──緑に還る──

さくら乃

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第十章

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 過去ゆめ現実いまを曖昧に浮遊している心を、この男は、無理やり現実に引き戻そうとしている。

「お前が、真実ほんとうに、愛しているのは ──」
「しらないっ」

 壱也の言葉を強い口調で遮る。
 秋穂はけして壱也に逆らうことはない。しかし壱也が、“その名”を口にした時だけは違う。お前がその名を口にするな、と言わんばかりに反抗する。
 その強い眼差しを見るのが面白くて、彼は時々わざと“その名”を口にしてみる。余り逆らわれても腹立たしくなるので、その遊びはすぐに止めてしまうのだが。

「まあ……いいや」

 唇の端を少し歪めて嗤う。高級そうなスーツに包まれた片腕が上がり、その指先で秋穂の蒼白い頬に触れる。
 その途端、頭の騒めきはまた別なものへと変化した。
 その変化を壱也は即座に感じ取り、指をゆっくりと頬から首筋へと下ろしていく。

「何?もう感じた? ── ほんと、淫乱だな、お前は。母親そっくりだ」

 否定できなかった。自分を蔑んだ眼で見るその男の冷たい指先は、確かに身体の奥の熱を上げていく。

 顔も体格からだも声も、何ひとつ“彼”と似ているところがない壱也に抱かれながら、“彼”に抱かれている妄想に浸っていた。そうすることで、けして逆らうことのできない苦痛に耐えてきた。

 ( 貴方に、感じているわけじゃない。でも…… )

 肉体は心を裏切る。慣らされた身体は、壱也に触れられて、条件反射のように熱を持つ。
 そんな恥知らずな自分を忘れてしまいたかったのに、壱也の指先に何もかも思いだして、白い肌が紅潮していく。

「誰のこと、考えてる?」

 黙って耐えている秋穂を面白そうに眺めている。答えなど別に欲しいわけでもない。
 アイボリーのセーターから覗く、僅かに紅みを帯びた白い首筋に唇を寄せると、思い切り歯を立てた。
「つ……」
 鋭い痛みに呻きを漏らした瞬間、セーターの裾から冷たい手が入り込む。直に肌に触れられ、身体が震える。歯を立てたその場所を吸い上げられ、舌先で嬲られると、我知らず吐息が漏れた。


 不意に。

 バンッと何かを叩く音と、パリンと何かが割れる音がして、行為の途中で二人同時に振り返る。
 リビングのドアの傍らに、背の高い黒いコートの男が立っていた。足許には、ドアに嵌め込まれていた硝子の破片が散っている。

「冬馬……」

 秋穂は茫然と呟き、壱也は秋穂から手を離した。
「は……。もうちょい遅く来ると思ったのにな。まだ外は明るい。お仕事はどうしたの、Citrus のオーナーさん」

 冬馬はそれには答えず、ただ黙って壱也を睨みつける。青白い炎が揺らめいているようだ。

「出ていけ」

 数秒二人の男は睨み合っていたが、壱也の方がその均衡を崩す。

「ハイハイ、そんな顔しない。今日は出てくよ。またケガさせられたら堪らない」

 両の手を上げて、降参のポーズをする。足早に去ろうとするが、冬馬の脇を通り過ぎる間際立ち止まる。

「でもね、橘くん。秋穂は石蕗家のモノだよ」

 その言葉が更に冬馬を煽る。無言で壱也の襟を締め上げた。

「なあ、秋穂。お前にはまだ、石蕗家の為にやるべきことがあるんだよなぁ」

 壱也は少し苦しそうにしながらも、意味ありげに嗤う。
「アキ……」
 冬馬の手が緩んだ瞬間、壱也が素早く離れた。
「また来るよ、秋穂」
 そう言い捨てて、今度こそ立ち去った。
 バタンとドアが閉まる音がした。
    
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