──緑に還る──

さくら乃

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第十章

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 空は重い雲に覆われ、今にも雪が降りそうな寒さだった。しかし、今日の都内はホワイト・クリスマスになる予報は出ておらず、ただ心が重くなるような雲が大きな窓から見えるばかり。

 橘冬馬は、深く溜息をついた。

 クリスマス・イヴを一緒に過ごすことを秋穂も楽しみにしているようだったが、今冬馬は何故かひどく胸がざわつくように感じていた。
 正体のわからない、不安。不穏。
 そんな類いの騒めきだった。


「もう今日の予定はありませんよ」
 大学卒業後、タチバナの後継者として系列会社を巡り、今は冬馬の秘書をしている弟の優馬ゆうまが、兄の背を見ながらにっこりと微笑んだ。

「イヴくらい、早くお帰りになってもいいんじゃないんですか。僕もこの後、橘社長のお供をしなければならないので」

 冬馬より遥かに柔和な顔をした弟は、しかし何処か隙のなさを感じさせる。
 手にしたスマホの時刻を見ると、午後四時を過ぎたところで、一般的に考えても終業するにはまだ早い。

 だが。

「そうだな……そうさせて貰おうか」
「はい」

 先程からまったく変わらない笑顔は、なんだか人形のようだ。

「お前、その顔怖いよ ── じゃあ、お先に」
「余計なお世話ですよ ── では、良いイヴを」


 良いイヴを ── 昨日までは確かに、いい歳をして浮かれていたかも知れない。クリスマスを心待ちにする子どものような秋穂の顔を見るのが、嬉しくて。
 あんな表情かおは、本当の子ども時代にも見たことがなかった。少し秋穂は、不幸だった子ども時代をやり直しているかのようだった。

 しかし。

 空が重く暗くなっていくに連れ、冬馬の心も次第に重くなっていった。得体の知れない不安に急き立てられるように、足早に部屋を出た。


**


 ここ数日、我ながら浮かれすぎの自覚はあった。
 クリスマスをこんなに楽しみにしているのは、初めてではないだろうか。

 母親と暮らしていた頃は、クリスマスどころか誕生日ですら、何かをして貰った記憶がない。母親にとって自分は、いない方が良い存在だった。

 石蕗の家に引き取られてからは、そんな時に限って酷いことをされていた。しかし、冬馬がいつもそれを癒してくれていた。それは、生まれて初めて貰った、見返りを求めない優しさだった。

( 僕には大切な想い出 ── 義兄さんにされた仕打ちを打ち消すほどに )

 それも、あの事件の時まで。

 それ以降、誕生日もクリスマスも、ふたりきりで過ごすことはなかった。
( 詩雨くんがいたり、冬馬の彼女が一緒だったり、それから、紗香や…… )
 そこで思考が停止した。
 ぼんやりとした意識の中で、毎年小さな娘としていたツリーの飾りつけを、秋穂は独りで始めた。


 ふいに玄関先で音がしたような気がした。
( 冬馬……? )
 続いて廊下を歩く音がして、リビングのドアが開いた。暖かい部屋の中に冷たい空気が混じった。

「早かったね、冬馬。これ終わらせちゃうから、ちょっと待ってて」

 自分の手許から眼を離さずに言う。

「ふん……そうか、そういえば今日はイヴだった」
「──!?」

 返ってきた言葉に、ハッと振り返る。
 その男は、冷たい表情かおをして、自分を見下ろしていた。普段は上品な紳士の顔をした彼は、自分の前では常に醜く顔を歪める。

「義兄さん……」

 NYの大学に留学し、その後系列ホテルの経営陣としてそのままNYに残った、義理の兄・石蕗壱也。十二年間会うことのなかった、日本にいるはずのない男。

「義兄さん、いつ日本に……」
「ふん」
 男が冷たく鼻で嗤う。
「お前、ホントに壊れたんだな。俺はもう何年も前に日本に戻って来ている。そして、お前にも会っている」
「会ってる……」

 頭の中がざわざわし始めた。

「外で会うこともあったし、が留守の時にはここで ──」
「知ら……ない」

 秋穂は両耳を塞ぎ、いやいやをするように首を振る。少しずつ間合いを詰めてくる壱也に合わせて、少しずつ後退る。それもすぐに行き詰まった。壁際にあるローチェストに背中が当たる。

「そんなにふたりが死んだのが、辛いか── いや、存在自体を無くしたかったのか」

 ローチェストの上の写真立ては、何故かすべて伏せられていた。その一つを壱也が手に取った。紗香と紗穂が花のように笑っていた。

「お前は紗香を愛していなかった」
「そんなこと、ない」
 頭の中の騒めきが大きくなり、上手く考えが纏まらない。

 愛してなかったわけじゃない ── 愛おしくはあった。でもそれは、自分と同じように家族に愛されなかった彼女への、同情からの愛だったのかも知れない。ひとりの女への愛ではなく、家族としての愛。
 それ故、ふたりの間には性的な触れ合いは数少なく、紗穂が産まれたのもほとんど奇跡に近い。

 だからといって、壱也に問われ、「そうだ」と頷けるはずもない。それは自分の心を壊してでも、気づかれたくない、気づきたくないことなのだから。
    
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