──緑に還る──

さくら乃

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第十章

4

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 昔は、こんなにきつく抱き締めたことはなかった。
 そう思い、腕の力を抜く。彼の身体全体を、ゆったりと包み込むような抱き方をした。彼の感触を確かめるように、ゆるゆると腕を動かす。

( 細さはあの頃と変わらない。でも、背も伸びて、大人の身体になった…… )


**


 最初は真実慰めるだけのつもりだった。
 自分よりもずっと小さくて細くて子どものような肉体からだだった。そのせいか庇護欲の方が勝っていた。しかし、彼もいつまでも子どもの身体ではないし、自分の心もいつまでも幼いままではなかった。

 秋穂に出逢った時、初めて他人ひとに欲情した。すぐに胸の奥底に押し込めたは、いつまでも燻り続け、あの夏の日に一気に噴き出した。


 十五歳の夏。

 雷を怖がって縋りつく、少年と大人の狭間にある肉体に、それまでになく欲情した。それを詩雨に言い当てられ、初めて自分の気持ちを自覚した。秋穂に対する想いは、友情でもなければ、ただの庇護欲でもない。肉体関係も含めた恋なのだと。
 自覚したところで、どうすることもできない。
 家族に恵まれなかった彼に、当たり前のごく普通の幸せを、男の自分が与えられるわけがない。かといって、あの男のように力尽くで奪うこともできない。


 秋穂の婚約をきっかけに距離を取ろうとした。それでもその想いは、自分の内から消えることはなく、文字通り“幸せな家庭”を手に入れた秋穂を見続けることなど、到底できはしなかった。


( それが、どうだ……今、またこうして、腕の中にいる )

 冬馬のその手は秋穂の背だけではなく、他の場所へと彷徨い始めた。次第に自身が昂ってくるのを感じた。
 秋穂がこの行為の意味に気がついているのか、いないのか。

「…………最初に壱也さんに乱暴された日……冬馬が僕を抱き締めてくれたこと……すごく嬉しかった ── 実の母親にさえ与えられなかった、優しさや温かさを貰った……。それからはどんなに壱也さんに酷いことをされても……冬馬が温めてくれるって思ったら耐えられた ── 」

 ゆっくりと柔らかく紡がれる言葉。しかし、その後に続く言葉はそれまでと違って、酷く声が震えていた。

「違う……違うんだ ── 最初は、確かにだったんだけど ── でも……だんだん違ってきた、冬馬が僕を抱き締めてくれる意味と。── 僕は、冬馬に抱き締めて貰う為に、義兄さんに酷くされたい、と思うようになったんだ……」

(何……?何を言っているんだ?)
 冬馬は無意識に動かしていた手を止めた。

「──── 義兄さんが日本を離れ、冬馬が理由もなくなった ── その頃から……少しずつ、冬馬が僕から離れていくのを、感じていたよ ── それまでと変わらず接してくれているようでいて、少しずつ少しずつ、変わっていった…………」

(泣いて……るのか……?)

 肩口に寄せていた顔を上げ、秋穂の顔を覗き込む。
 ずっと伏せていた瞳は、大きく見開かれ、今度こそ涙が溢れ出ていた。


「 ── それでも、学園にいる間は良かった。卒業して僕が結婚してからは、それまでと比べようもなく、会えなくなったよね…………紗穂が産まれてからは、もっと……。最初はここにも来てくれてたけど、そのうち僕の誕生日とクリスマスだけになって……去年は、クリスマスも来なかった…………それなのに ──── 」

 声にやや恨みがましさが滲む。 

「僕の誕生日の前日、『冬馬は行けないんだ』って詩雨くんから電話を貰ったよ。もう、一年も会っていないのに。楽しみにしてたのに。── それに、なんで……詩雨くんから連絡くるの?冬馬じゃなくて?」

 口を挟む間もなく捲し立てる。こんな口調の秋穂を初めてだと思った。そして、こんな風に泣くのも見たことがない。

「僕は……冬馬の周りにいる誰にでも嫉妬していたよ、詩雨くんにさえも ── ううん、違う。ほんとは、一番、詩雨くんに、嫉妬してたんだっ。冬馬の彼女にじゃなくて、詩雨くんにっ。ずっと、ずーっと!」


「アキ、アキ?こっち、見て」

 軽く肩を揺さぶりながら声をかける。自分の顔を凝視しているのに、何も見えていない秋穂を、自分に向かせる為に。

「── 冬馬はもう、僕から完全に離れて行くつもりなんだと感じたよ。あの時、一瞬思ったんだ ── 冬馬がいないなら、もう何もいらないって……紗香や紗穂もいらない……あの秘密基地にいた頃の……ふたりだけの世界に戻りたいって。 ── そしたら…………紗香も沙穂も死んじゃった…………」

 秋穂の顔が奇妙に歪む。他人を蔑むような、酷薄そうな、今までに見たこともない顔だった。そして、それは恐らく、秋穂自身に向けられたものだろう。

「秋穂っ!俺を見ろっ!」
 その表情にも告白にも、内心動揺しながら、先程よりも強く肩を揺さぶる。
「冬馬……」
 今度こそふたりの眼が合ったように感じた。
 秋穂の表情が変わる。

「わかってる……そんなの、単なる偶然だって……。僕がそう思ったから死んだ、なんてことはない。でも。── 余りにも強烈な想いだったんだ……自分でも怖いくらいに……。ふたりの存在自体無くしたいなんて ── そして、その直後に、ほんとにふたりはいなくなって……自分のせいだって思わずにはいられなかった」

「アキ……」
 冬馬の前でさえ薄い膜に覆われていたこの男が、その膜を破り捨てて何もかも曝けだした姿に、最後の理性も砕かれる。この男のすべてが欲しいという、欲望に突き動かされる。

 この流れる涙さえも ──。

 冬馬は彼の目許に唇を寄せた。そして、涙を吸い上げる。口内に塩気が広がる。
「 ── 全部忘れてしまいたかった。あんな酷いことを考えてしまった自分も、何もかもすべて、ないものにしたかった。 ── そんな風に振る舞っているうちに……錯覚し始めたんだ……冬馬が毎日のように傍にいてくれて、あの頃に戻ったんだって──本当は忘れてなんかいなかったのに………………」

 秋穂の声を近くに聞きながら、冬馬は溢れ出る涙を吸い続けた。やがてそれが止まると、頬に残る涙の跡を上から下へと舐め上げた。

「ん……」

 小さく吐息が漏れた。秋穂は表情をまた変え、すべてを自分に委ねているように見えた。伏せた睫毛は細かく震えているが、先程までの哀しげな様子はなく、薄く色づいた唇は誘うように半開きになっている。

 冬馬は更に自分の身体が熱くなっていくのを感じた。かつて誰かと抱き合って、こんなに興奮したことがあっただろうか。
 誘われるままに自分の唇で塞いだ。
 初めて触れる場所だった。

( だめだっ、もう止められない )
    
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