13 / 44
第四章
2
しおりを挟む
何がきっかけだったのか、高等部進級を機に、一切のピアニストとしての活動を辞めた。父親の率いる交響楽団も抜け、学校の籍もカンナから聖愛に移した。それどころか、家からも出て寮に入った。
「嬉しいよ ── そんな風に楽しそうに弾く詩雨が見れて。出逢った頃みたいだ」
「そうだな。小さい頃は、ただピアノを弾くのが楽しいだけだった。何者でもないオレが、何にも縛られず、ただ楽しく弾いていた。今は、あの時と一緒だ ──」
( ──冬馬が、すごいって褒めるから。初めて聴かせた時から。ずっと、オレのピアノが好きだって言うから。だから弾いてたんだ ── ただ、冬馬ひとりに聴いてほしくて ── )
どんな想いが過ったのか、片方の眼に涙が浮かぶ。冬馬は彼の髪に触れていない方の指先で、その涙を掬い上げた。
( ──かつてこの男は、天才少年と持て囃されていた。そして、その容姿と相まって、本人の意思とは関係なく周囲に動かされてきた。ただピアノが好きなだけの少年は、あの頃とても苦しんでいたんだ── )
一瞬冬馬の脳裏を掠めたあの頃の苦しげな音。しかし、それはすぐに今聴こえてくる音に掻き消されていく。
冬馬は、ピアノを弾く詩雨の後ろ姿が滲んでいくのを悟られまいと、悪戯っぽく笑った。そして、自分の肩にかけてあったタオルで、詩雨の髪をがしがし拭き始めた。
「うわっ。なにっ」
びっくりして、いったん指を止める。
「お前、肩までびっしょりなんだよ。せっかく風呂入って着替えたのにっ。ちゃんと拭けっ」
乱暴に拭いた後は優しく手櫛で解く。詩雨は気持ち良さそうな顔で、そっと鍵盤に指を落とし優しく奏で始めた。
**
ふと、自分の奏でる音に紛れた、微かな音に気づく。
自分からそれを捨てても、かつて天才ピアノニストと呼ばれた男 ── 音には敏感だった。
視線だけで音の行方を探すと、階段の上に秋穂が佇んでいた。瞳を大きく見開き、どこか動揺の色が窺える。
冬馬は気がつかずに譜面台にあった紅い紐を手に取った。いつも詩雨がつけている組紐。手櫛で整えた髪を慣れた手つきで結い始める。
( ── 見ている )
詩雨は顔を傾け、動けないままの秋穂と視線を合わせ、口の端を少し上げる。
── 今まで見せたことのない、挑戦的で妖艶な笑み。
詩雨の髪を弄っている冬馬には見えていない。
「昔、よくこうやって結んで貰ってたなぁ」
その表情とは裏腹な明るい声。
「そうだな。お前ひとりで結べなくて」
幼い頃を懐かしむ優しい声が、詩雨の耳許をくすぐる。
「わっ、三つ編みまでしてある。冬馬は意外と器用だよな」
「意外は余計だ」
綺麗に結い終わった髪をポンと優しく撫でる。
「この紅い紐、子どもの頃からずっとしてるな」
「この紐は──」
「アキ」
言いかけたところで、ぎこちなく階段を下りてくる足音が、冬馬の耳にも届いたらしい。
自分の髪を撫でる手が、背中に感じる温度が、遠ざかっていく。
( ── 行くな……っ!)
心の声は届かない。
少し離れたところから聞こえる冬馬の声音は、自分に向けられるよりも深く優しいもののように感じた。
「アキ、髪濡れてる。なんで、みんなちゃんと拭けないんだ」
自分にしたように、冬馬が秋穂の髪を拭く。
どろどろとどす黒い何かが、胸の中で渦を巻く。
「……この紐、おまえがくれたんじゃないか……」
小さく呟き、冬馬が結った紅い紐に触れる。
( ── オレ、今どんな顔してるんだ…… )
艶やかな黒いピアノに映り込む、自分の顔を見たくはなくて、ぎゅっと眼を瞑る。
眼を閉じたまま、難曲と言われるショパンのエチュードを弾き始めた。今までとは打って変わった、荒っぽい音。
──練習曲 作品十第四番は『激流』とも呼ばれていた。
「嬉しいよ ── そんな風に楽しそうに弾く詩雨が見れて。出逢った頃みたいだ」
「そうだな。小さい頃は、ただピアノを弾くのが楽しいだけだった。何者でもないオレが、何にも縛られず、ただ楽しく弾いていた。今は、あの時と一緒だ ──」
( ──冬馬が、すごいって褒めるから。初めて聴かせた時から。ずっと、オレのピアノが好きだって言うから。だから弾いてたんだ ── ただ、冬馬ひとりに聴いてほしくて ── )
どんな想いが過ったのか、片方の眼に涙が浮かぶ。冬馬は彼の髪に触れていない方の指先で、その涙を掬い上げた。
( ──かつてこの男は、天才少年と持て囃されていた。そして、その容姿と相まって、本人の意思とは関係なく周囲に動かされてきた。ただピアノが好きなだけの少年は、あの頃とても苦しんでいたんだ── )
一瞬冬馬の脳裏を掠めたあの頃の苦しげな音。しかし、それはすぐに今聴こえてくる音に掻き消されていく。
冬馬は、ピアノを弾く詩雨の後ろ姿が滲んでいくのを悟られまいと、悪戯っぽく笑った。そして、自分の肩にかけてあったタオルで、詩雨の髪をがしがし拭き始めた。
「うわっ。なにっ」
びっくりして、いったん指を止める。
「お前、肩までびっしょりなんだよ。せっかく風呂入って着替えたのにっ。ちゃんと拭けっ」
乱暴に拭いた後は優しく手櫛で解く。詩雨は気持ち良さそうな顔で、そっと鍵盤に指を落とし優しく奏で始めた。
**
ふと、自分の奏でる音に紛れた、微かな音に気づく。
自分からそれを捨てても、かつて天才ピアノニストと呼ばれた男 ── 音には敏感だった。
視線だけで音の行方を探すと、階段の上に秋穂が佇んでいた。瞳を大きく見開き、どこか動揺の色が窺える。
冬馬は気がつかずに譜面台にあった紅い紐を手に取った。いつも詩雨がつけている組紐。手櫛で整えた髪を慣れた手つきで結い始める。
( ── 見ている )
詩雨は顔を傾け、動けないままの秋穂と視線を合わせ、口の端を少し上げる。
── 今まで見せたことのない、挑戦的で妖艶な笑み。
詩雨の髪を弄っている冬馬には見えていない。
「昔、よくこうやって結んで貰ってたなぁ」
その表情とは裏腹な明るい声。
「そうだな。お前ひとりで結べなくて」
幼い頃を懐かしむ優しい声が、詩雨の耳許をくすぐる。
「わっ、三つ編みまでしてある。冬馬は意外と器用だよな」
「意外は余計だ」
綺麗に結い終わった髪をポンと優しく撫でる。
「この紅い紐、子どもの頃からずっとしてるな」
「この紐は──」
「アキ」
言いかけたところで、ぎこちなく階段を下りてくる足音が、冬馬の耳にも届いたらしい。
自分の髪を撫でる手が、背中に感じる温度が、遠ざかっていく。
( ── 行くな……っ!)
心の声は届かない。
少し離れたところから聞こえる冬馬の声音は、自分に向けられるよりも深く優しいもののように感じた。
「アキ、髪濡れてる。なんで、みんなちゃんと拭けないんだ」
自分にしたように、冬馬が秋穂の髪を拭く。
どろどろとどす黒い何かが、胸の中で渦を巻く。
「……この紐、おまえがくれたんじゃないか……」
小さく呟き、冬馬が結った紅い紐に触れる。
( ── オレ、今どんな顔してるんだ…… )
艶やかな黒いピアノに映り込む、自分の顔を見たくはなくて、ぎゅっと眼を瞑る。
眼を閉じたまま、難曲と言われるショパンのエチュードを弾き始めた。今までとは打って変わった、荒っぽい音。
──練習曲 作品十第四番は『激流』とも呼ばれていた。
10
あなたにおすすめの小説
愛しているかもしれない 傷心富豪アルファ×ずぶ濡れ家出オメガ ~君の心に降る雨も、いつかは必ず上がる~
大波小波
BL
第二性がアルファの平 雅貴(たいら まさき)は、30代の若さで名門・平家の当主だ。
ある日、車で移動中に、雨の中ずぶ濡れでうずくまっている少年を拾う。
白沢 藍(しらさわ あい)と名乗るオメガの少年は、やつれてみすぼらしい。
雅貴は藍を屋敷に招き、健康を取り戻すまで滞在するよう勧める。
藍は雅貴をミステリアスと感じ、雅貴は藍を訳ありと思う。
心に深い傷を負った雅貴と、悲惨な身の上の藍。
少しずつ距離を縮めていく、二人の生活が始まる……。
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
《完結》僕が天使になるまで
MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
それは翔太の未来を守るため――。
料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
僕がそばにいる理由
腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。
そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。
しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。
束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。
愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる