桜の森奇譚──宵待桜

さくら乃

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第参話

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 こうして、間近に立ってから、私は『何故……』と、自分に問うた。先程からじわじわと感じている、ある予感めいたものを思えば、ここは黙って立ち去るべきところだ。
 自分でも解らない。知らぬ間に足が進んでしまっていた。何かに引かれるように。

 これだけ間近に立てば、相手が気がつくのも当然だろう。

 その背は、私の眼の前でゆっくりと半回転した。スローモーションのように、ゆっくりゆっくりと。

 は……っと、息を呑む。

 年の頃は二十歳前後。
 薄いシャツで包む肢体は細く、女性らしい丸みは何処にもない。
 やはり、男性であった。

 しかし。
 それでも、彼は美しい。

 何処か少女めいた端麗な貌立ち。透き通るような白い肌。儚く微笑む薄紅色の唇。長い睫毛で瞳は軽く伏せられている。
 はらはらと散る花びらが、髪や衣服に留まり、彼を飾っている。

 俯き加減の愁いを含んだ面を、ゆうるりと上げる。

「あ……」
 と、彼は小さく声を上げた。
 丸いアーモンドのような、黒目勝ちの瞳を大きく見開き、私の顔を食い入るように見る。そして、その瞳は次第に潤みを帯びてくる。

 胸をぎゅっと掴まれるような感覚がした。

「あの……どうかしましたか……」
 私はおずおずと声をかける。
 彼に私の声が届いているのか、分からない。

「ああ、ーーさま!」
 彼は突然私に縋りついてくる。その細い腕を私の首に回す。その腕は、春の夜気に晒された為か、やけにひんやりとしている。

「お会いしとうございました。ずっと、ずっとお待ちしておりました、この桜の樹の下で」
 間近で見てもその顔は一つ一つの造作が美しい。恍惚とした表情が浮かぶと、眩暈のするような艶めかしさを感じる。
 この年頃の青年にしては、この言葉遣いは可笑しくもあるが、彼が醸し出す雰囲気には、何となく合っているような気さえした。

 彼は更に腕に力を入れ、私の顔を己れの方に引き寄せる。
 ゆっくりと近づいてくる、朱みの増した唇。
 私はその艶かしさに当てられ為すがままだ。

 私の唇にそっと触れたのは、何処か桜の香りのする、氷のように冷たい唇だった。
 次第に深まりゆく口づけ。
 私の唇の割れ目をつつく舌先に逆らえず、薄く開いて迎え入れる。
 やはり冷たい舌が私のそれに絡んでくる。


 桜葉の味がする…………。
 

 そんな気がした。
 
 息も出来ない程に激しくなり、どちらのものとも分からない唾液が滴り落ちる。
 息苦しくなり、私の方から顔を離すと、名残惜しげに少し舌先を覗かせながら、うっとりと見つめてくる。

 そして。

「--様」

 愛おしげに名を呼ぶ。

 私はハッと我に返った。
 

 私は、--ではない。
 

 それが私の名でないことに、私は何故か小さな痛みを感じた。
 私は首に回った腕を解き、彼の薄い胸をとん……と、押し戻した。

「私は--では、ありませんよ……。良く見てください。私は……貴方が、待っていた人では、ありません」
    
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