【完結】蟻の痕跡

晴 菜葉

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第四章 逆襲

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 その日の朝、担当する事件の逮捕状がやっと出たということで、課内の連中は出払っており、残ったのは担当から外れている俺と秋葉の二人だけだった。
「橘さん」
 秋葉は俺の姿を見るなり、音も立てず大股で近寄ってきた。真正面に立たれると、身長差を改めて認識する。立ち塞がる黒い山のような影に、不覚にもドキッと心臓が大きく鳴った。
「これを」
 神妙な面持ちで開いたのは、今朝の朝刊だった。一面と三面には、近頃巷を騒がせていた汚職政治家が逮捕されたというニュースが大きく載っていた。
 しかし秋葉の長い指先は、派手な見出しを通り過ぎ、三面の下方へと辿って行く。ぴたりと止まったのは、アパート火災を報じる小さな記事だった。ハッと息を呑んだ。内容は、不審火による死亡者を伝えていた。
 死亡したのは、長谷部ひとしさん(二十歳)。
『ティ アーム』で、沢渡と同棲していると吹聴した青年に違いない。
「消された可能性が、無きにしも非ずです」
 秋葉はさらりと怖いことを口にした。
 うっすらと額に脂汗が浮かぶ。自分が思うよりも遥かに恐ろしい案件なのかも知れない。
 鳥肌がうなじにまで吹き出す。
「橘さん」
 いきなり名前を呼ばれ、びくっと肩が揺れた。
「貰い物ですが、良かったら。甘い物でも食べて、少し落ち着きましょう」
 そう言って秋葉が差し出したのは、ブランドに疎い俺でさえ把握している有名菓子店のロゴが入った紙袋だった。女からの土産物だと察しがつく。ラブホテル云々で一時低迷した秋葉の評判は、人間スピーカー磯山の訂正によってすぐさま持ち直し、結果、女性署員同士の争いに火を点けた。女連中は、悠長に構えていると本当に秋葉を奪われる事態になると察知したのだろう。
「遠慮なくどうぞ」
 甘党でない秋葉にとって、これらの土産は非常に持て余す品でしかない。
「じゃ、じゃあ。失敬して」
 紙袋の中身は、アイシングで飾りつけられたクッキーだ。
「何か懐かしいですね」
 一枚齧れば、十四年もの昔の光景が蘇る。交番勤務の頃によく頂戴したクッキーも、このようなシチュエーションだった。当時は貰い物だと偽った、手作りの黒焦げクッキーだったが。交番に遊びに来る口実に、いつもクッキーを手土産にしていた。背が低くて可愛らしい中学生は、自分が焼いたと知られるのが、照れ臭くてしょうがなかったのだろう。
 秋葉は俺の呟きには聞こえない振りをした。
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