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しおりを挟む髪からふわりといつもと違う甘い香りがした。いつもと違うけど、前にも嗅いだことのあるような……。
そして、それは、シウさんではない、別な人間の。
( これは…… )
記憶を辿っているところで、
「詩雨って呼んで、今だけ」
と言う、甘い声が耳に届いた。
( ああ、やっぱり…… )
俺は別な意味で固まった。もうどうにか平静でいようと努力する必要もないくらいに、心は冷えきっていた。
( 俺は、あの人の代わりか )
さっき鼻腔をくすぐった甘い香りは、橘オーナーの煙草の香りだ。
今まで一緒にいたのだろうか。
「シウ」
俺は彼を初めて呼び捨てにした。だが、心は少しも踊らない。
ぽつんぽつんと少しずつ落ちてくる黒い雫は、俺の内側にもうかなり溜まり、水面を並み立たせていた。
**
忙しなく、日々が過ぎていく。
あ日のことは、まるで夢だったかのように、シウさんの態度は変わらない。
でも、腕に残った感触と、俺の内に溜まっている黒い雫が、夢ではないのだと感じさせる。
コレクションのリハ、調整、そして本番。
シウさんもそれに付き合い、忙しく動き回る。何かを振りきりたいかのように。
そして、手の空いたふとした瞬間に、ぼんやりと何もないところを見ているのを、俺は何度なく眼にした。
“タチバナ春夏コレクション”は無事終了した。
「おめでとう、ハル。大成功だな」
フィナーレから戻って来た俺を両手を広げ迎え、ハグをする。
初めてのショーの仕事を終えたことで、思いの外興奮していて言葉が出てこない。二度と三度と首を縦に振る。
そんな俺を温かい眼で見、にこりと笑う。
「あとは、お前の写真集だな」
ポンポンと俺の背を優しく叩いた。
しかし、その言葉は、叶うことはなかった──。
**
沖縄那覇空港。
十二月二十一日から一週間の予定を組んでいた撮影。そして、社長ご厚意の休暇。
クリスマスも一緒に過ごせると思い、なんとなく浮き足立っていた。しかし、突然舞い込んできた仕事で、その前に東京に帰ることになってしまった。
二十三日の午後。
「ほんとに、すいません。こっちからお願いしておいて」
昨夜から何度謝ったことか。
それでも、シウさんは全く怒った様子もなく。
「スゴいじゃないか、CMの仕事なんて。写真集発売前の話題作りにもなるしな」
自分のことのように喜んでくれた。
フリーのデザイナーの集団。『オフィス絢』。
大手のブランドから独立した、柴崎蒼が創設した事務所。個人で活動しているデザイナーや、個人店を持っているデザイナーが所属している。
服・ジュエリー・靴・鞄、種類は様々。所属デザイナー同士のコラボイベント。倉庫などで行う、期間限定の店舗。
歴史はまだ浅く、ファッション界の重鎮方は歯牙にもかけない扱いだが、その独自のスタイルは話題を呼んでいる。
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