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 神様は、欲張り者は好きではないらしい。
 十八で消防士となり、二十六で念願だった特別救助隊のオレンジの服に袖を通すことが出来た。
 つまりは、それで満足しとけってことかい?
「もう、冗談きついんだから。真也しんやは」
 梨花りかは、ピンク色の艶々の唇から矯正した白い歯を覗かせ、ふふふふふ、とふを何回も使って笑う。
「私たち、そんな関係じゃないでしょ」
 言いながら、紺色の小さな箱をこちらに滑らせてきた。
 カウンターの向こう側の女のバーテンが、気の毒そうな視線を俺に向ける。
 だから、同情はいらないから。
 俺は、梨花の前に置いてあった白ワインベースのカシス・リキュールを加えたキールを、脇から掠め取ると、それを一息で飲み干した。
 カクテル言葉で、最高の出会い。
 そんな意味を持つ酒が、チラチラ俺の視界に入るのがいたたまれなかったからだ。
 あ、やば。当番明けで、しかも空きっ腹だったから、酒の回りが早い。たちまち目元が熱くなり、頭に靄が張る。
「ちょっ、真也。大丈夫?」
 梨花が焦って、俺の上腕二頭筋を上下する。
 いつもなら、ドキーッとしてすぐに股間が反応するけど、今夜は違うぞ。
 たった今、見抜いたぞ。
 梨花は、単なる筋肉好き女ってことを。
 梨花との付き合いは、今日で丸三年。
 消防士と看護師との飲み会で知り合い、始まった関係だった。
 お互い仕事でなかなか時間が擦り合わなかったが、会えば一般的な所謂デートはしたし、勿論、体の関係もあった。
 それが、何だぁ?
 私達、セフレでしょ。
 私、もうすぐ結婚するし。
 彼、大学病院で医長になったの。
 って、何だそれ?
 俺は、暇潰しのスペアってことか?
「あ、もうこんな時間」
 梨花は高級ブランドの腕時計をこれみよがしに見せながら立ち上がる。
「これから、彼と彼ママと食事会だから」
 やっぱ、俺って暇潰しの時間潰しだったわけね。
「じゃあ。これから忙しくて会えなくなるけど。元気でね」
 キラキラ輝くマニキュアの手をひらひらさせ、あっという間に梨花はエレベーターに乗り込んで行った。
 残ったのは、左側の空っぽの席。
「あゝあああ」
 黒檀の一枚板のカウンターに額をつけ、俺は言葉にからない声に濁点をつけた。
 絶対、今夜はいけると踏んだのに。まさか、プロポーズ失敗するとか。
 って言うか、付き合ってすらいなかったんかい。
「お姉さん。もう一杯。何か、きっついの」
 テーブルに伏せたまま、人差し指を突き立てて注文する。
 見えなくともわかるぞ。バーテンのお姉さんの、この上なく哀れな目が。
「それ、アプリコットフィズにしてや。オネーサン」
 いきなり、関西弁が右側から割り込んできた。
 毎日毎日、聞き飽きた、軽い口調。これは、まさか。
「橋本さん!」
 職場の先輩、橋本圭吾けいごが、何故だかいた。
 橋本は椅子を引くと、当然のように俺の隣に座る。
 この男も当番明けだ。
「何で、ここに?」
「俺がどこで酒呑もうと、俺の勝手やろ」
 橋本はニヤニヤと人の悪い笑い方をする。
 その笑い方で、ピンときた。
「あ、あんた。俺のこと見学に来たな」
 ただでさえ酔いの回る頭が、ますます沸騰する。
 職場の連中には、俺が今夜プロポーズすると、前々から宣言していた。
 そのための準備も、べらべら喋りまくった。
 バカバカバカ、俺のバカ。
 この男が興味本位で見に来ることなんて、すぐに想像出来ただろうが。
 舞い上がって、橋本にカクテル用語なる分厚い本まで借り、オープンしたばかりの評判のホテルのバーをこれでもかと検索していたんだ。
 今夜、この場所でプロポーズします。良かったら、見にきてね。ハート。などと橋本なら都合よく解釈しかねない。
 プライベート、晒し過ぎだよ。十日前の俺。
「まあまあ、固いこと言わずに。俺の奢りやから」
 橋本は、つつつ、とアプリコットフィズを俺の前に滑らせる。
「まあ、ググッと。これは俺の気持ちや」
 タダ酒なら、頂戴してやるよ。もう、ヤケクソだ。飲まなきゃやってられるか。
 言われるまま、俺は飲み干すと、ぷはあと息が一気に酒臭くなった。
 空きっ腹に二杯は、やはりきつい。
 ぐらぐらと視界が回転する。
 目の前の綺麗なお姉さんが、小さく「あっ」と声を上げた気がしたが、もうそれも彼方だ。
 気安く橋本が肩に手を回し、今にも椅子から転げ落ちそうになる俺を支える。
 消防士の資格基準ギリギリの俺に対して、橋本は余裕で百八十五センチは越えている。
 でっかいのが、チビを覆い隠す。
 はたから見たら、まるきり父子だろう。
「……父ちゃん」
 うっかり、亡き父を記憶から引っ張ってきてしまった。
「誰が父ちゃんや」
 頭上から忌々しい舌打ちを喰らう。
 確かに、三十六歳で十歳ばかししか違わない男から父ちゃん呼ばわりは、憤懣仕方ないだろう。
「どうせ、上に部屋取ってるんやろ。カードキー出せ」
「ん……」
 うっかりキーを渡したのは、酒のせいだ。
「何階の何号室?」
「十五階の二〇五」
「よし。行くで」
「ん……」
 朦朧とする中、橋本の肩に頭を預ける。
 ふらふらする。
 何も考えたくない。
 途中、すれ違った十代ぽいカップルの男に、ヒュウッて口笛を吹かれたが、何やら橋本がひと睨みで撃退していたような。
 いやいや。奥二重で垂れがちな目は、女子から穏やかで素敵って大層よい評価だったじゃないか。
 睨みなんか、橋本らしくない。
「そういえば、アプリコットフィズにもカクテル言葉があったっけ」
 ふと思い出して、つい口にしてしまった。
 真横の空気が、ピンと張った気がする。
「あー。そやな。意味は……」
 言いにくいそうに橋本は答えていたようだが、俺の脳味噌はふにゃふにゃで、耳の器官は最早、機能していない。




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