笑顔が苦手な元公爵令嬢ですが、路地裏のパン屋さんで人生やり直し中です。~「悪役」なんて、もう言わせない!~

虹湖🌈

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陽だまりのアトリエと、小さな麦の穂 〜守り神と育む、家族のレシピ〜

第89話 陽だまりの衝撃と、管理された科学の崩壊

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 王城の大広間。きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に無数の星屑を散らしている。
 その厳粛な空間で、パンの真実を問う、静かなる戦いが始まった。

 最初に審査員団の前に出されたのは、ドクター・ヴァーノンが誇る「管理された完璧な人工酵母パン」だった。
 銀色の密閉容器から取り出されたそのパンは、まるで工業製品のように均一で、表面の気泡の大きさまでが計算され尽くされている。

 ヴァーノンは、そのパンを誇らしげに語った。
「このパンは、栄養士と錬金術師、そして人工知能が協力して導き出した『科学的合理性の結晶』。最高のエネルギー効率と、完璧な再現性を保証します。一切の非科学的な感傷を排し、ただ人類の福祉のために作られた、未来の食糧です」

 審査員たちがパンを手に取り、無表情で口に運ぶ。
 その中には、王国の重鎮である公爵や侯爵、そして隣国から招かれた美食の特使も含まれていた。

「……ふむ」

 審査員長が、まず静かに口を開いた。
「驚くべき技術だ。口に入れた瞬間に溶けるような食感、計算された塩味、そして栄養価の高さは疑いようもない。これこそ、飢饉を救う『資源』として完璧だろう」

 他の審査員たちも、技術を称賛する言葉を続けた。
 しかし、その言葉にはどこか熱がない。

「完璧すぎて、いささか……冷たい」

 一人の美食特使が、正直な感想を漏らした。
「まるで、教科書をそのまま食べているようだ。頭では満たされるが、心が満たされない。これでは、食卓に笑顔は生まれないでしょう」

 ヴァーノンは、その評価に対し、冷笑した。
「食に笑顔など不要。必要なのは、生存と秩序です」

 ---

 そして、フィオナの番が来た。

 ルーカスから受け取った木箱を開けると、中には、ヴァーノンのパンとは対照的な、素朴で不格好だが力強い斑模様を持つパン、「陽だまりブレッド」が姿を現した。

「失礼。そのような土臭い代用品が、我々のパンの後に並べられても、比較のしようがないのでは?」

 ヴァーノンが侮蔑的な笑みを浮かべる。

 フィオナは深呼吸をした。
 その瞳には、かつて婚約破棄を宣告された時の涙も、諦めもなかった。

「貴方がたのパンが『科学』ならば、私のパンは『絆』です」

 彼女は、パン職人としての魂を込めて宣言した。

「このパンは、私一人の力では焼けておりません。窯を壊され、清浄な水を毒された絶望の中で、師匠の叡智、命懸けで運ばれた清浄な水、そして家族の愛が詰まっています。このパンは、私が辿った旅の全ての経験、そして命とは、管理する資源ではなく、分け合い、慈しむことで力を発揮するものだという、私たちの信念そのものなのです」

 フィオナは、パンを丁寧に皿の上に置いた。
 それは、管理と独占の権威に挑む、母が背負う最後の十字架だった。

 ---

 審査員たちが、フィオナのパンを口に運ぶ。

 最初の一噛み。

 ヴァーノンのパンが冷徹な理性を呼び覚ましたのに対し、フィオナのパンは、その滋味と温かさで、審査員たちの心に直接語りかけた。

「……これは……」

 最年長の公爵が、不意に、手に持っていたフォークを取り落とした。
 彼の瞳は、遠い過去を見つめているようだ。

(故郷の森の香り……! 幼い頃、病に伏せていた私に、母が焼いてくれた、あのハーブのパンの温もりが……)

 別の侯爵夫人は、目元をそっと押さえた。
 彼女の口の中に広がるのは、フィオナが旅で得たソルティスの力強い塩気と、ヴォルカンの黒ビールのような、苦味の奥にある深い愛情。

「……まるで、嵐の夜を乗り越えた後の、朝の陽だまりのようだわ……」

 審査員たちの心は、理屈を超えて揺さぶられていた。
 それは、完璧に計算されたヴァーノンのパンには決して作り出せない、「魂の共鳴」だった。

 フィオナのパンは、彼らが貴族社会という金色の鳥かごの中で、感情を殺して押し込めていた、最も大切で、最も温かい記憶を次々と呼び起こしたのだ。

 ---

 審査員長は、ゆっくりと目を開けた。
 彼の目元は赤く、涙を拭った跡があった。

「ドクター・ヴァーノン。貴殿のパンは、人類を飢餓から救う『資源』として、確かに優れている。だが……」

 彼は、フィオナのパンを再び見つめ、静かに言った。
「このパンは、『生きる喜び』を分け合い、明日への希望を育む、尊い儀式だ。貴殿のパンには、その温もりが、微塵も感じられない」

「馬鹿な! 非科学的だ! 味覚は感傷で汚染されるものではない! このパンが、我々の理論を凌駕するなど、ありえない!」

 ヴァーノンの完璧な理知の仮面が崩れ落ちた。
 彼は、信奉する科学が、一介のパン職人の「愛」という名の非合理な力に敗北したという事実を、受け入れられなかった。

 フィオナは、ヴァーノンの絶望を前にしても、微笑んだ。
「貴方がたの言う『管理された秩序』は、完璧です。ですが、命は、制御されるほどに、頑なに固く、美味しくなくなってしまうのです」

 彼女は、静かに、しかし力強く、自らの信念を証明した。

 パンの味が、科学の権威を打ち砕いたその瞬間。
 大広間には、審査員たちの心からの温かい拍手が、堰を切ったように響き渡り始めた。

 それは、フィオナが過去の屈辱の舞台で、悪役令嬢の汚名を、王都一のパン職人の誇りによって、完全に清算した勝利の喝采だった。
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