笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、異国のパンで世界を繋ぎます! ~路地裏から広がる平和のレシピ~

第57話 平和の晩餐会と、たった一つのパン

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 ヴェストリア王宮、その最も壮麗な大広間で、「平和の晩餐会」の火蓋は切られた。
 天高く吊るされたシャンデリアが、何千もの水晶の粒となって星屑の光を振りまき、磨き上げられた銀食器がその光を冷たく反射する。列席した諸侯や貴族たちは、絹ずれの音と共に、当たり障りのない笑みと、相手の腹を探るような視線を交わし合っていた。それは、平和の名を冠した、静かなる戦場だった。

 フィオナは、その圧倒的な権威の渦の中で、自分がまるで場違いな存在であるかのような圧迫感に息を詰まらせていた。
(……怖い)
 公爵令嬢だった頃の記憶が、悪夢のように蘇る。だが、彼女はドレスの下で、そっと自分の手を握りしめた。
(ううん、大丈夫。私の胸の中には、あのパンの温かい感触が残っている。私はもう、あの頃の、怯えるだけの人形じゃない)

 やがて、晩餐会の始まりを告げるファンファーレと共に、宮廷料理長オーギュストの作品が、銀盆に乗せられて次々と運ばれてきた。
 七色のソースで彩られた海の幸のテリーヌ。森の宝石と称される希少な茸を詰めた仔羊のロースト。黄金の鳥かごの中から現れる、フォアグラを抱いた小鳩のパイ。
 その全てが、権威と富の象徴である高級食材を惜しげもなく使い、もはや料理というよりは、一つの芸術品、一つの権力の誇示だった。「食は力なり」という美食家同盟の哲学が、皿の上で完璧に、そして傲慢に表現されている。貴族たちから、陶然とした感嘆のため息が漏れた。

 料理が、居並ぶ有力諸侯たちのテーブルへと、恭しく配られていく。
 その時だった。マルセルの鋭い目が、ある配膳係の男の手元に光る、見慣れぬ指輪と、彼が運ぶソースポットの縁に付着した、ごく僅かな変色を捉えた。
(……おかしい)
 マルセルの思考が、瞬時に加速する。
(あのソースの色は、希少なサフランによる、鮮やかな黄金色のはずだ。だが、縁の部分が、僅かに黒ずんで見える。酸化? いや、違う……。そして、あの指輪のデザイン……美食家同盟の中でも最高幹部のみが持つという、『黒蠍の指輪』! まさか……!)

 マルセルの視線の先、貴賓席に座るジュリアン・ド・ヴァロワが、カリム王子を見ながら、愉悦に満ちた表情でワイングラスを掲げている。その目が、残酷に笑っていた。狙いは、王子本人、そして彼に与する改革派の有力諸侯たちを一網打尽にすること。マルセルは、敵の恐るべき陰謀の全てを、一瞬にして看破した。
「ルーカス、エリィ、異常事態だ!」
 マルセルの囁き声は、極限の緊張に満ちていた。
「あの配膳係を、何としてでも止めろ。皿に……毒が盛られている!!」

 毒の皿は、まさにカリム王子の最も信頼する同盟者、白髪の老侯爵の前に、音もなく置かれようとしていた。
 その瞬間!
「きゃあああっ!!」
 エリィが、絹を裂くような悲鳴を上げて、わざとらしく足をもつれさせながら、その配膳係の男に真正面からぶつかった。ガシャン! という派手な音と共に、銀の皿とソースポットが床に叩きつけられ、美しい絨毯の上に無惨な染みを作る。
 ホールが、水を打ったように静まり返った。

「てめえ、何者だ!」
 エリィが作った、ほんの一瞬の隙。ルーカスは、その好機を見逃さなかった。野獣のような速さで配膳係――暗殺者に飛びかかり、その腕を背後から締め上げる。暗殺者は、隠し持っていた短剣で必死に抵抗。王宮の護衛兵たちも、何事かと駆けつけるが、その中には明らかに暗殺者を逃がそうとする動きの者が混じっている。
 ホールは、一瞬にして怒号と悲鳴が飛び交う大混乱に陥った。ルーカスは、暗殺者と、美食家同盟の息がかかった裏切り者の護衛兵たちを同時に相手取り、壮絶な戦いを開始した。

 恐怖、疑心、裏切り。
「誰が敵なのだ!」「どの料理に毒が盛られているか分からんぞ!」
 人々はパニックに陥り、ホールは、この国の縮図のような、疑心暗鬼の渦に飲み込まれていった。

 その、全ての喧騒の真ん中を。
 フィオナが、たった一つ、あの大きな丸いパンを乗せた木皿を胸に抱き、静かに、しかし一歩も揺るがずに、進み出た。
 彼女の声が、凛としてホールに響き渡る。

「皆様、どうか、お静まりください!」

 不思議なほどの静謐さと力強さをたたえたその声に、人々ははっとしたように動きを止め、場違いなほど素朴なパンを持つ、一人の娘に視線を集中させた。

「今、皆様の心は、恐怖と疑心に満ちていることでしょう。誰を信じていいのか、何を口にしていいのか、分からなくなっている。それこそが、今、この国を蝕んでいる『毒』の、本当の正体です」
 彼女は、ゆっくりとホールを見渡した。
「私のこのパンは、美食の限りを尽くしたものではありません。使ったのは、ありふれた小麦と、古の森の知恵である樫の実の粉。そして……」
 フィオナは、そのパンを、祈るように高く掲げた。
「このパンには、私が生まれ育った王国の土が育んだ小麦と、異国である、ここヴェストリアの太陽を浴びたスパイスが、共に練り込まれています。そして、その二つの味を一つに繋いでいるのは、私たちの国の塩と、あなたたちの国の塩。二つの国の民が流した、涙と汗の味がいたします」

「このパンの名は、『融和』と名付けました。異なるものが争うのではなく、互いの良さを認め合い、一つの未来を作る。そういう想いを込めて、私の、私たちの旅の全てを込めて、このパンを焼き上げました!」

 フィオナは、壇上に進み出ると、自らそのパンをひとかけらちぎり、呆然とするカリム王子の前に、そっと差し出した。
 カリムは、フィオナの青い瞳の中に、自分が夢見た、この国の輝かしい未来そのものを見た気がした。彼は、一切の迷いなく、そのパンを受け取ると、満座の目の前で、厳かにそれを口に運んだ。

 その姿を見て、ホールにどよめきが走る。
 最初に動いたのは、毒皿から救われた老侯爵だった。彼が席を立つと、一人、また一人と、派閥も立場も忘れて、人々はフィオナの元へと歩み寄り始めた。豪華絢爛な料理には、もう誰も見向きもしない。彼らが求めたのは、権威が押し付ける力の味ではなく、心に直接届く、温かい、分け合う味だった。

 やがて、敵対していたはずの貴族同士が、隣り合って、同じパンを静かに食べるという、奇妙で、しかし美しい光景が生まれた。その素朴で、深く、どこまでも優しい味わいが、彼らの心の頑なな壁を、静かに、しかし確実に溶かしていく。
 それは、いかなる条約の調印よりも雄弁に、戦争の終わりを告げる、沈黙の儀式だった。

 ホールの片隅で、ジュリアンが、その光景を表情のない顔で見つめていた。彼の足元には、誰にも味わわれることのなかった芸術品のような料理が、まるでガラクタのように、虚しく冷えていく。
 彼が信奉した「力の美食」が、たった一つの素朴なパンに、完膚なきまでに敗北した瞬間だった。
 その完璧な仮面の下の瞳に、初めて、自らの計算を超えたものに対する、人間的な「恐怖」の色が浮かんだのを、誰一人として知る者はいなかった。
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