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第56話「少年は忠告を受ける」

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  五月二十二日(日)十時二十六分 真希老獪人間心理専門学校・廊下

「どうしよう⁉ 俺、まりあさんのこと好きだ! 好き好き! 超好き!」
「急にぐいぐい来やがるっ!」
 肩を掴んで思いっきり揺すりまくっていた俺の両手を払って、後金は俺から距離を取る。
「思いっきりオナニーの話しちゃったんだけど⁉ 引かれてるかな⁉ ねぇ、引かれてるかな⁉」
「俺はお前の情緒に引いてるよ……」
 メガネを直し、緩んだ襟元を正す後金。
「大丈夫だろ。心音はそんなんじゃ引かない。」
「そうなんだよなぁ! 全てを受け入れてくれる聖母! そういうところが本当に大好きさ!」
「手のひら返しすげぇなコイツ。」
「そりゃあ、すごい高揚感に満ちてるからな!」
 今までまともな恋なんてしたことなかったけど、こんなに素晴らしいものだったんだな。
 明日が輝くウキウキ気分!
「でも、なんで急にこんな話したんだ?」
 再びトイレへと足を運びつつ、横を歩く後金に尋ねる。
「あー…それはな……」
 後金は少し言いにくそうに天井を見上げる。
「お前、昨日心音に助けてもらったらしいじゃん? 多分だけど、その時にめちゃくちゃ優しくしてもらっただろ?」
 今度は俯いて、またもやメガネの位置を直す。
「うん。あんなに安心したのは生まれて初めてかもしれない。」
 下手したら、タクト君の時よりも。
「その時、なんか勘違いしちゃったか? 心音が自分の事好きなんじゃって。」
 俺を見ずに話を続ける後金。
「……えぇっと、というか、むしろ逆、かな? なんか、まりあさんが好きだ! ってなった。なってる。みたいな?」
 おぉ……。
 なんかめちゃくちゃ照れるな。
 なんだこれ。
「あー……そっちタイプか。だったら尚更……」
 後金はなにやらブツブツ言っている。
「なんだよ? なんかあるなら言ってくれよ。」
 人をちゃんと好きになったのなんて生まれて初めてなんだ、こっちは。
「あのさ、神室。」
 トイレの入り口まで来て、後金は足を止めて俺に向く、

「悪いことは言わない、心音はやめとけ。」

「は?」
 なにか恋愛のアドバイスをくれるもんだと勝手に思い込んでいた俺は、後金が放った一言の意味が理解できずにいた。
「どういう……」
 言葉の意味を理解し始めたと同時に、さっきまでの高揚感も失せていった。
 そして、消えた高揚感は今度は怒りとなって次第に俺の中を支配していく。
「どういうことだよ!」
 思いがけず怒鳴ってしまった。
「だから、怒るなって!」
「怒って…るよ!」
 なぜ怒っているのか。
 それは簡単な話だ。
 後金が、まりあさんのことを否定している気がしたからだ。
 だが、それに気付くのは冷静になった後の話。
 今はただ、自分の情緒に今度は俺も引くだけだった。
「正直、話すべきか、かなり迷った。けど、なにも言わないのはフェアじゃない気がしてな。」
「そうじゃねぇよ!」
 後金の胸ぐらを掴む手を止められない。
「まりあさんはやめとけって、どういう意味だよ!」
「……悪い。」
 徐に俺の手を掴み、後金は自身の胸元から引き離した。
「そこから先を言うのも、フェアじゃない…気がする。」
「はぁ?」
「ただ、これから心音と接していくうちに、わかってくると思う。あいつを好きになるってことが、どういうことなのかを。」
 それだけ言って、後金はさっさとトイレに入ってしまった。
「………。」
 気分の悪い、後味の悪さだけがその場に残る。
 まりあさんが好きだと俺を煽っといて、いきなり諦めろとか、なんのつもりなんだ本当に?
 ふつふつと煮え立つ怒りはまだ収まりきらない。
 ただ。
 後金は、なにもただ意地悪を言っているわけではない。
 俺よりもはるかに長くまりあさんと接してきたんだ。
 あいつは正しいことを言っているんだろう。
 そのことをうっすらとだけれど、冷静になってきて、わかってきた。
 だから、俺は教室へ引き返さずに、後金の後に続いた。
 中に入ると、小便器の前で、後金が用を足していた。
 その二つ隣の便器で、俺も用を足す。
「………。」
「………。」
 気まずい沈黙。
 重苦しい。
 ほんの少しだけ冷静になれたとは言え、なんて声をかけようかわからない。
 手まで出しちゃったわけだから、俺からなにか言うべきなんだけれど、謝るっていうのは違うと思うし……(ちゃんと理由を説明しなかった後金にも非はあるはず)。
 後金は悪い奴じゃなさそうだし、仲良くしたいんだけれど……。
 うーん……。
「なぁ、神室。」
 俺があれこれ迷っていると、小便器の中に視線を落としたままで、後金から声をかけてくれた。
「お前、万能型って聞いたけど、それマジなの?」
 話題の切り替え。
 気を遣ってくれているのか。
 やっぱりこいつは悪い奴じゃない。
「あ、ああ……。」
 俺もさっきのことは忘れるべきだろう。
「万能型だよ。持ってる“性癖スキル”は身体強化系。」
「マジかよ。万能型でそんな濃いエーラ纏ってるとか、やべぇな。」
 後金はズボンのチャックを閉めると、便器洗浄ボタンを押して笑いかけてきた。
「そういう後金は何型で何系なの?」
 俺も、後金に笑いかける。
「俺は限定型。限定型の超感覚系“性癖スキル”持ちだ。」
 手を洗いながら、鏡越しに俺を見る後金。
 確かに、纏っているエーラはそれほど濃くは視えない。
「しかし身体強化系かぁ。エーラ量と噛み合いすぎだろ。羨ましい。」
 俺も手洗い場に移って、手を入念に洗い流す。
「そうか? 超感覚系の方がなんかかっこいいじゃん。超能力みたいな“性癖スキル”持ちってことだろ?」
 横目で後金を見る。
 既に手を洗い終えていて、ハンカチで水気を取っていた。
「んなことねぇよ。俺の“性癖スキル”は、そんな大層なもんじゃねぇ。」
 吐き捨てるようにいう後金。
「そうなのか?」
 普通に凄そうだけど。
 俺がハンカチを取り出すのと同時に、後金はハンカチをポケットにしまう。
「あー…じゃあ……」
 そして、反対側のポケットからスマホを取り出した。
「試してみるか? 俺の“性癖スキル”。」
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