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妖精の国へ
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鞭を使わずとも、愛馬ドミートリーは強靭な走りを見せた。
「もうすぐよ。もうすぐで森を抜けるから」
頑張って。アリーシアは励ます。
渦を巻く雪の粒が止めば、男女の姿は忽然と消え、その場には足跡すらない白銀がひたすら広がるだけ。
「夢……?」
ではないことは、未だ残る唇の生々しさが証明している。
アリーシアは、今頃になってムキーっと地団駄踏んだ。
初めては、ロイに捧げると決めていたのに。
妙な烏男に、見返りなどと称されて、あっさり手放してしまった。
むかつくのは、抵抗すら出来なかった己に対してだ。男の主導で唇を半開きにされ、流されるまま舌まで絡み合わせ、おまけに口端から唾液を垂れ流すという不甲斐なさ。
ガキだと見下されたが、これでは反論のしようがない。
むかつく男。むかつく男だが……。
「あ、あの男。大丈夫かしら」
人喰い狼の首領から守ってくれた恩人でもある。
その恩人の情けを台無しにしてまで、アリーシアは先を急いだ。
罪悪感が、ちくり、と胸をさす。
しかしその感情は、もう次には自然を前に消し飛ばされてしまった。
突風が、剥き出しの木の枝をゆらりゆらりと左右に揺すった。手を伸ばすように大きな動きを見せる。そんなわけないのに、それはニュッと鞭のように四方から伸び、アリーシアを拘束しようとする。目の錯覚だ。
だが、人間の住む虹の町から一歩踏み出せば、そこは異世界。
魔術も妖術も当たり前の世界。
太古の契約で、非力な人間界には何者も手出し出来ないことになっているが、外界に出ればその効力は発しない。
今まさに、木々が触手を伸ばしてアリーシアを捕らえようとしていた。錯覚ではない。
このままでは養分にされてしまう。
「逃げて、もっと早く。早く」
ドミートリーは「言われなくとも」と言わんばかりに、脚力を駆使する。
アリーシアのフードが脱げ、柘榴の髪が真横にたなびいた。
「っ!」
そのとき、茂みから一匹の痩せた狼が躍り出た。
肋が浮き、目は落ち窪み、だが爛々と獲物を狙う目。
仲間とはぐれたか、群れを追い出された狼だ。
長いこと獲物にありつけなかったて見え、だらだらと口中から涎を垂らしている。
狼が舌舐めずりした。
「ひいっ!」
背後には、不気味な木の触手。
前方には飢えた狼。
逃げられない!
シュルシュルと、狼の脚に枝が巻き付いた。
思わずアリーシアはドミートリーの手綱を引いてしまった。
驚いたドミートリーが、前脚を高く上げ、体を揺する。
弾みでアリーシアは地面に叩きつけられてしまった。大きく跳ねて、一回転し、地面に頭から倒れ込んだ。
唯一の救いは雪の分厚さだ。衝撃を和らげてくれる。馬上から落ちたというのに、何とかは怪我していない。
雪面に出来た人の形の窪みから、のろのろ起き上がったアリーシアは、目を見開き硬直する。
幹に、狼の体が埋まっていった。
か細く吠え、抵抗するものの、まるで液体のように四肢は溶けていき、ついに形を成さないタール状と化して、幹の表面を黒く塗った。
断末魔と共に、そのタールが端からじわじわと幹と同じ色に染まっていき、やがて消えた。
「ち、ちょっと」
呼びかけても、返事しない。
木々は何ごともなかったように、動きを止めた。
「嘘でしょ……そんな……」
目の前で起こったあり得ない光景を、脳味噌は受け入れられそうにない。何故かわからないが、涙がどんどん溢れてくる。恐怖から解放された安堵感か。それとも、ぬるま湯だった屋敷から、のこのこと厄介な場所へ出てきたことへの後悔か。
そのとき、ばさり、と雪の重みに耐えきれず、枝がしなった。地面へと白い塊が、アリーシアの背中すれすれに落下する。
ぶるる、とドミートリーが鼻を鳴らす。
「わかったわ。ドミートリー」
アリーシアは立ち上がると、手の甲で涙を拭う。
「このまま、こうしていても凍死するだけ。わかってる」
フードを被り直し、前を見据える。
涙は変わらず頬に筋を引く。
「行くわよ。妖精の国へ」
「もうすぐよ。もうすぐで森を抜けるから」
頑張って。アリーシアは励ます。
渦を巻く雪の粒が止めば、男女の姿は忽然と消え、その場には足跡すらない白銀がひたすら広がるだけ。
「夢……?」
ではないことは、未だ残る唇の生々しさが証明している。
アリーシアは、今頃になってムキーっと地団駄踏んだ。
初めては、ロイに捧げると決めていたのに。
妙な烏男に、見返りなどと称されて、あっさり手放してしまった。
むかつくのは、抵抗すら出来なかった己に対してだ。男の主導で唇を半開きにされ、流されるまま舌まで絡み合わせ、おまけに口端から唾液を垂れ流すという不甲斐なさ。
ガキだと見下されたが、これでは反論のしようがない。
むかつく男。むかつく男だが……。
「あ、あの男。大丈夫かしら」
人喰い狼の首領から守ってくれた恩人でもある。
その恩人の情けを台無しにしてまで、アリーシアは先を急いだ。
罪悪感が、ちくり、と胸をさす。
しかしその感情は、もう次には自然を前に消し飛ばされてしまった。
突風が、剥き出しの木の枝をゆらりゆらりと左右に揺すった。手を伸ばすように大きな動きを見せる。そんなわけないのに、それはニュッと鞭のように四方から伸び、アリーシアを拘束しようとする。目の錯覚だ。
だが、人間の住む虹の町から一歩踏み出せば、そこは異世界。
魔術も妖術も当たり前の世界。
太古の契約で、非力な人間界には何者も手出し出来ないことになっているが、外界に出ればその効力は発しない。
今まさに、木々が触手を伸ばしてアリーシアを捕らえようとしていた。錯覚ではない。
このままでは養分にされてしまう。
「逃げて、もっと早く。早く」
ドミートリーは「言われなくとも」と言わんばかりに、脚力を駆使する。
アリーシアのフードが脱げ、柘榴の髪が真横にたなびいた。
「っ!」
そのとき、茂みから一匹の痩せた狼が躍り出た。
肋が浮き、目は落ち窪み、だが爛々と獲物を狙う目。
仲間とはぐれたか、群れを追い出された狼だ。
長いこと獲物にありつけなかったて見え、だらだらと口中から涎を垂らしている。
狼が舌舐めずりした。
「ひいっ!」
背後には、不気味な木の触手。
前方には飢えた狼。
逃げられない!
シュルシュルと、狼の脚に枝が巻き付いた。
思わずアリーシアはドミートリーの手綱を引いてしまった。
驚いたドミートリーが、前脚を高く上げ、体を揺する。
弾みでアリーシアは地面に叩きつけられてしまった。大きく跳ねて、一回転し、地面に頭から倒れ込んだ。
唯一の救いは雪の分厚さだ。衝撃を和らげてくれる。馬上から落ちたというのに、何とかは怪我していない。
雪面に出来た人の形の窪みから、のろのろ起き上がったアリーシアは、目を見開き硬直する。
幹に、狼の体が埋まっていった。
か細く吠え、抵抗するものの、まるで液体のように四肢は溶けていき、ついに形を成さないタール状と化して、幹の表面を黒く塗った。
断末魔と共に、そのタールが端からじわじわと幹と同じ色に染まっていき、やがて消えた。
「ち、ちょっと」
呼びかけても、返事しない。
木々は何ごともなかったように、動きを止めた。
「嘘でしょ……そんな……」
目の前で起こったあり得ない光景を、脳味噌は受け入れられそうにない。何故かわからないが、涙がどんどん溢れてくる。恐怖から解放された安堵感か。それとも、ぬるま湯だった屋敷から、のこのこと厄介な場所へ出てきたことへの後悔か。
そのとき、ばさり、と雪の重みに耐えきれず、枝がしなった。地面へと白い塊が、アリーシアの背中すれすれに落下する。
ぶるる、とドミートリーが鼻を鳴らす。
「わかったわ。ドミートリー」
アリーシアは立ち上がると、手の甲で涙を拭う。
「このまま、こうしていても凍死するだけ。わかってる」
フードを被り直し、前を見据える。
涙は変わらず頬に筋を引く。
「行くわよ。妖精の国へ」
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