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第156話「致死量未満の快楽⑩」

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  六月十二日(日)十八時十二分 埼玉県大宮市・路地裏

 襲い来る“pepper”の双刃。凶刃。
 それに立ち向かう二人に込み上げる、苛立ち。
 (くそ…チャンスだったのに‼)
 (逃した! チャンス逃した! 俺のせいで……)
 そして、振り下ろされる二振りの刃。
 後方へと飛び退け、回避する嵐山楓———の後ろに立つ神室秀青。
「っ‼」
 案の定、二人は激突した。
ぶつかり、同時に倒れる二人の少年は、すぐさま上体を起こして互いに睨み合った。
「てめっ、いきなりぶつかってくんじゃねぇ‼」
「お前がボーっと突っ立ってんのが悪いんだろうが‼」
 牙を剥き出し、罵り合う二人。
 神室秀青はもとより、普段感情を表出させない嵐山楓でさえも。
 それほどに募った苛立ち。
 潰えたチャンスは大きかった。
「ひょぉっ‼」
 振り下ろされたナイフを交差させ、”pepper”は二人に向かって互い違いに刃を薙ぐ。
「うぉっ‼」
 少年たちは転がり立ってナイフを躱すと、地を蹴って反撃に転じた。
 寸分狂わぬタイミングで。
「あ」
 “pepper”の眼前に同時に飛びつく二人の少年。
 嵐山楓の蹴りよりも、神室秀青の拳の方が速かった。
「おらぁっ‼」
「おまっ」
 神室秀青の右パンチを避ける“pepper”と嵐山楓。
 二人は瞬時に神室秀青から距離を取った。
「なにすんだっ‼」
「避けれたんだからいいだろうが‼ つーか同じタイミングで来るんじゃねぇよ‼」
「そりゃこっちの台詞だっ‼」
 醜くいがみ合う二人。
 そんな二人に、“pepper”は一歩近づく。
「おいおいおいおいおいおいおいおい」
 降り注ぐ無数の刃を慌てて躱し、二人は“pepper”に構える。
「なんだよ、仲間割れかぁ? それとも、そもそも仲が悪ぃのかぁ?」
「あぁ⁉ 仲良いに決まってんだろうが‼」
「こんな奴と仲良くなった覚えはねぇよ‼」
 “pepper”からの問いかけに、同時に答える二人。
 そしてまた、睨み合う。
「てめぇはこんな時まで否定してんじゃねぇよっ‼」
「事実言っただけだろうが‼」
「おいおいおいおい……やめろよな。」
 一瞬、構えを解きかけた嵐山楓目掛けて、“pepper”は突進する。
「萎えちゃうからよぉ‼」
 ナイフを振るう腕を咄嗟に防御し、嵐山楓は後方へ飛ぶ。
 その先には、またしても神室秀青。
 二度目の追突。
「また……」
「そういうのよぉ‼」
 神室秀青の文句を遮り、二人同時狙いにナイフを振り下ろす。
「くっ」
 嵐山楓は上へ、神室秀青は下へと刃を躱す。
 それぞれ前髪と後ろ髪に刃先が掠った。
「あっぶねぇなてめぇは‼ もうちょっと考えて避けろよ‼」
「お前に言われたくねぇんだよ‼」
 “pepper”から距離を置き、なおも罵倒し合う二人の少年。
「大体てめぇにはいつもムカついてたんだよ‼ その冷静ぶった仏頂面‼ 自分と他人は関係ねぇって顔しやがって‼ 空気も読まねぇしイラつくんだよそういうの‼」
「空気読まねぇのはお前の方だろうが‼ 人との距離感近すぎんだよ‼ 誰とでも仲良くなれると思ってんじゃねぇ‼ そういうところにいつもいつもムカついてたんだ、この半裸野郎が‼」
 二人のやり取りを眺めて、”pepper”はうなじを掻いた。
「だから…敵意は俺に向けてろってのに……」
 ガスマスク越しの視線。
 その先にいるのは、二人の喧嘩を見つめる心音まりあだった。
「あったま来た‼ もうてめぇが死にかけても助けてやんねぇからな‼」
「助けてやってんのは俺の方だろうが‼」
 また同時に、二人は“pepper”へと駆けていく。
 そして繰り出された、神室秀青の右パンチと嵐山楓の左キック。
 先程とは位置関係が逆転しており、二人の動きが被ることはなかった。
 なかったが。
「いやいや……」
 ”pepper”は二人の攻撃を難なく避け、二人に向かってそれぞれナイフを振り下ろす。
「っ‼」
 二人は揃って、目の前に迫る刃を両手で押さえた。
「息も合ってねぇ攻撃が当たるわけねぇじゃんなぁ⁉」
 途端に、“pepper”は振り下ろす力を強める。
「⁉ うおぉっ⁉」
 増した重量にグラつく神室秀青。
 彼でさえ押される力。
 嵐山楓への負担は、その比ではなかった。
「ぐぐっ……」
 全身から汗を噴き出し、腕一本をやっとの思いで押さえ続ける。
 そんな嵐山楓を、神室秀青は横目で見る。
 (見ろ。エーラ量が少ないから支え切れてねぇじゃねぇか。)
「………っ!」
 全身全霊で振り下ろされるナイフを押さえ続ける嵐山楓。
 しかし、ついに彼の膝は折れ———
「っ⁉」
 ———そのまま彼は刃先を避けると腕を引き下げた・・・・・・・
 そして、その勢い、反動を利用して僅かに跳躍。
 エーラを込めた右蹴りが、“pepper”に炸裂した。
「なっ」
 咄嗟にナイフから手を離す神室秀青。
 極端な重心の変動。
 直後に、不意を突いた蹴り。
 “pepper”は勢いよく壁へと吹っ飛び、地に落ちた。
「……ちっ」
 思わず舌打ちする神室秀青。
 体勢を崩して倒れた“pepper”は、立ち上がるのに僅かな時間をかける。
 僅かな時間。
 しかしそれは現状、格好の好機チャンスでもあった。
 あったのに。
「お前…今舌打ちしやがったか⁉」
 嵐山楓は、噛みついてしまった。
「舌打ちしましたけど何かぁ⁉」
 憎らしく彼を見上げる神室秀青。
 格好の好機チャンス、絶好の機会に、二人はまたもや喧嘩を始めてしまった。
「ふざけんじゃねぇ‼ 今がどういう時だと」
「危機迫ってますねぇ‼ だったら一々つっかかってくんじゃねぇよ‼」
「つっかかってんのはお前の方だろうが‼」
「あー、なんでも人のせいなんだな、お前は‼ さっきからよぉ‼」
「なんだと⁉」
「なんだよ⁉」
 そうこうしているうちに”pepper”は立ち上がり、万全の体勢となってしまった。
 蹴り飛ばされた際に落としたナイフの代わりも取り出して。
 盤石の殺人鬼。
 亀裂の生じた二人の仲。
 それら全てを見続けていた心音まりあが、ついに叫んだ。
「もうやめてよ二人とも‼」
「⁉」
 女神の叫び。
 透き通るような清廉なる声での叱責に、二人はようやく止まった。
「……まりあ、さん?」
 神室秀青の目に映った心音まりあは、両目から涙を流していた。
「こんな時にまで喧嘩なんてしないでよ‼ 今日、みんなで出かけられてすっごく楽しかったんだよ⁉ そういうの…悲しいよ……」
「………」
こういう時・・・・・……」
 口を挟んだのは、“pepper”だった。
「そうだよなぁ。こういう時だ。危機的状況だよなぁ……のに……てめぇはなんで動かねぇんだ⁉ 女ぁ‼」
「っ⁉」
 投擲される、一本の刃。
 その行き着く先は、心音まりあ。
 無防備な、女神が狙われた。
「‼」
 瞬間、二人の少年は視線を合わせた。
 嵐山楓の風の援護の下、神室秀青は走り、一瞬にして心音まりあの前に立った。
 そして、飛ばされたナイフを彼は拳で叩き落とした。
 砕ける刃。
 神室秀青は、ゆっくりと“pepper”を睨んだ。
「ごめん、まりあさん。頭に血が上って、大事な事を忘れてた。」
 心音まりあの表情が明るくなる。
 神室秀青にとっての大事な事。
 それは、心音まりあにとっての今日。
「そしてありがとう、おかげて頭が冷えた。」
「ううん。」
 そして同時に・・・、二人の少年は殺人鬼に向かって構えた。


 下田従士到着まで、残り二百八十七秒———
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