【完結】シンデレラの姉は眠れる森の騎士と偽装結婚する

氷 豹人

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嵐の夜

 ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながら、かなりの距離を走った。
 まだ昼なのか、それとも、もう夜になっているのか。
 どんどん昏がりの深くなっていく森の中では、判別出来ない。
 目の前はおろか、足元すら真っ暗だ。
 ルパートに掴まれた力だけを頼りに、ひたすら足を踏み出す。最早、思考はその一つのみ。
 真昼間のように、景色が白くなる。
 立て続けに、鼓膜を破壊しかねないほどの轟音。
 ルパートは、不意にその場で足を止めると、ぐしょ濡れの前髪を掻き上げ、首を左右に振って雨粒を弾いた。
「何とか間に合ったな」
 激しい雨の合間に、ルパートの独白が届く。
 彼の言った意味を理解し、ヒルダはぞっと背筋を凍らせた。
 先程までいたはずの位置の、ことさら育った欅の木が、真っ黒に焦げ、煙を上空に昇らせていた。あのまま立ち竦んでいたら、間違いなくヒルダの命はなかった。
「来い!」
 雨はますます激しくなっていく。
 覚束ない足では、つんのめって、うまく地面を蹴れない。
 痺れを切らしたルパートは、ヒルダを荷物のように己の肩に抱き上げると、さらに走る。
 急斜面をルパートは怯むことなく滑って、
 谷底を目指す。
 谷底には、石造りの粗末な小屋があった。
「あそこに逃げるぞ」
 雷の切れ目に、ルパートは叫んだ。 

 錠前さえない、粗末な小屋。
 ルパートは素早く閂を外すと、ヒルダを中へ投げ捨てた。
 勢いよく床に打ち付けられた体は、豪快に前へ滑り、肘と脛に赤い線を何本も引く。
 その間にルパートが、強い雨風で開こうとする扉を、そこいらにあった板と大工道具で固定する。
 一通り作業を終え、振り返ったルパートは、ずかずかとヒルダの元へ歩み寄り、倒れた体を強引に起こすと、容赦なくその左頬を張った。
「何故、勝手なことをした!」
 ぎらぎらと不気味に瞳を光らせ、ルパートが怒鳴る。
「眠りの森には入るなと、あれほど」
 続けようとした声は、自ら舌打ちで中断する。
 琥珀の瞳から大粒の涙が次々溢れ、幾つもの丸い染みを床に作っていたからだ。
 落雷の恐怖、死の覚悟からの解放、最期の幻かと思えた相手の現実的な温もり、怒りに満ちた声、賊を逃してしまった失望。全てがない混ぜになり、受け止め切れない昂りは、ルパートの平手打ちが発端となり、雪崩のごとく一気に内から外へと放出する。
「近くに此処があって、助かった」
 まだ何やら言い足りないながらも、ルパートは話題を変えた。
 一体いつから此処に在ったのか。苔がびっしり生えて、積年の汚れで壁が黒ずんでいた。
 風窓からは、音は遠退いたものの、白い光が時折り入り込んでくる。
 指が濡れて思うように動かないのが煩わしそうに、ルパートはカフスを外す。髪の先からの滴りを鬱陶しそうに振り払い、続けて、ずぶ濡れのシャツを脱ぎ捨てた。
 まるで彫像のように立派な上半身が露わになる。
「濡れたままでは、肺炎を起こす。早く脱いでしまえ」
 ヒルダが震えながら愚図愚図していることを見るなり、不機嫌に眉根を寄せた。
「で、でも」
「歯の根が噛み合っていないだろ。早くしろ」
「で、でも」
「今更、恥ずかしがっている場合か」
 なかなか脱げないブーツに、さらに不快指数を増しながら、ルパートは八つ当たり気味に指摘する。
「風呂場で裸で俺に襲いかかってきたじゃないか」
「ご、誤解を受ける言い方はやめてください!」
 ヒルダがヒステリックに叫んだ。
「わかりました!そこまで言うなら!」
 もう、どうにでもなってしまえ!
 腹を括ったヒルダは、頭から一気にドレスを引き抜く。
 ブラジャーと一体型のコルセットと、シュミーズにまで、ぐっしょりと雨が染み込んでいた。
 脱ぐべきか。
 迷ううちに、ルパートがズボンを床に放り投げる。
 ヒルダは恥を振り切ることにした。 
 床にはコルセットとシュミーズが、脱皮のように置かれている。
「あ、あっちを向いていてください」
 それでも、男の前で素っ裸で図々しく開き直れるほど、女の部分は捨てていない。
「何を今更」
「早く向いて」
 耳まで体温を上昇させるヒルダに、ルパートは忌々しいと言わんばかりに、背中を向けた。それから、室内の奥にあった籐籠から、使い古しのタオルを引っ張り出す。
「この小屋は元は、眠りの塔を造った石工らの休憩所だ」
 後ろを向いたまま、やや乱暴にタオルをヒルダの顔面にぶつける。
 これで体を隠せとの意図か。
「今は、俺がたまに稽古の際の寝泊まりにしている」
 どおりで、昔の造りにしては、室内は片付けられているはずだ。
 一見すると物置き小屋だが、内部は殺風景で、籐籠以外に物が見当たらない。
 ルパートは、タオルケットを引き出すと、冷たい石畳の上に広げた。
「来い」
 短く命令する。
 ヒッとヒルダの喉奥が引き攣れた。
 つまり、タオルケットの敷地を分け合うということだ。仰向けに並んで寝たら、互いの半身がはみ出してしまう狭さ。かと言って、どちらか一方が剥き出しの床で眠るには、気温が急激に下がってきている今は残酷極まりない。
「あ、あの。今から帰るというのは」
「気でも狂っているのか」
「ですね」
 一蹴されずとも、ちゃんと不可能であることはわかっている。
 気がつけば雷は遠退いたものの、相変わらずまだ雨は激しく建物を横殴りに叩いているし、仮にそのことに目を瞑っても、此処は眠りの森。月の光が届かず、視界が悪い。しかも、今夜は確か新月にあたる。ただでさえ月明かりが心許ない道が、光を奪われて拍車を掛けている。
 ヒルダはゆっくりと唾を飲み下すと、覚悟を決めた。
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