけることができる。人の匂いなど簡単に嗅ぎわけるし、肌感覚で風の方向を読むこともできる。魔王を魔王たらしめる理由のひとつがこれだ。獣の五感を持つ魔王を相手に、隠密を働くことは容易ではない。
 
 魔王は息を殺し、毛布の中からじっと周囲の様子をうかがった。さわさわと空気の動く気配を感じる。誰かが寝室の中を歩いている。望まれぬ侵入者かとも思われたが、その人物の正体はすぐに明らかになった。
 
「リリィ?」
 
 魔王が呼びかければ、暗闇の中を動くその人ははたと歩みを止めた。
 真夜中に寝室へと入りこむ不届き者の正体は、魔王の眷属であるリリィという名の少女だ。山羊骨の仮面をかぶった小柄な少女。
 リリィは寝室の中ほどで歩みを止めて、何も言わずその場に立ち尽くしている。
 
「リリィ、こんな夜更けにどうした。何か問題が起こったか」
 
 魔王の問いにリリィは答えなかった。それも仕方のないことだ、リリィは口が利けない。
 それでもいつもは身振り手振りを交え、最低限の意思疎通は可能なのだけれど、今夜のリリィはそれすらもしない。山羊骨の仮面をうつむけて、人形のように黙りこくっている。

 すん、と魔王は鼻先を動かした。
 
「お前、地下牢へ行ったか。ひどい臭いがするぞ」
 
 リリィの小さな身体が跳ねた。図星だ、ということだ。
 魔王はベッドから身を起こし、溜息を吐いた。今、魔王城の地下牢に幽閉している人物は1人だけ。今日の夕刻に捕らえた人間の騎士だ。眷属にしてやろう、という魔王の提案を拒む愚かな男。そのまま意思を変えないようであれば、日の出とともに首を切り落としてやる予定であった。
 魔王はリリィに問う。
 
「地下牢で何をした。まさかとは思うが、あの人間の騎士を逃がしわけではあるまいな?」
 
 リリィは身じろぎもせず黙りこくっていた。図星だということだろう。魔王はまた溜息を吐いた。
 正直、騎士を逃がしたことは痛手ではなかった。眷属にしてやろうかと提案したのは単なる気まぐれであるし、手負いの騎士が森で野垂れ死のうが、運よく隣国へと帰り着こうが、魔王にとってはどうでも良かった。明朝の仕事がなくなった、ただそれだけの話だ。
 
 しかし魔王とリリィの主従関係を考えれば、主の意向に背いたリリィに罰を与えないわけにはいかなかった。地下牢に騎士を幽閉していることは、すでに城の配下全員に知れ渡っているのだから。
 
「お前の処罰は明日考える。今夜はもう部屋に帰って――どうした?」
 
 いつの間にか、リリィは魔王の元へと歩み寄っていた。ベッドの脇に仁王立ちして、魔王のことを食い入るように見つめている。暗闇の中、2人はしばし見つめ合った。
 
 ふいにリリィが、魔王に向けて握りこぶしを差し出した。魔王は一瞬迷い、しかしすぐにリリィの方へと手を伸ばした。そこに何かが握られているのならば、受け取らなければならないと思ったからだ。
 リリィは魔王に何も渡さなかった。開かれたこぶしには空っぽで、驚くべき強さと速さで魔王の襟首をつかんだ。
 
 魔王が驚き目を見開いたときには、目もくらむような閃光が爆ぜた。
 
「うあっ!」
 
 一瞬にして魔王は視界を失った。次いで肩口に衝撃を感じ、魔王はベッドの上へと倒れ込んだ。
 
「馬鹿め、まんまと騙されたな」
 
 弾んだ声が頭上に降り注いだ。それは地下牢に入れたはずの騎士――イシュメルの声であった。イシュメルは魔王の腹に馬乗りとなり、苦しげにうめく魔王を冷たい眼差しで見下ろしていた。
 
「力がありすぎるというのも不憫なものだな。警戒心がまるでなっていない。なぜ今日のうちに私を殺さなかった」
 
 イシュメルの声は徐々に大きくなった。
 
「なぜ地下牢の鍵を懐に抱き込んで眠らなかった。なぜ真夜中に寝室を訪れる愚か者をすぐに追い返さなかった。その油断が貴様を殺すんだ!」
 
 イシュメルが吠える間に、魔王の視界は徐々に鮮明さを取り戻した。
 興奮するイシュメルを目の前にしても、魔王は冷静であった。ゆっくりと視線を動かして、床に落ちた山羊骨の仮面を見つめた。それは確かにリリィの物、魔王が与えた物なのだから見間違えるはずがない。そしてイシュメルが羽織るローブもリリィの物だ。
 
 地下牢に入れていたはずの男が、リリィの姿となって寝室に現れた。それはとても不可思議なことだ。リリィとイシュメルは体格が子どもと大人ほども違う。いくらリリィの仮面とローブを身に着けたところで、イシュメルがリリィになりすませるはずはないのだ。
 
 魔王は数度せきこみ、それから疑問を口にした。
 
「一体どうやってリリィになりすました。俺の記憶では、人間は魔法を使えないはずだ」
 
 イシュメルは怒気と喜悦の入り混じる声で答えた。
 
「魔法は使えなくとも、道具を用いて魔法に近い力を使うことはできる。聖女が創り出す『神器』と呼ばれる道具だ。この指輪がそう――『ロキの指輪』と名を付けられた、使用者の姿かたちを自在に変えることができる神器だ」
 
 イシュメルは魔王の目の前に左手を掲げて見せた。その中指と人差し指には、暗闇でも淡い輝きを放つ2つの指輪がはまっていた。
 
 神器か、と魔王はつぶやいた。魔族と戦うために人間は色々なことを考える。未知の鉱物を探し求めてみたり、不可思議な呪術を執り行ってみたり、魔族の姿かたちを真似てみたり。意味のない行いばかりと見下していたが、この神器という道具は中々有用だ。
 現実にイシュメルは神器を用いてリリィになりすまし、魔王の寝室へと忍び込んだのだから。
 
「リリィが、お前を地下牢から出したのか」
「そうだ。足元の配下にさえ裏切られるとは、魔王とは真に哀れな存在よ」
「そのリリィはどうした。まさか殺したわけではあるまいな?」
「憎き魔族とて罪なき者をそう簡単に殺すものか。私が殺したいのは貴様だけだ!」
 
 魔王は嫌味たらしく顎をあげて笑った。
 
「それは大層な野望だ。だが計画がお粗末すぎやしないか? 寝室に入り込んだだけで、どうして俺を殺せると思う。今ここで黒龍の姿となり、お前を噛み殺してやろうか」
 
 イシュメルの顔からすぅと表情が消えた。
 
「やれるものなら、やってみるが良い」
 
 イシュメルの挑発に、魔王の顔からもまた表情が消えた。
 途端、寝室の内部に突風が巻き起こった。ベッドを中心として竜巻のように大気がかき回される。緋色のカーテンが舞いあがり、書物がめくれ、壁にかけられた絵画がカタカタと音を立てて揺れる。
 
 けれどもそれだけであった。いつまで待っても魔王が黒龍へと姿を変えることはなく、イシュメルの命が潰えることもない。突風は徐々に治まっていった。
 
「なぜ龍の姿になれない」
 
 魔王の声は震えていた。
 哄笑、嘲笑。魔王の腹の上で、イシュメルはほおを引きつらせて笑った。
 
「考えがお粗末なのは貴様の方だ! 私が何の策もなく、ただ寝室に入り込んだとでも思うのか。先ほどの閃光だ、覚えているか。あれもまた神器の放つ光だ。魔族の魔力を封じる聖ミルギスタ王国秘蔵の神器。その首の模様がある限り、貴様は魔法を使えない!」
 
 魔王の脳裏に先刻の出来事がよみがえった。
 リリィに化けたイシュメルは、握りこぶしを囮にして魔王の首元に触れた。その瞬間、目もくらむような閃光が辺りを包んだのだ。あれはただの目くらましではなかった。神器の発動を示す光だ。
 イシュメルが左手にはめていた指輪は2つ。1つは使用者の姿かたちを自在に変える『ロキの指輪』。そしてもう1つは――
 
 イシュメルの右手が、ベッドに落ちた魔王の右手をすくい上げた。まるで姫君の御手を取るかのような、優雅で手なれた動作だ。
 しかし屈強な騎士の唇がつむぐ言葉は、忠誠の言葉には程遠い。
 
「私は聖ミルギスタ王国の騎士。魔王を殺すためこの地へやってきた。かつて魔族に殺された人のため、魔族の襲撃におびえる人のため、聖ミルギスタ王国の未来のため、私には悪しき魔王を消し去る義務がある」
 
 イシュメルは魔王の手の甲に口づけを落とした。
 
「騎士の名にかけて誓う。今宵、私は魔王を殺す」
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