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第48話「二十四時間耐久模擬戦闘訓練②」
しおりを挟む五月二十日(金)二十一時九分 真希老獪人間心理専門学校・体育館
外界はすっかり深い闇に包まれており、天井より降り注ぐ光によってこの体育館は一つの切り離された空間のようになっていた。
神室秀青と梶消事の戦闘訓練は、あの後からほとんど休憩をはさむことなく行われていた。
時間にして十三時間十三分。
本より地元の消防隊に属しており、副部長の役に就いている梶消事にとっては決して不可能ではない可動時間。
この八分の一ほどの短い時間でも、今よりも八十倍は疲れるような現場で働いている男だ。
普段の鍛え方が違う。
しかし、神室秀青。
彼はつい一週間ほど前まではごくごく普通の一般男子高校生であった。
運動部どころか文化部にすら所属していない生粋の帰宅部たる彼は、鍛え方以前に長時間の運動経験すらない。
にもかかわらず、彼は梶消事よりも短い休憩時間しか取らずに訓練についてきていた。
慣れない動きを慣れない環境で繰り返し続ける。
肉体的よりもむしろ精神的疲労の方が計り知れない。
それでも彼は動き続ける。
おそらく生涯で最も脳を回転させ続けているであろう神室秀青。
それを可能にしている理由は二つ。
一つは彼の固有“性癖”『独り善がりの絶倫』の特性だ。
肉体的負荷と精神的負荷を最小限に抑え、しがらみを拭い去った世界で自慰にのみ没頭することができる能力。
自慰と自慰のインターバルを最低限度に留めるために発現したこの能力は、本来ならば長期間に渡るであろう肉体運動を短時間に凝縮するこの訓練方法においては最高レベルのパフォーマンスを発揮していた。
このことに関しては、梶消事は神室秀青の能力の仮説を聞いた段階である程度までは予想していた。
そうでもなければ、いくら彼でもここまでの過酷な鍛錬は提案しなかったであろう。
それでも、ここまでだとは思ってもいなかった。
耐久力を底上げするとはいえ、せいぜい六、七時間ほどで体力の底が尽きるであろうと。
実際、梶消事のこの読みは正しい。
言ってしまえば疲れにくくなるというだけの能力。
慣れない上に軍隊の如き激しい運動を十数時間にも渡って行い続けるほどの力はない。
それでも。
それでも、事実として神室秀青は梶消事に食らいつき続けている。
能力だけではありえない、不可能を可能にしたもう一つの理由があるからだ。
その理由とは。
「甘い!」
神室秀青の拳を躱し、すかさず繰り出した足払いによって彼を地に転がした梶消事は叫ぶ。
「ここぞという時に貴様は腰が砕けている! そんなことでは体育館から出ることなど叶わぬぞ!」
「くっっっそぉ……」
素早く立ち上がり構える神室秀青。
驚異的なことに彼の動きは、今朝の訓練再開直後から比べて徐々に鋭さが増してきていた。
彼が最後に休憩を取ったのは本日午後二時の五分間のみ。
最後の睡眠に至っては、昨日に時雨雨高校で行われた五限目の授業中に取った、二十分ほどの居眠りである。
肩どころか全身で息をする神室秀青の、疲れ切った瞳を見て梶消事は構えを解く。
「……休憩にするか。自慰の我慢も限界がきてるだろう?」
珍しく訓練中に出た梶消事の優しい一言に、しかし神室秀青のエーラは拒絶するかのような反応を示した。
「……言ったでしょう?」
額を腕で拭い、神室秀青は一歩ずつ前へと足を動かす。
「あなたに一発お見舞いするまではオナニーはしないって。」
そして、思いっきり踏み込み。
「だからさっさとぶん殴らせろ!」
加速をつけての殴り上げ。
神室秀青の、不意打ちともいえるこの一撃は、しかしそれでも梶消事には届かず、彼は難なく後方へと体を逸らして回避。
神室秀青の拳は虚しくも空を切るのみで終わった。
それでも、放った拳が終わろうと神室秀青は止まらない。
「!」
振り上げた腕をそのまま折り、胸元を掴んで強引に服を引っ張った。
それによって強制的に回転する体、その勢いを乗せて後ろ蹴りを繰り出す。
「むっ」
やや反応が遅れ、梶消事は神室秀青の踵を片腕で防ぐ。
(大雑把で隙だらけだが、なかなか面白い動きをする……。だが!)
「その程度では届かぬぞ!」
声を張り上げ、掌打によって神室秀青を後方へと弾き飛ばす。
受け身など取れようはずもなく、数回床に叩きつけられた後(のち)転がる。
「まだまだぁ!」
それでも、彼は立ち上がる。
もう一つの理由、自慰を行うという目的の為に。
金玉に脳みそをぶら下げたようなこの男は、何事に置いても常に自慰を優先させてきた。
だが今回は、自ら課した縛りによって梶消事に一撃与えるまでは自慰を行えない状況にあった。
故意的な優先順位の逆転。
それにより、目的達成の為に引き上げられた圧倒的集中力。
“性癖”以上に、彼の精神的耐性を引き上げている要因であった。
勿論、彼はこの事実を知らない。
オナ禁宣言は雰囲気に流された結果以外の何物でもなく、そこには意図したことなどなにもない。
しかし、人生の大半を自慰に捧げてきた少年だ。
無意識とはいえ、自身に取り付ける枷にオナ禁を選んだのは、必然という他なかった。
無意識な必然による潜在能力の解放。
それは、その後も続いた。
「ああああああああっ!」
走り出し、梶消事に向かって構えた彼は、決してこの場にそぐわぬ素っ頓狂な叫びとともにその拳を放った。
「ゴスロリ少女の白タイツを愛でさせろ!」
「はぁっ⁉」
数時間のオナ禁で限界を迎える彼が、一日近くも禁欲を継続している。
限界などとうに超え、心の奥底より出たのは純粋にして無垢な、不純なる魂の叫びであった。
まったく意にそぐわぬ神室秀青の叫びに数舜の意識を持っていかれ、梶消事の動きは数手遅れた。
結果的に紙一重となった梶消事の回避、それによって生じた隙を、今の神室秀青は見逃さない。
「ダークエルフお姉さんと密着イチャラブさせろ!」
叫びを乗せ、突き出したのはもう片方の拳。
その一撃を防ぐため、梶消事は不覚にも両手で彼の腕を掴んでしまった。
隙をカバーするために生じた新たな隙。
がら空きの左わき腹。
その一点に叩き込まれるのは、彼の渾身の三撃目———
「———っていうか、まずエロくないおねショタを楽しませろ‼」
己が性欲の全てを込めた拳は、ついに梶消事の肉体を捉えた。
「っ⁉」
ただし、直撃したのはわき腹ではなく膝であった。
梶消事は、神室秀青の拳が当たる直前に膝を突き上げ、寸でのところで攻撃を防いでいた。
「むぅんっ」
そのまま両手で掴んだ腕を振り回し、神室秀青をぶん投げる。
神室秀青はしっかり受け身を取ると、跳ね起きて頭を掻きむしった。
「あーもうっ! もうちょっとだったのに!」
対して、梶消事は運動時にかくものとは別種の汗を頬に垂らしていた。
(身体の動きに合わせてエーラをスムーズに流すのは至難の業。エーラを纏うのとは別な鍛錬が必要となる。こいつはエーラの総量が大きい分特にムラが出やすく、昨日から断続的にしか行えていなかった……。だが、もしも……。)
頬の汗を拭い、梶消事はわずかに笑んだ。
(もしもさっきの一撃にエーラが乗っていたら、決して防ぐことができなかっただろう。)
抑圧のきかない性欲の権化。
驚異的な成長速度。
神室秀青は『鍵』としての片鱗をほんの少し覗かせた。
五月二十一日(土)九時四十二分 真希老獪人間心理専門学校・渡り廊下
教室や体育館が用意されている本校舎の脇から伸びる一本道。
木製の足場が組まれたこの渡り廊下は、学生寮へと繋がっている。
「一限目には間に合わなかったが、これで貴様は今日から授業を受けられる。」
腕を組み、本校舎を見上げる梶先生。
その横で、震える自分の右手を俺は見つめる。
数分前に、この手で梶先生に一撃かまして、ようやく地獄の訓練を終了できた。
粘り勝ちのまぐれだが、この手に残った感覚は紛れもない本物だ。
「だが、今日ぐらいは休んだらどうだ?」
俺を見下ろす梶先生の目は、訓練中とは別人のように優しいものになっていた。
「……出ます。」
少し考えて、既に決まっている答えを言う。
もはや意地だ。
「……無理はするなよ。」
大きく息を吐く梶先生。
止めても無駄だと思ったのだろう。
「二限目は十時四十五分より始まる。それまでは絶対に休んでおけ。下田には俺から伝えておこう。」
梶先生は校舎に背を向けると、俺の肩に手を置いた。
「約二日間、よく俺についてきてくれた。もしも今後壁に突き当たったら、迷わず俺のところに来い。頑張れよ、秀青。」
それだけ言って手を離すと、梶先生はそのまま歩いて行ってしまった。
「……梶先生」
不意に込み上げてくる寂しさ。
そして達成感と脱力感に、危うく倒れそうになる。
「おっとっと……」
なんとかバランスを取って持ち直す。
「……一旦部屋に戻るか。」
かなり眠いけど、今寝たら二限目には確実に起きれない。
ひとまずシャワーを浴びてゆっくりしてよう。
あ、あとオナニーもしないと。
思えば、最後にオナニーをしたのは昨日の早朝、というより深夜三時過ぎくらいだ。
一日以上もオナニーしていないってことになる。
「……オナニー覚えてから、自己最高記録だな。」
そう呟いた声が、まるで遠くの霞のように消えいったかと思うと、俺の視界は突如、闇に覆われた。
「………。」
突然、視界いっぱいに光が溢れかえった。
と、思ったものはどうやらただの白い壁だったらしい。
壁?
いや、これは天井か?
どうもどうやら壁だと思ったものはただの白い天井だったらしく、蛍光灯が二本、強い光を放っていた。
いや、天井?
俺、横になってるのか?
なんだこれ?
わけがわからず、体を起こそうと試みるも、なにかにのしかかられた様に動かない。
重たいし、なんか熱い?
首を持ち上げ、体を見る。
俺の体は、白い膨らんだ布で遮られてまったく見えない。
今度は首を横に動かす。
至近距離に、肌色の物体。
人の顔だ。
そして、胸のあたりに感じる柔らかな感触。
………。
「はぁーーーっ⁉」
思わず飛び出す叫び声。
「あ、ごめんねっ!」
俺の体に覆いかぶさっていた人が慌てたように起き上がる。
後光が差した。
光を遮ったのは、少女だった。
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