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冬の森

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 アリーシアは白い息を吐くと、ふと空を見上げた。
 灰色の雲はどこまでも広がり、地上に垂れそうなくらい湿気を含んでいる。
 最早、太陽はチラリとさえ覗かない。
 間もなく雪になる。
 アリーシアは、黒い愛馬ドミートリーに跨り、どす黒い川沿いの、ぬかるんだ道を走っていた。
 村の生活配水となるべき川は、薄氷が張り、流れが堰き止められていた。夏の間は生命力をこれでもかと見せつけた背丈の高い草花は今や萎れて、茶色くくすみ、風に吹かれて右へ左へ。
「急いで、ドミートリー」
 愛馬を励ましつつ、己を奮い立たせる。
 前方の南の方角を目指す。このままうまくいけば、あと半刻ほどで、この通称『灰色の川』を下った先にある目的の『妖精の国』に到着するはずだ。
 国境を越えたその国には、滅多に人間は近寄らない。
 先祖代々、伝承童謡として警告が為されていたからだ。

 妖精王に魅入られた
 娘は二度と戻れない
 妖精王は惚れ薬で
 娘を森に閉じ込める

 妖精王はともかく、妖精の国の手前に位置する『野獣の森』には、その名の通りに獰猛な獣が跋扈し、百年前に廃墟となった街を根城にする人喰い狼が、油断した通りがかりの旅人を殺し、金品を強奪していた。
 若い娘が興味本位で森に入ろうものなら、命はない。歌のごとく娘は森に閉じ込められる。屍となって。
 平穏に暮らしている今までなら、『妖精の国』も『野獣の森』も、単なるお伽話の世界として心に留めておくに過ぎなかった。
 アリーシアの状況が変わったのは、ちょうど三時間前のことである。


「婚約を破棄したい」
 いきなり宣言されて、アリーシアはこれが悪い夢ではなかろうかと、左頬を思い切りつねった。
 ひりひりと痛い。
 夢じゃない。
 目の前にいる婚約者ロイは、カールしたふわふわの金髪を鬱陶しそうに掻き上げ、もう一度言った。
「婚約を破棄したいんだ、アリーシア」
 アリーシアを見つめていた青い瞳は、今やゾッとするほど感情がなく、まるで機械人形そのものだ。
 アリーシアの知るロイは、いない。
「な、何故?」
 本当は、答えなど聞かなくてもわかっている。
 彼の隣を、メイド服の若い女が、当たり前のように占有していた。
「ニーナに出会ってしまったんだ」
 ちっとも悪びれる様子なく、ロイは言い放つ。そして、うっとりとニーナへと視線を下ろした。
 ニーナと呼ばれたメイドは、チラリとアリーシアを一瞥すると、すぐさまロイとお揃いの色をした瞳を潤ませ、彼を見上げる。
「そういうわけだから」
 どういうわけか、さっぱり理解出来ない。
 アリーシアは、ドレスの胸元をぎゅうっと引っ張る。
「僕は真実の愛を知ったんだ」
 自分への愛は、真実ではないと言いたいのか。アリーシアは奥歯を噛んだ。
「私達は生まれる前から決められた婚約者だったじゃない」
 無駄だとはわかっていても、言わずにはいられない。
 ロイは仕方なさそうに首を横に振った。
「それが、そもそもの間違いだ」
 アリーシアの子爵家と、ロイの伯爵家は、代々、跡取りでない互いの子供に婚姻を結ばせている。誰が決めたというわけではない。もう、何十年にも及ぶ習わしだ。
 十六歳のアリーシアと、二十三歳のロイも、例には漏れない。彼女らは、生まれたときから決められた関係だ。
 年上のロイは、アリーシアにとって唯一の男であり、彼との結婚はアリーシアの人生の終着点だった。ロイの妻となり、子を産み、家を守ることが使命と教育されていた。
「君は自由になるべきだ」
 ロイが強い口調となる。
「ひどいわ!今更、放り投げる気!」
 彼の存在があるから、苦手な夜会もお茶会も、マナーも、ダンスも、何もかも我慢してきた。同じ年頃の娘が、きゃいきゃいと恋の話で盛り上がっている間も、アリーシアは建国の歴史を学んでいたのだ。
 すべては、ロイのため。
「すまない。ニーナを愛している」
 ロイはニーナを引き寄せると、彼女の栗色の髪にキスを落とす。
 アリーシアの余地はない。
 世界が真っ暗になる。
 喉に塊がつかえ、脈がどくどくと速く打つ。息が苦しい。目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
「真実の愛って何よ!」
 捨て台詞が精一杯で、アリーシアはその場から走り去るしかなかった。


 部屋に駆け込むなり、アリーシアはベッドに伏せて、わんわんと憚らず泣いた。
 メイドのニーナには、敵わない。
 彼女の豊満な胸も、ほっそりくびれた腰も、切れ長の青い瞳も、栗色の髪も、何もかもアリーシアとは真逆だ。
 柘榴色の髪と、同じ色の瞳は、服の色を選ぶから厄介だし、いつまでも成長しない胸のせいでドレスの前がブカブカするし、腰も尻も貧弱で頼りない。年齢より幼く見える目鼻立ちも、コンプレックスだ。
 早く淑女になりたかったのに。その前にロイに見限られてしまった。
 いや、そもそもロイはアリーシアを恋愛対象としては見ていなかった。
 丸きり、妹扱いだった。


 妖精王に魅入られた
 娘は二度と戻れない
 妖精王は惚れ薬で
 娘を森に閉じ込める


 ロイに教えてもらった伝承童謡を口ずさむ。
 まだ五つにも満たないアリーシアに、声変わりしたばかりのロイが、肩を並べてよく歌ってくれた。
 アリーシアとて、あの頃は婚約者なんてピンとこず、お伽話の王子様とロイを同じように捉えていた。
「……待って」
 頭の中で何かが弾けた。
「待って、待って、待って」
 不意に生まれた考えが、むくむくと大きくなっていく。
「惚れ薬」
 アリーシアは独りごちる。
「惚れ薬!そうよ!」
 ベッドから跳ね起きると、書斎机の引き出しを漁る。順番に引き出しを開けて、三段目でようやく動きを止めた。取り出したのは、地図だ。
「街は、ここ」
 虹の街と呼ばれる、アリーシア達の住む場所。人差し指で地図をなぞっていく。虹の川を跨ぐと、平地が続く。虹の川と分岐した灰色の川を下ると、白い大地と呼ばれる妖精王管轄の飛地があり、その先が野獣の森で、そこを抜けると、妖精の国。
「今から発てば、日暮れ前には充分間に合うわ!」
 拳を天井に向けて突き出す。
 アリーシアは閃いた。
 ロイに惚れ薬を飲ませてやる。
 そして、ロイの愛を取り戻す。
 惚れ薬なんて、バカバカしいと誰しもが笑うだろう。
 だが、アリーシアには、もうそれしか縋るものはない。
 お伽話か、そうでないか。
 妖精の国へ行ってみるしかない。


 とうとう、細かい雪が散り始めた。
 日暮れまではまだ時間があるはずなのに、もう辺りは薄暗くなっている。雪のせいだ。
 ドミートリーは、若い主人を慰めるように、ぶるん、と鼻息を荒くする。
「ごめんね、ドミートリー。こんなことに付き合わせて」
 アリーシアは、ドミートリーの首を撫でた。
 もう一度、ドミートリーはぶるん、と返事する。
 フードを目深に被り直すと、アリーシアは鼻を啜った。
 いよいよ、風が冷たくなってきた。
 野獣、人喰い狼、さらに凍えそうな気温が心配事に加わる。暖を取る場所がなければ、凍死しかねない。
 だが、引き返そうにも手遅れだ。帰る途中で夜になれば、灯りのない道は危険極まりない。暗がりで、ぬかるんだ道を闇雲に走れば、足を滑らせて川に落ちてしまいかねない。この時期に川に転落するということは、即ち、死に直結する。
 また三時間かけて戻るより、半時間先を目指した方が絶対に正しい。
 しかし、アリーシアのその選択は不味かった。
 彼女はまだ気づいていない。
 葉の落ちた木々の隙間から監視する、不気味な眼差しに。
























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