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 鉄仮面は無言で食堂の一番下座を指差した。
 そこに座っていろという意味だろうか。
 何か喋れよ。
 思案していると、ようやく重い口を開いた。
「俺は橋本さんほど悪趣味じゃない」
 何故、この場で、最も聞きたくない名前が出てくるのだろうか。
「ぼろ雑巾みたいなやつをこき使うのは、性に合わない」
 言いながら、軽快な包丁の音が玉ねぎをみじん切りにしていく。その手捌きを前に、俺の出る幕はなさそうだ。
 下半身の酷い痛みは朝よりは退いたものの、未だに動くとずきずきと神経に障る。
 鉄仮面の言葉に甘えることにしよう。
「俺、橋本さんから、かなり嫌われちゃいましたね」
 自嘲気味に薄ら笑いを浮かべ、椅子を引く。硬い椅子は地獄だ。ゆっくり、ゆっくり腰を落とす。
 ん?と鉄仮面の眉が上がった。
 無表情で何を考えているのか判断しかねる鉄仮面の、珍しい反応。
 時間をかけて椅子に腰を下ろす。
「あああああ」
 俺、結局あの人と、どうなりたいんだ。
 もう、わからない。
 わけもわからず声を出して、ぐしゃぐしゃと髪を掻き回して、テーブルに突っ伏する。
 さすが鉄仮面。素晴らしい無反応だ。
 橋本の仕打ちなど屁でもないことを証明してみせるつもりが、精神的及び肉体的ダメージが思った以上に大きく、頓挫してしまった。
 刻んだ玉ねぎをバターで炒めながら、鉄仮面はわざとらしい溜め息をついた。
「俺は橋本さんに同情する」
「何で!」
 思わずタメ口で聞き返したものの、鉄仮面はその点は敢えて聞き流してくれた。
 突っ込まれなかったからといって、ほっとしている場合じゃない。
 加害者が同情されるなんて信じられない。
 もちろん、こいつは昨日の俺に対する橋本の仕打ちを知る由もないが。 
 一オクターブ高い声を上げた俺相手に、堂島は答えるつもりはないらしく、黙々と特製ハンバーグ作りに手順を進めた。
「あああああ。俺ってやつは」
 落ち込んでいても腹は減る。
 ぎゅるるるるとだらしない音を鳴らす腹に、情けなくて再度テーブルに顔を伏せた。
 さすがは鉄仮面。陰鬱な俺を一瞥するのみで、あくまで放置だ。逆にそれがありがたかった。
「後は任せたからな。橋本さん」
 ハンバーグのタネが出来上がり、後は焼くだけという段階で不意に堂島が言い放った。
 最後の名差しに、ハッと伏せた顔を上げる。
 食堂の扉に凭れる橋本がいた。いつからそこにいたのか、全く気配を感じさせない。
「笠置とちゃんと話をした方がいいですよ。ギスギスした空気は御免だ」
 擦れ違いざまに橋本の肩を叩き、堂島は付け加えた。
 鉄仮面のくせに、饒舌だな。
 ただでさえ同じ職場で気まずいというのに、誰もいない食堂で二人きりにさせられては堪らない。
「ちょ、ちょっと。てっか……じゃなくて、堂島さん」
「お前、今、鉄仮面て言いかけただろ」
 ヒーッ!だから、目つきが怖いから。
 引き止め失敗。
 堂島は冷めた眼差しを向けるのみで、足早に去って行く。
 扉の閉まる音がいつになく重々しく、何の変哲もない時計の音がやけに大きく聞こえた。


 橋本はポケットからくしゃくしゃに丸まった布地を出した。
「お前、これ忘れたやろ」
 紺地にグレーの縁取りには見覚えがある。昨日、部屋に忘れたボクサーパンツだ。
 体内に精を放たれた衝撃は凄まじく、あっさり意識を手離してしまった俺。
 再び目を覚ましたのは、日付の変わる時間帯だった。
 いつの間にか隣室のセミダブルベッドに眠らされていた。
 八畳のフローリングの部屋もLDKと同じく、紺に塗装されたパイプのベッドと同シリーズのサイドテーブル、鏡面塗装の白い小さな座卓以外に生活必需品はない。
 薄い肌掛け布団がずれ、反対側に思い切り引っ張られた。
 ぎょっと目を剥いた俺は、心地良さそうに寝息をかく橋本の体を飛び越え、床に散らばった衣服を掻き集めた。橋本と自分の分を選別し、慌てて自分の服を身につける。パンツだけがどうしても見当たらず、素肌に直にズボンを履くと、残した一枚を諦めて慌てて部屋を飛び出した。
「こ、こんな場所で返さないで下さいよ!」
 真っ赤になってパンツを引っ手繰る。
「俺のこと、嫌いになりましたか?」
 勢いで問いかけていた。口にして改めて、今日休まなかった理由が、これだ。これを橋本に聞くために、倒れそうな体に鞭打ったのだ。
「俺のことが目障りなのはわかりますけど。何も、あんな酷いことを」
「……嫌いとか、目障りとか、思ったことあらへん」
 橋本は鬱陶しそうに前髪を掻き上げ、溜め息の後で緩く首を振った。アンニュイという言葉がよく似合うような仕草だ。
「お前のことが可愛くて可愛くて。もう、どうしようもないんや。本当は最低あと三回はやりたかった。あれでも、かなり我慢した。それやのに、お前は、とっとと気い失いやがって」
 アンニュイとは程遠い品のない内容だ。
「これ、薬」
 差し出された薬の銘柄に、俺は悲鳴を上げそうになった。
「な、ななな何で知ってるんですか!」
「いや。歩き方不自然やし。昨日、シーツに血いついてたし。大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですから!」
 せっかくの好意は頂戴しておく。慌てて薬を引ったくった。
「薬塗るの、手伝おか?」
「結構です!」
 もう、勘弁してくれ。あまりにも羞恥で、余計にズキズキと痛む。
「あのさ。キスしてええか?」
 遠慮がちに尋ねてくる。
 今更だろ。
「いちいち、俺に許可取ってましたか?」
「取ってない」
 噛みつくようなキスを唇に受けていた。あまりにも素早い動作に体が追いつかず、相手の為すがままだ。無理矢理こじ開けられた口内に舌先が凶器そのもので侵入してくる。蹂躙するそれに抵抗すら出来ず、口端から垂れた唾液が糸を引く。
「何としてでも、お前に俺の方がいいって言わせたる」
 ようやく解放されたときには、唇は赤く腫れあがり、ジンジンと痺れた。
 俺だって、言いたい。なりふり構わず、何もかも飛び越えたい。
 口元を汚す唾液を手の甲で拭ったら、また泣きそうだ。



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