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第五章

父の一面

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「旦那、お電話ですよ」
「誰からだい?」
「辰屋の手代さんから。至急と」
 立ち上がる森雪に、むっと吉森は顔を曇らせる。
「お前、手代にここに来ることを伝えたのか」
「何かあったら、捜すのに苦労させてしまいますからね」
「また俺が、お前を引き摺り回したと陰口を叩かれるじゃないか」
「それは人徳のなすことですよ」
 むかつくことをさらっと言って、森雪は受話器を受け取る。
 やたら深刻そうに、森雪は何度もうんうんと頷いている。
 その姿をぼんやり眺める吉森の前に、女は二杯目の珈琲を置いた。
「辰川の先代はお優しい方だったわぁ」
「え?」
 名乗ってもいないのに、女は吉森の正体を把握しているようだ。言葉はべたべたしていやらしいが、本質は外面とは正反対で、芯があって利口だ。
 女は煙草をくゆらせながら、遠い目をした。
「あの方、前の奥様に義理立てして、妻は持たない主義だったのさ。でも、ほら、まだ若かったからねえ。性欲を止めることは酷ってもんだよ」
「馬の種付けみたいに、そこらじゅうに見境なかったってことか」
「嫌なことお言いでないよ」
 あくどい吉森の言い方に、女の顔が険しくなる。
「あの方は、自分の子かそうでないかわからないうちから、関係を持った女とその子供の面倒をみてやっていてねえ」
 宙で今度は大きめの煙の輪を作った女は、流し目を呉れる。
「あんただって、そうだろう」
 吉森の顔色が変わった。
「あんたの産みの親に、随分、金をせびり取られてたそうじゃないか。それでも文句一つ言わず、おまけにあんたが虐げられてるとわかれば、すぐに自分の籍に入れてねえ」
「跡取りが欲しかっただけだ」
「そんな心配するほど、あの方は枯れちゃいなかったよ」
 堪らず席から立ち上がってしまった吉森は、いらいらと狭い店の中を歩き回った。
 自分が辰川に引き取られたのは、ひとえに清右衛門が店の行く末を案じた末の苦肉の策、そう思うことで九つから今までやり過ごしてきた。その強がりをたった一日で否定されてしまっては、がらがらと積み上げてきた何かが崩れていってしまう。
「惜しい人を失くしたよ。あんな、逆さまに吊るされて。犯人が憎い。憎くて憎くて仕方ない」
 吉森の葛藤をわかっていながら、さらに女は言葉を被せる。その目には仄暗い炎がちりちりと燃えていた。
 吉森は、女の初めとは百八十度違う印象に恐ろしささえ覚え、咄嗟に壁に貼った麦酒や化粧品の広告の方へ向く。
 そこへ、電話を終えた森雪が苦笑混じりに近づいてきた。
「お母様がまたヒステリーを起こしているそうですよ。最近立て続けの事件で、情緒不安定になっているようですね」
「早く帰ってあげな。孝行息子」
 女はニタニタと愉快そうに笑うと、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
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